毛沢東と陳独秀 『偉大なる道』第5巻①ー14

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             陳独秀(Wikiより借用)


朱徳は、そうした悪辣(あくらつ)な暗流について鄧演達たちと語るとき、ふたたびむかしの悲観にとらえられそうになるのを感じた。
こうした絶望不安のどん底から、彼は手を差し伸ばして、おぼれるもののように、ヨーロッパ時代に研究した革命理論によりすがろうとした。
そして、中国人のみが中国を救うことができるのであり、共産党のみが貧しいものの党であると自分にいいきかせた。

ところが党は、もちろん革命理論にもとづいて指導されてはいたが、何といっても歴史は浅く、経験はすくなく、その上、当時は、容易だった勝利に酔っていた。
大海洋のごとき中国のなかで、ほんの5万人ばかりの党員をもっていたにすぎず、共産主義青年団にいたってはさらに少数であり、また彼らを訓練する時間もなかった。


共産党の指導者たちは、ただ国民党が権力を握っているというだけの理由で、国民党の指導の下にくっついて歩いていて、革命の根本問題についての主導権を要求することはしなかった、と彼は腹立たしげにいった。
彼が「右翼日和見主義」と呼んだこのことは、党書記長陳独秀の仕事であった。
陳は、知識人でありかがやかしい文化指導者であったが、土地問題や農民革命についてはほとんど理解していなかった。

また彼は、毛沢東の「農民革命を拡大し、農民と労働者を武装させよ」という要求を、何度もしりぞけた、と朱将軍はつけ加えた。

陳は、1927年5月に武漢でひらかれた第5回共産党大会では、毛の農村問題を討議にあげることすら拒んだ。
朱徳は、陳に対するロシア人顧問たちの影響は問題にしないという態度を見せながらも、はっきりと、中国の革命は、中国人によって純粋に中国的な問題として問われるべきだ、という彼の理念を強調した。


朱自身は、当時はさほど重要な人物でもなかった。
仕事は持っていた。
その仕事の成功については信じていなかったとしても、彼は、足下の台がすっかり打ち砕かれてしまうまでは、断念しないであろう。
鄧演達は、楊森将軍の軍が国民党に協力することを承認しただけなく、朱に命じて、3、40人の政治工作員を探し集めて、四川に連れてゆき、楊の軍に政治委員制を導入させようとした。





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by far-east2040 | 2018-08-09 09:00 | 第5巻「大革命について」改編