『偉大なる道』にまつわる遺伝いろいろ

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最近、元力士と綺麗な顔立ちのアナウンサーを両親にもつ息子が、靴職人というユニークな職業についたという話題を知って、「いい仕事えらんだな」と感心したり、顔立ちや雰囲気が両親に微妙に似ていて、DNAがもたらす不思議さを感じた。


いくつあるかわからないけれど、子が展開していく心身+その後のαは、両親から受けついだものにかなり強く左右されるという確信をもっている。

身辺や、子育てを通じて見えた景色や、見たり聞いたり読んだりを通じて、そう考えるようになってきた。


一昔前は「氏より育ち」という言葉があったが、今は「環境よりDNA」だと思っている。

たまたま両親のどちらかから受けついだDNAの方が、環境よりその人物の人生にあたえる影響力は大きいと思う。

ある人物の秀でた面を考えるとき、どういう両親でどういう環境で育ったかは興味ある情報だ。


「こんなこと当たり前じゃない」と思うのだが、歴史的に根強い差別のもとで、数代続いてきた劣悪な環境を、急ピッチで改善していこうとする運動を近くでながめて以来、懸案事項として頭に残ってきたが確信がもてずにきた。


この運動は、教育環境の改善のために、行政の協力のもとに相当な予算をつぎ込んできた。

行政から予算を合法的かつ持続的に取り込んでいくための理屈として、急速に環境を変えたら問題は解決されると考えていたようにも見えた。

もちろんひとりひとりの学習への動機付けもしていたけれど、限界が感じられるし、当時日本全国どこでもなされていたように、予算をとるために非効率的なお金の使い方をしていたなと振り返られる。

過ぎ去った過去の悪い具体例なんて枚挙にいとまがない。

こういう場では「環境よりDNA」とはいえない雰囲気があった。


それと遺伝に関しては、長男は母親、長女は父親に容貌、雰囲気、「好きなもの、好きなこと」が似ていている傾向が強くて、次男次女はその逆、三男三女以降については情報不足でなんともいえないという自論をもっている。


これを否定する人いるかな? 個人的には8割、9割であたっていると思っている。


『偉大なる道』で朱徳の人生を味わっていると、この遺伝について考えざるを得ない事例を発見することが何度かあった。

朱徳は、何代もつづく農民一族の出身という環境から考えて珍しいほど音楽がそれなりにわかる人だった。

スメドレーもこの件については、母方の影響を考えていた。


「朱家の子たちは、民謡をうたったり、手に入るものならどんな楽器でも鳴らしたりして生長して行ったが、それについては、おそらくチュン家の血が物をいっているのだろう。」


朱徳の母親は旅芸人の娘で、やさしい性格の持ち主でもあり、三男の朱徳は「母親似」と客観的に自分を語っている。

父親はすごく乱暴でむごい人で、朱徳は儒教社会の習いで形式的には敬意をはらっていたが、内心は嫌っていた。
後年は、父親の乱暴さは多くの人民と同じく、封建社会の貧苦のなかで形成されたものと理解し同情していた。


長男は笛や胡琴を上手に演奏できて、記憶力が優れていたので、塾では要領よく勉強して、残りの時間は短い歌を習いおぼえては笛で吹いたりした。

次男は乱暴者で小鳥を殺しては喜んでいるような子で、朱徳を悲しませた。

家族の決断ははやい。


「まったく頭が悪かったので、彼の家ではすぐに彼を退校させ、畑ではたらかせることにした」
という。


三男朱徳は塾で熱心に勉強し、長男の楽器の演奏をききながら、自分でも演奏できるようになった。


朱徳はまじめな人間だ。

その後科挙受験の勉強をしたり、家族への仕送りのために体育の先生になったり、儒教社会の規範の一つ「親への孝行」を「国への孝行」にシフトさせて、軍人になり、辛亥革命で活躍する。

革命後の挫折の日々に、再婚した女性とつかのまの安らぎをえる。


「ユ・チェンは琴を弾じ、朱は笛を吹き胡琴をかなで、後には他の楽器類を買いもとめて修得したが、その中にはオルガンもあった。」


軍人であり、写真を見る限りどこまでも農民らしい粗野な朱徳が、オルガンをひけたなんて想像しにくい。


その後フランスをへてドイツに留学する。

彼の友人たちにとって退屈であるか、大きな音を鳴らす騒音でしかなかった歌劇や演奏会に熱心にかよい、ベートベンが好きになったという。


「朱徳にとっても、演奏会や歌劇は、はじめは、一個のでかい騒音だったが、まずメロディーやモティーフをとらえることができると、やがて全体を貫流する創造的な想像力の調子をとらえることができた。それでも、夜の眠りに入ろうとするときなど、夢うつつの中を、創造の朝とか軍隊の行進とか人間の必死の奮闘、そうしたものを思わせる雄大なもののひびきが流れるのであった。」


ドイツで政治活動を続ける朱徳は3回警察につかまり、2回は領事館が介入してすぐに釈放された。
3回目のときも楽観して拘禁生活を楽しんで睡眠不足をとりもどした。


「……毎朝、守衛が私の小さな房に入ってきて、うすいコーヒーの入ったブリキ缶と黒パンの一かたまりを置いた。私はそれを平らげると、運動をやり、しばらく歌をうたって暇つぶしをし、それからまた寝た。……」


ちょっとしたミュージカルを思わせる。

『偉大なる道』での名シーンのひとつととらえている。


土地革命を実施していくなか、ある地方では、貧苦のため男たちが海外に出稼ぎに出て、残された女たちは男の仕事をしながら、たくさんの「恋慕の歌」をつくった。
なかでも「いとしい人」という言葉ではじまる歌を聞いた兵士は、自らの境遇を重ねてすすり泣いたらしい。


「朱将軍はたちあがって、私の部屋の小さいオルガンのそばにゆき、この民謡をうたいはじめたーー」


朱徳はなんと弾き語りができた! 両手で弾けたのかな。

朱徳とスメドレーと通訳の3人と音楽が流れる名シーンだ。


やがて、毛沢東の軍と合流し、井岡山を拠点にして紅軍を結成したのだが、忙しいあいまをぬって、朱徳ならではのことをしている。


「井岡山にいるあいだに、朱将軍は、紅軍がつかっていた歌をあつめ、それをふやすのに一生けんめいになりはじめた。1937年には、これらの歌は、彼の上着のポケットに、たやすくすべりこませることができるくらいの大きさの、およそ2百ページの小さな本になっていた。この本は、ページのすみが、めちゃくちゃに折れ、手あかでよごれ、あるページは、ほとんど読めなくなっていた。」


朱徳のこのノートはいまどこで保管されているのかな。

この本には当時のことだから、とうぜん『インターナショナル』も入っている。

中国映画『黄色い大地』で若い紅軍の兵士が地方の寒村にやってきたのは、貴重な歌を収集するためだったはず。
朱将軍もすすめているという内容のセリフがあったと記憶している。

すべてがつながってゆく。


「インキのしみだらけの色あせた赤い布の表紙をし、粗末なとじ方をした、この小さな歌の本を、やさしくなでまわしながら、朱将軍は、井岡山のあらあらしい岩山や、青々とした緑の谷、竹の林や、もみの森、潅木とかぐわしいさまざまな花、ほとんど一年中、山々をつつんでいる白い雲などを、じっと思いうかべていた。」


民俗学者のようなことをしている!


当時は人民が歌をうたうということはほとんどなかったらしい。


「……まさに革命こそが、人民のエネルギーを解き放ち、ありとあらゆる歌を生み出せた。

……人民に合唱することを教えたのは、紅軍であった。

……」


こういうことは朱徳だけの功績ではないが、ずっと見てくると、朱徳の母親の影響はゼロとはいえない。

「環境よりDNA」の影響の方が強いと思っているが、それだけで人生は決まらないこともわかっているので悲観することもない。

ただ震災以降、このDNAが外部から攻撃を受ける時代になったということで、より複雑になってきている感じがして気分は暗い。



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by far-east2040 | 2017-11-04 11:42 | 『偉大なる道』