蒋介石の陰謀 「偉大なる道」⑤―2

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マーシャル将軍は1946年3月初旬ワシントンに行き、5億ドルの借款を請求した。
これは12月15日のトルーマン大統領の声明によれば、新しい民主政府だけに与えられるはずだった。

  

ところが国民党反革命の武器庫には、マーシャルが想像もしないような謀略が隠されていた。

マーシャルの不在の間に、国民党中央執行委員会は秘密会議を開き、重慶協定の決定を廃棄した。

国民党は行政部門が国会に対して責任を負うという原則、つまりこれは蒋介石の独占を奪うものであったが、この原則を否認したうえ、新しい連合政府におくる自党の代表者だけでなく、他党の代表者までの任命権を要求した。


国民党がどんな政府を考えていたかということは、共産主義者に農林部長の地位を割り当てたことではっきりした。

この地位はこれまでずっと現役を退いた軍閥の収容所だったからだ。

民主同盟の一人は教育部長の地位が提供されたが、彼は「私はこんな地位より命の方が大事だ」と回答した。


共産党と民主同盟は国民党のあらゆる申し入れを拒絶して、一月協定の完全履行を要求した。

しかし国民党は単に協定の取り決めを廃棄したばかりでなく、共産主義者の掃蕩を目標とする秘密計画の具体化に着手した。


その計画は3つの段階に分かれていた。

第一の準備段階では、民主同盟に指導される国民党地域の民主運動を買収によって沈黙させるか、テロによって破壊する。

そしてアメリカの目に、中国問題が中国人民の民主主義のための闘争ではなく、国共のぎりぎりの権力闘争として映るようにする。

そうすれば、全能のアメリカがどちら側につくかは明らかだったからだ。


共産軍に対する掃討戦になる第二の段階は7月半ばに開始されることになった。


この第二段階はそのまま次の第三段階である米ソ戦に移っていく予定で、この戦争でアメリカが勝って、中国と世界の有産階級に対する共産主義の脅威がついに永久的に取り除かれるというのが国民党の確信だった。


蒋介石はこの当時「3ヶ月準備して、あと3ヶ月で共産主義者を絶滅する」と豪語したと伝えられる。


朱徳将軍がこの陰謀の詳細を知っていたことは、五四運動記念日の民衆大会での彼の演説で明らかであった。

彼は重慶協定はこの陰謀のためぶちこわされたとのべた。


「まだ闘争に勝ってはいないが、しかし全中国人民がこの陰謀をやっつけることを確信して疑わない」


1946年3月から7月にかけて、秘密計画の第一段階が実行された。
満州と華北一帯にわたって戦闘が続いているとき、国民党地域では秘密警察のテロ時代が出現した。

反対派、とくに民主同盟の新聞雑誌社は平服の秘密警察の暴徒に襲われて破壊された。

印刷工や編集部員が殴打され、多くの記者が誘拐されたり殺されたりした。

西安では、秘密警察が民主的日刊紙の印刷工場を破壊し、幹部を殴り、主筆を射殺した。
事件を告訴した弁護士ワン・エンはとらえられて処刑されたが、国民党はあとで彼は阿片吸引者だったと発表した。


上海の北の南通市では、国民党軍と新四軍とのあいだの戦闘を調べに休戦班が来ることになっていたが、秘密警察が住民に家の中にいて証言しないように強要した。

ところが町の人々は休戦班を歓迎に出て、20人の教師や著述家や新聞人が証言した。

この20人は翌日姿が見えなくなった。

16人の死体はついに見つからなかったが、4人の縛られた死体が数日後に近くの川で発見され、その身体は切りさいなまれ、眼はえぐり取られていた。


広東では、秘密警察がすべての書店と文化団体を襲って閉鎖し、アンラ物資にからむ官庁の腐敗を暴露した2つの自由主義日刊紙を破壊した。
これらの新聞は、一隻分の救済米がそっくり国民党第五十四軍にわたっている事実をつきとめたのだった。

数百袋の米がなくなっていることを記者が指摘すると、アンラの中国人役員はすまして答えた。


「強い風が吹いてきて、米袋が海に飛ばされた」

                         紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-06-10 08:06 | 朱徳の半生(改編後削除予定)