日本軍国主義と米ソの思惑 「偉大なる道」③ー1

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朱将軍は生え抜きの軍人そのものだったが、人類の歴史上最も偉大な闘争の一つのまっただ中に立っていることをはっきりと自覚する想像力を持っていた。


彼の机に届く書類や国際社会に見られる動きのほとんどすべて、国籍や人種の境界を越えて階級は階級を呼び求めるという彼の確信を裏付けたのであった。


机には華北の日本軍部隊が出した布告の写しがのっているが、それは彼らが「重慶政府軍政部長何応欽将軍から中国共産匪を攻撃する命令を受けた」ことを明白に語っていた。

山東省チャンエンからきた分は、多くの日本軍部隊は「将来の中国国軍に編入されるだろう」とさえいっていた。


書類の間に民族主義的な大新聞『大公報』が一部あるが、それは日本の降伏は「一時的な休戦」に過ぎなかったと叫び、重慶は「日本人戦犯や傀儡中国人やその他の反逆者に対して何らの措置をとらなかった」ばかりでなく、「彼らを解放区の中国人との内戦に使ってさえいる」と糾弾した。


延安の日本共産党指導者岡野進は、8月24日、連合国に呼びかけたコミュニケの中で、天皇ヒロヒトの最近の「詔勅」は「日本の敗戦を否定し、中日戦争の責任を否定し、将来の復讐の準備さえ意味するような隠微な言辞」を含んでいることを警告した。


岡野はまた日本の新しい内閣について警戒した。


「いったい誰がこの戦争犯罪者や反民主主義的軍国主義の一団に、戦争犯罪者の厳罰、日本の完全な非軍事化、および民主的政府の樹立を要請するポツダム宣言の実行を期待できるだろうか。

断じてできない! 

日本軍国主義は皇室を煙幕に利用しているのであって、反動勢力はその背後で彼ら自身を温存するために連合国に協力しようとするだろう」


これが岡野の中国での最後の声明だった。

これを発表したすぐ後、彼は延安で改心した二百人の日本人捕虜といっしょに華北を通って、途中の解放区根拠地で仲間をひろいながら、日本への帰国の途についた。


8月半ば、「大嵐」がまた延安にやってきた時から、情勢は新たな段階に入った。

アメリカ駐華大使パトリック・ハーレイ将軍は1944年11月に、飛行機で最初の延安訪問をした。

彼は機から大股で出てきて、毛沢東や朱徳その他の人々と握手しようとしたとき、勇ましい掛け声を発したものだ。

地球上で一番金持ち国の代表であるハーレイ将軍がマルクス主義を知らないことといったらひどいもので、この将校は延安を訪れたアメリカの出版関係の人にいろいろ世の中のことを教えてもらったが、最後に出版関係の人が帰るときいったものだ。

「もひとつ聞きたいのだが、マルクスというのは、ロシアの最初の独裁者だったんですか」


ハーレイが延安に来たのは、毛沢東をつついて、蒋介石と国内問題について交渉させるためだった。

毛は五項目の取り決めを提案した。

(1)日本を撃滅し中国を再建するための国共軍事統一。

(2)連合政府、および統一された全国軍事委員会の設置。

(3)連合政府は孫逸仙の考えたような民主的なものであること。

(4)抗日諸勢力は、統一された全国軍事委員会に服従し、またそれによって賄われること。

(5)すべての抗日政党が合法的に認められること。


ハーレイはどれもみなもっともなことだから私自身でサインしておこうと大声で宣言し、そして噂によると、非常に派手な身振りでサインしたそうだ。


あとで、毛沢東が朱徳に「あいつは道化役者だ」といった。

そこで重慶では「大嵐」といわれるハーレイが、延安では「道化役者」と呼ばれるようになった。


ハーレイ将軍は自分のことを「共産主義者の親友」で、親切な仲介者といっていたが、共産主義者はアメリカの本意が国民党支持にあることをしめす多くの兆候を見抜いていた。

彼らは、最後の土壇場にそなえる準備をした。

しかし、中国問題をめぐる1944―45年の米ソ交渉によって「待った」をかけられた。

共産主義者として、彼らがソビエトの世界情勢分析に背くことができないのは当然だった。

ソビエトが重慶政府と条約を締結し、スターリンとモロトフがモスクワでハーレイ将軍に保証を与えたことは、モスクワがこのとき中国を米ソ角逐の舞台にすることを望んでいないこと、そして中国共産主義者にも、できるなら協調を望んでいることを強く暗示したものであった。



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by far-east2040 | 2017-06-07 22:03 | 朱徳の半生(改編後削除予定)