2017年 03月 23日 ( 1 )

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朱徳は井岡山の一帯をくまなく踏破して、地形と防御方法を研究し、匪賊になった農民たちの指導者王佐や袁文才と語り合った。

この二人は自分たちと同じ匪賊の一人であった「つんぼの老チュウ」の話を朱徳に語った。

この老チュウはよくこういったそうだ。


「おまえらは、戦さのやり方なんぞ知らんでもええ。おまえらが知っとらねばならんことは、どうして敵を囲むかということだけじゃ」


王や袁はこの教えを忠実に守ったので、彼らの一生のあいだ、井岡山の守りは一度も突破されたことがなかった。

しかも彼らの部下は弓矢などという原始的な武器でしか武装していなかったという。

大砲は中をくりぬいた木の幹でできていて、中に火薬や鉄や鉛の破片を詰めて、敵が近づいたら導火線に火をつけて大砲ごと爆死させた。


朱徳もこの老チュウの戦術から多くのことを学んだ。

国民党軍は前面と左右両翼に防衛隊を配置して、一縦隊で前進するという日本軍が常用する戦術を使っていた。


朱徳たちの軍は、迅速に行動できるいくつかの小戦闘部隊に分散し、敵の背後と両側面へ迂回して急襲し、敵をばらばらに寸断するという戦術をとった。


この戦術は学べば誰でも使うことができたので、軍閥たちもこの戦術を使おうとしたが、結局失敗した。


こういうゲリラ戦には、戦場の地勢についての完全な知識が必要であるばかりでなく、なによりも一般人民の支持が必要だからだ。

人民は、国民党軍閥を憎んでおり、その動静をさぐり、その小部隊や落伍兵を待ち伏せして、殺し、輸送部隊を捕虜にしたりした。

その結果、敵軍は、遠くからやつらの動きを見張っている。

はだしの百姓を、一人でもみつけると、たちまち恐怖におそわれて、前進を中止するという時代がきたわけだった」


紅軍第四軍は1928年の6月の第一週、井岡山周辺の6つの県で、地主と軍閥に対して攻撃を始めた。

たった一週間で紅軍は3つの区から敵軍を一掃し、軍需品を奪い、1200人を捕虜にした。

区役場に人民代表会議が樹立され、各村々にも下級人民代表会議がつくられた。

土地は農民に分配され、農民は武装し訓練された。

婦人や青年、労働者の同盟が建設されて、ここで婦人は男に従属するという昔からのしきたりが取り払われた。


江西省中央部から派遣されてきた敵の諸部隊は追い返された。

子どもも老人もできる限りの働きをした。


その当時大都市の外国新聞や中国新聞には、革命軍のことが「紅匪の残虐行為」として紙面でさかんに活字になっていた。


蒋介石将軍は競争相手の軍閥と一時的に休戦協定を結んで、四万の軍隊で井岡山地方を3つの省から包囲し、「紅匪」を餓死させるように命令した。


この井岡山地帯を北方から封鎖するように命じられた湖南の諸師団の中に二人の若い士官がいた。

一人は大隊長黄公略であり、もう一人は臨時に一個師団の指揮をとっていた連隊長彭徳懐であった。

この二人はその後中国革命の歴史上目覚しい役割を演じることになった。

もう一人若い中隊長クン・ホー・チァンもいたが、1930年代に蒋介石側に寝返ってしまった。

この3人の国民党士官はみな共産党の秘密党員であった。


彼らの諸部隊は井岡山の北方地帯に駐屯していて、封鎖を圧縮するように命じられたとき、彭徳懐は旅団を率いて叛乱を起こした。

混乱状態の後、彭徳懐は二千人の部隊と数百人の鉱夫を引き連れて農村へ入り、ゲリラ地帯を作り上げたのであった。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-23 09:00 | 朱徳の半生(改編後削除予定)