新軍官学校校長 『偉大なる道』第5巻②ー4

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              朱培徳(Wikiより借用)


朱将軍と40人の政治委員が楊森の軍から脱出して武漢についたのは、「鉄軍」が再編成を終わって、軍閥呉佩孚の傭兵を湖北から放逐する準備をしていた、その直後だった。

その当時、この軍の兵士のうち約30%は共産党員であり、政治部の強力な浸透方策は、さらに多くを引き入れつつあった、と彼はいった。
彼が「鉄軍」の指揮者のひとりになることを希望していたのは、ほとんど疑いなかったが、国民政府は、彼を新設の軍官学校の校長に任命した。
それは揚子江中流の江西省の首都南昌に、彼となじみ深い雲南軍が最近設置した学校だった。
その旧雲南軍は、第三軍と改名し、後には蒋介石によって
五路軍と名を改められたが、当時この軍を指揮していたのは朱培徳将軍で、彼は、ずっと漢口国民政府の命令に従ってはいたが、しだいに蒋介石の政策への傾きを強くしていった。
この軍は、江西省の各地に駐屯し、軍官学校を南昌に設けてはいたが、朱将軍は、漢口政権の命令によって、彼の下にくるべき学生の政治教育を強化することになった。


新軍官学校の1300人の学生は、分隊長、小隊長、中隊長たちであったが、彼らは、8ヵ月の在学期間中は、南昌守備隊として服務し、国民党右翼のサボタージュに抵抗する大衆運動を擁護する、という任務をおびていた。
それで朱徳は、自動的に南昌守備隊長にもなった。
それだけでなく、すべての治安機関を統一するために、朱徳を南昌の公安局長にも任命した。

さらに朱は、命令をうけて、南昌警察官のうち400名の訓練学校をつくって、大衆運動を守る訓練を与えることになった。

これらのさまざまな地位によって、朱は、国民党の南昌中央委員会の一員ともなった。


既教育幹部、つまり訓練を受けた士官の数は、じつに少なく、全国の要求を満たすにはとうてい足りなかったので、南昌軍官学校の教官となった黄埔軍官学校出身の若い候補生たちは、それぞれ3人分の仕事をしなければならなかった。
軍官学校で教えながら、同時に、警察訓練学校と、国民党が占領地区ごとに設けた農民運動講習所で、教えなければならなかった。
これらの幹部の、一部は共産党員であり、一部は国民党左翼だった、と朱徳はいった。
彼らの任務は、革命のイデオロギーの戦線をかためることであった。



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by far-east2040 | 2018-08-12 09:00 | 第5巻「大革命について」改編