若き毛沢東の論文 『偉大なる道』第5巻①ー9

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             若き毛沢東(『抗日解放の中国』より借用)


自分が農民出身だったので、彼が注目したのは農民運動だったが、それは中国南部に大洪水のようにひろがって、幼い労働運動とともに、国民軍の高級士官――彼らは、地主だったり、地主や商人の買弁の家族出身だったーーを、恐怖におとしいれたのであった。


朱将軍は、毛沢東が書いた、いくつかの農民運動についての論文を読んだことを記憶している。
毛沢東は、まもなく、彼の「第二の自己」になり、それからの彼の生活は、毛の生活と、じつに密接に結び合うことになったので、人びとは、長い年月のあいだ、しばしばふたりを、「朱毛」という名のひとりの人物だと思いちがいしたことすらあった。


この毛沢東という人物は、教育を受けた農民であり、1911年の革命には一兵卒としてたたかい、「五四運動」のときには、郷里の湖南省で、指導的なはたらきをし、その省で、はじめてのマルクス主義研究団体をつくり、やがて省の共産党のグループをつくった。

そして、1921年7月1日に、中国共産党の創建大会には、代議員として出席した。

この毛沢東といえば、ふしぎなほど学識があり、深い思索力をもっており、新聞雑誌の編集者、評論家、詩人であり、1925年には、彼の省で、最初の農民運動の地下組織の基礎をつくった。
孫逸仙が広東政府を樹立したときには、それに協力して、最初の、農民運動講習所を開設し、国民党の執行委員会の一員にもえらばれた。


孫逸仙が広東省に植えつけた農民運動は、となりの湖南省にあふれ出してゆき、そこでは、広東の同志からの刺激によって、農民組合および、農民自衛隊の形をとるまでになったが、地主階級と地方軍閥は、北伐の前後で、封建主義特有の蛮行で農民運動に戦いをいどんだ。

しばしば激烈な戦闘をまじえて、無数の農民がたおれ、農民の組織者や指導者は、闇のうちに連れ去られたり、首をはねられたりして、地主たちは、いつも山地から匪賊をまねいて、闇夜に乗じて村を焼かせ、農民を殺させた。



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by far-east2040 | 2018-08-01 09:00 | 第5巻「大革命について」改編