ソ連との同盟 『偉大なる道』第4巻②ー9

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              ミハエル・ボロディン(Wikiより借用)


いままでの37年の革命的健闘のあいだ、孫逸仙は、イギリス、フランス、アメリカの援助を期待し、もとめてきた。
個人的に同情し援助したものはあった。
しかし、これらの国の銀行家、政府、および中国国内外の外字新聞は毒舌を浴びせかけ、「不平家」「夢想家」「広東製理論派」「官職にありつけないで腐った人」などとよばれた。


1923年、長い交渉ののちに、孫逸仙はソ連との同盟をむすんだ。
新ソ連政府は、民族の平等と植民地民族の独立権を宣言した。
またソ連政府は、すべての不平等条約、中国政府と旧帝政政府との間に結ばれた協定、さらに中国に関して、いかなる列強といっしょに結んだものも、廃棄してみとめないとした。
孫逸仙は、同盟の一環として、軍事と政治の顧問を公式に招いた。
ミハエル・ボロディンが、彼の主要な政治顧問になり、ガロン将軍が主要な軍事顧問になった。


諸外国の政府と中国国内の外字新聞は、待ってましたとばかりに孫逸仙と彼の政府に「赤」「過激派(ボルシェビキ)」の刻印を押した。

もとから彼にしたがってきた人たちのあいだですら、多くのものが、彼が労働者と農民を保護し向上をはかることを、外国の模倣とし、虎豹を野に放つように危険であると考えた。
こうした、地主や商人や資本家出身の連中は、まもなく、農民組合が農民自衛隊を組織して、小作料の25%減と土地収奪の禁止を要求してたちあがり、「耕すものに土地を」という恐るべき叫びをあげるのをきくのであった。

農民運動が発祥した広東省では、地主と彼らの武力「民団」は、地方軍閥とむすんで、武器をとって農民とたたかった。
中国農民革命は、こうしてはじまった。


とにかく、1925年3月に彼が亡くなるまで、孫逸仙は、あらゆる民族革命の勢力を統一していた。
ただ彼の死とともに、彼にしたがっていたものの多くが、軍閥と帝国主義への抵抗運動の基礎としての「三大政策」の廃止をもとめつつ、公然または秘密の徒党をつくったのである。



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by far-east2040 | 2018-07-13 09:00 | 第4巻「探求」改編