2017年 03月 24日 ( 1 )

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蒋介石による井岡山地方封鎖命令が出された頃、朱徳将軍は広東省から進撃してきた封鎖部隊を切断するための牽制作戦を行おうと、紅軍三個連隊を率いて、南部湖南へ進撃した。

旧雲南軍時代の朱徳の旧友范石生将軍が友情を裏切り、反革命の側へ寝返っていたからだった。

朱徳は彼に教訓を返してやろうと決意した。


范将軍の諸部隊は南湖南のある都市を占拠し、大量の弾薬を蓄えていた。

朱将軍の部隊が突然この町を襲ってきたので、野外で訓練していた范将軍の部隊数個中隊は度肝を抜かれて何もできなかった。

ただちに范将軍の全兵士の武装解除が行われた。

さらに朱徳は数百人の敵兵が講義を聞いている大きな公会堂へ平然と入っていった。

敵兵が机にかけたままびっくりして眺めているあいだに、彼の部隊は公会堂の壁にかかっている小銃と弾薬を取り上げてしまった。

さらに残りの部隊は天秤棒と縄で弾薬箱をせっせと運び出していた。


范将軍の部隊が体制を取り戻すころには、朱徳の部隊は山のような分捕り品をかついで山に帰っていった。

その途中で彼らは二個連隊を率いて救援にきた毛沢東に出会い、井岡山の封鎖がほとんど完璧に近いという報告を聞いた。

彼らは行軍しては重荷をおろして襲撃してくる敵軍とたたかって追っ払いながら、ついに朱徳と毛沢東は曲がりくねった細い道にたどり着き、荒涼たる井岡山の山中に登っていった。


「井岡山の基地から、われわれは、敵軍を、見おろすことができた」と朱将軍はかたった。

「敵の動きは、全部わかった。やつらが、食事のしたくをするのまで、われわれは見張っていた。
月がまんまるくなる仲秋節の最期の晩、われわれは、一つの山道のふもとに露営していた敵軍六個中隊を、捕虜にしようとして、数個部隊を下山させた。
二時間後に、彼らは、敵兵をつれ、その補給物資をもって、山道をのぼってきた。
農民出身のこの六個中隊は、わが軍に参加した。
一週間後には、封鎖部隊一個大隊が、脱走して、わが軍に加わった。
この連中は、四川の部隊で、この私も四川人だということをきいて、やってきたのだった」


9月の終わりには戦線は凍結状態になり、12月になると紅軍は飢餓に悩まされ始めた。

病院や兵舎に充満していた五千人の兵士のほとんどは飢餓から病気になったもので、肺炎や結核にかかっているものもいた。

雨が続き、寒い気候になっていたが、あたたかな服を着ているものはほとんどいなかった。


12月の半ばころ、彭徳懐が千人の兵士を率いて、北方から山岳地帯へやってきた。

彼は四千人の部隊を育てたが、半数は戦死してしまい、千人の兵力を黄公略の指揮下に残し、その残りを率いて井岡山にやってきたのだった。
半数は農民だった。


彭徳懐が到着してから会議が召集され、敵の封鎖を突破する計画がつくられた。

彭徳懐は千五百人の兵力と病人、負傷者を預かって山上に残り、毛沢東と朱徳は政治部の婦人も含めた残りの四千人を率いて封鎖を破り、ゲリラ戦を行い敵軍の勢力を分散させることになった。

この同行した婦人の中に朱徳の三人目の夫人呉玉蘭もいた。


この遠征に参加した男も女も1ポンドの米のご飯を携帯する袋に入れて持っていくことになった。

いくつかの前衛分隊には各人数発の弾薬を支給されていたが、弾薬の残りはすべて井岡山に残しておくことになった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-24 09:00 | 朱徳の半生(改編後削除予定)