敵の衝突と矛盾 『偉大なる道』第7巻①ー2

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朱徳も毛沢東も、あるいはほかのどの指揮者も、兵士たちと同じ格好をしていたので、まったく区別がつかなかった。

1929年の夏、朱徳をうつした色あせた古い写真がある。

一個中隊の兵隊が、輪になって地面に腰をおろし、膝のあいだに銃をおき、昂然と顔をあげて、朱徳の話を熱心にきいている。

朱徳は輪のまん中に立っている。

頭は丸坊主で、きれいにそりあげられている。

服装といえば、半ズボンと、前にひらいた百姓の上着だけで、その下からはだかの肌がのぞいている。

足も裸足で、わらじをはいている。

いつもの癖で、両足を大きく開いて立ち、手を腰にあてて、顔にはユーモラスな表情を浮かべている。


1929年の早春、東固台地でひらかれた、軍隊と農民とのお別れの大集会で朱徳が演説したときも、きっとこういう様子だったにちがいない。
彼は、この山地要塞めがけて、北、西、南の三方から包囲してくる11個連隊の敵軍について話をした。

その後数年間におそらく千回もかたったように、「われわれは、敵の内部の矛盾を利用し、多数を味方にひきいれ、少数に反対し、こうして敵をひとつひとつ粉砕してゆかなければならない」とかたったことだろう。


事実、敵の陣営内に衝突と矛盾があることについては、多くの兆候があった。

たとえば、だれでも知っているように、東固への東側の入口はまだまったく敵に包囲されていなかった。

蒋介石は敵の広西の将軍と争うことで多忙をきわめていたが、福建軍の諸部隊に対し、ただちに行動をおこして、東固山地の東側面を封鎖するように命令した。

しかし、この命令は守られなかった。


その理由を、朱将軍はこう説明している、「福建の諸部隊にすれば、郷里にのこって平和にくらし、税金を徴集したり、アヘンを売ったりしてもうけていたいからだ」と。

また朱将軍はこうもいった。

蒋介石は、直系の精英部隊を紅軍との戦闘で消耗したくないので、第二級の地方軍に動員を命じたのである。

そこで、紅軍は、これらの敵軍をこの山地からひきはなして、ひとつずつこれを撃破するために、いまや前進を開始したのである。



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by far-east2040 | 2018-11-16 09:00 | 第7巻「上杭の歌」改編