ゲッティンゲン大学政治学科 『偉大なる道』第4巻②ー7

f0364260_09433828.jpg


「私が、ベルリンを、もう十分知りつくしたので、他の都市や産業施設も見学しはじめたとき」と朱将軍はいった。
「私は、日ごろの、資本主義は中国を救うことができるという信念を、うしないはじめた。
もし、ドイツのように、熟練し、訓練を受けた、教育がある、組織化された労働者階級があって、高度に組織的に産業化された国が、あの時のドイツのように敗北国となることがあるとすれば、中国がそのあとを追うことは、ばかなことだろう。
私は、カッセルですごした1週間のことをおぼえているが、そのとき私は、銑鉄の状態から完成した機関車に仕上げられたものが、レールから続々と出てくるのを見た。
ドイツで見たどんな文化施設よりも、深刻な印象を私はそれから受けた」


4年後にドイツを去るまでに、朱徳は、ドイツのほとんどすべての重要都市をおとずれ、主だった産業施設を見学し、さらにライン湖畔や、ハルツやババリアの山地を歩いた。
週末ごとに、また祭日ごとに、地図や、丹念に観察を書きとめたノートでポケットをふくらませた彼が、路上をゆく姿を、人びとは見ただろう。
最後に切り上げたときには、ひとつのトランクが、ノートとドイツの地図や案内書でいっぱいになっていた。


彼は、1923年のはじめにベルリンを去って、ゲッティンゲン大学の政治学科に入ったが、そこには多数の中国人学生がきていて、もっとも強い共産党支部があった。
なお、彼は、旧皇帝の軍の将軍であった某男爵の家に寄寓し、彼から軍事学についての個人講義をうけた。


朱将軍は、侮蔑感で唇をねじ曲げながら、この貴族のことを思い出した。
というのは彼は、授業料と部屋代を中国の貨幣ではらってくれと要求し、1講義2元と決まるまでには数時間の押し問答があった。
1つの講義が終わるたびに、男爵は金を請求しながら、自分のような身分と知識をもつものにとっては、あまりに安すぎる、といったが、それに対して朱将軍は、率直に、ほとんどすべて、すでに知っていたことを教わったまでだ、と答えた。


彼は、ドイツ語の猛勉強もやり、あらゆる講義に出席もしたが、その大学でまなんだものよりも、中国共産党支部の週3回の夜の討論会でまなんだことの方がはるかに有益だと、感じた。

『嚮導』――中国における共産党理論の指導的刊行物は、過去および現在の中国革命の諸問題についての研究資料を提供しつづけていて、パリの共産党支部が出す中国語新聞は、国際情勢に関する特集をのせ、世界のニュースの概括を提供していた。



[PR]
by far-east2040 | 2018-07-11 09:00 | 第4巻「探求」改編