南昌でのはたらき 『偉大なる道』第5巻②ー5

f0364260_19151539.jpg
             方志敏(Wikiより借用)


南昌における反動派は、数からいえば弱小だったが、政治的には強力だった。
というのは、彼らは、高級軍人や、官吏や、豪商や産業資本家でありーーそのうちの多くは、同時に地主でもあった。

大衆運動をさしはさんでの、国内戦線の分裂が激しくなるにつれて、こういう人間たちは、漢口の国民政府ではなく、蒋介石が指導してくれることを待望した。

朱は、南昌国民党中央委員会に席をもっていたので、彼らが進めてゆく計画を知ることができ、彼らが、農民や労働者の組合を、弾圧するのか、軍事行動の補助機関にとどめるかにせよ、たえず索道することに対して、抵抗することができた。

彼らがとくに敵意をいだいたのは、農民運動講習所であったが、そこでは、少数の女をふくめた6百人の農民が、全省の各地から寄り集まってきて、農民指導者となる訓練をうけていた。


朱徳が監督するあらゆる施設で教えたことは、孫逸仙が生前に宣布した基本的な政治題目であって、それは、大衆組織の方法、三民主義、三大政策、革命の歴史、それからいくらかの世界と中国の歴史、などであった。
軍官学校では、時間の大部分は軍事教育にふりあて、他の施設では、大部分は政治問題にふりあて、課外にいくらかの軍事を教えた。
農民は、とくに大衆組織の方法についての訓練をうけた。


南昌時代には、個人的問題を考える暇が一瞬たりともなかった、と朱徳はいった。

夜明けから深夜まで、軍事と警察の両学校の運営をして、農民運動講習所で教える部下の仕事を監督した。

何か特別な意味のある日には、それらの学校で演説をしなければならなかったし、毎月曜の朝には、軍官学校で、孫逸仙追悼の式をおこなった。

国民党の諸会合にも出席しなければならないと感じたし、さらに共産党の会合があり、そこではたとえば、労働者と学生の特別グループの組織運営の問題などを話し合い解決しなければならなかった。


そうした共産党の会合の多くは、方志敏が校長である農民運動講習所でひらかれた。

彼は工業技師として教育を受けていたが、中国が生んだ最も有能な農民組織者であり指導者であった。

そして指導者のひとりだった1919年の五四運動の時に、共産党員になった。
朱の話では、方はそのころ30歳ぐらいで、背が高くたくましく、公衆の前での演説はまずかったが、会議の席上では光彩をはなった。

全国の5万の共産党員、3万5千の共産主義青年団員のうち、約1千人が南昌とその周辺にいた。
そのいくらかは学生だった。
他は、鉄道、ドック、河川、製陶などの労働者だった。

党各支部の中央理論機関はそれぞれ小新聞、パンフレット、冊子などを出し、研究グループと学校をもっていた。



[PR]
by far-east2040 | 2018-08-02 09:00 | 第5巻「大革命について」改編