2017年 03月 22日 ( 1 )

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井岡山会議は朱徳の軍と毛沢東の軍を再編成して、一つの軍に統一することを決定した。

この統一軍の隊員は旧第四軍の出身者が多かったので、紅軍第四軍と呼ばれた。

この会議では主たる3つの規則が採決された。

1 農民から、たとえ針一本、糸一すじといえども、とってはならぬ。
2 没収したものは、すべて提出せよ。
3 命令に服従せよ。

これにさらに「借りたものは、すべてかえせ」「こわしたものは、すべて弁償せよ」などの8つの規則が定められた。

この会議では、井岡山をとりまく6つの県や郷を土地革命の基地に転化した上で、さらに江西省や隣接する省内にまだ存在するほかの基地を合体していくことが決定された。
そして土地は補償なしに没収され、農民に分配していき、農民や一般人民は組織されて、武装し訓練を受け、できるだけ教育も受けさせることも決定された。

その当時、朱徳はこういう意見を述べていた。

「われわれには、いろいろなものが必要だが、何ひとつ持ってはいない。
だから、山のなかに野菜畑をつくり、米は、まわりの地主から没収してきて、将来のために、山のなかに貯えるのだ」

軍の再編成に際して、朱徳が総司令官に、毛沢東が政治委員に選ばれ、
毛沢東が紅軍と大衆とのあらゆる党活動と部隊内のすべての政治教育工作を指導することになった。
政治部は軍閥への堕落を阻止する「紅軍の生命線」であった。
朱徳の説明によると、政治部の目的は

「国の解放とわが人民の解放とに献身する、教育をうけた、意識の高い、鉄のようにきたえられた、革命軍をつくることである」

各部隊は革命の歴史、中国に対する諸外国の侵略の歴史、大衆指導と組織化の方法について教えられ、兵士たちは敵に対する宣伝のやり方、歌をうたうことや演説のやり方まで教えられていた。

井岡山にいるあいだに、朱将軍は、紅軍がつかっていた歌をあつめ、それをふやすのに一生けんめいになりはじめた。
1937年には、これらの歌は、彼の上着のポケットに、たやすくすべりこませることができるくらいの大きさの、およそ二百ページの小さな本になっていた。
この本は、ページのすみが、めちゃくちゃに折れ、手あかでよごれ、あるページは、ほとんど読めなくなっていた。


この本には歌や短い詩、紅軍の規則、共産党の歴史と原則についての短い論文、さらに紅軍が祝う記念日の一覧表などが載っていた。
インキのしみだらけの色褪せた赤い布表紙のこの小さな本をやさしくなでまわしながら、朱徳は井岡山の荒々しい岩山や緑豊かな自然をじっと思い浮かべていた。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-22 09:00 | 朱徳の半生(改編後削除予定)