蔡鍔の決意 『偉大なる道』第3巻①ー6

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            蔡鍔と袁世凱(ネットより借用)



朱将軍がいうには、雲南は国政の舞台からかなりかけはなれていたので、やっと1913年の12月になって、ある人物が袁にむかって、まだ雲南には蔡鍔(さいがく)という「危険な傑物」が野放しになっているが、ああいう人望が厚く、術策にたけた人間は、北京に置いて監視するのが賢明だろう、と警告した。

それで袁は、蔡を暗殺はしないで、北京にくるよう、そしてーー事もあろうに、耕地整理局長と軍事顧問を兼任するように命じた。


雲南の秘密共和党員たちは、何度か小さな秘密会議をひらいたが、結局蔡は、ただちに北京に向かう、と打電した。
もし彼が拒絶すれば、雲南は袁の軍隊にふみにじられ、蔡は殺されるか亡命するかの運命になっただろう、と朱将軍はいった。
蔡の旧師梁啓超は、北京政府の官位についていたので、彼の生命は守ってくれるだろう。
蔡の意図は、雲南の革命的政権を温存しておき、共和派が崩れた陣容をふたたび整えるまで、省を国民党の勢力下に置いておこうということにあった。


雲南を去る前に、蔡は、朱徳が一士官であった第一師団を、フランス鉄路の沿線および国境線に沿って配置することにした。

というのは、あらゆる帝国主義者らは、袁の権力把握に後押しされて、またもや暴れだして、フランスは匪賊や蕃族に武器をあたえ、インドシナを荒しまわらせ、そこでフランス軍は彼らを追い返すという口実をつかんで、雲南に攻めいり、そこを取ってしまおうというのが本心だった。

朱徳は、つづく2年間を、立派なフランス製の銃をもつ匪賊蕃族と戦いながら、彼らの雇い主が中国領土内に占領の手をのばそうとするのを妨害することですごした。


その国境での2年間は、彼にとって暗くみじめな日々だった。

彼がいうには、雲南の南部は、高山が立ちならぶ、むしむしする熱帯的風土で、瘴気(しょうき)にみちた谷間におりたまる濃い霧は人びとの胸を病ませ、水がひどく悪くて、みなが胃腸をこわしてしまうのであった。



彼は、ときどきは蒙自まで旅をしたが、そこで手紙や新聞や、ときには家で彼を待つ妻からの手紙を受け取った。

新聞は力づけてはくれなかった。

気がくさるような記事ばかりだった。

中国には一筋の光明もささず、西洋諸国は、第一次世界大戦で殺し合いをやっていた。



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by far-east2040 | 2018-06-21 09:00 | 第3巻「災厄と禍害」改編