1945年・日本の敗退 「ひとつの秘密の兵器」④ー1

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決定の年となる1945年は、軍隊と華北人民の当面の四大任務に関する毛沢東の声明とともに明けた。


(1)解放区の抗日工作者を強化すること。

(2)日本軍占領地域の人民を組織すること。

(3)国民党地域の人民を援助して遊撃隊を組織させ、他の諸力とともに、日本と戦わせること。

(4)連合国と協力して攻勢的に戦争をつづけるために、連合民主政府樹立の全国的運動をはじめること。


朱将軍はこの毛の声明を支持して、重慶が民主主義的施策をとりいれる場合にはじめて国は戦争で適切な役割を演じることができること、連合国の勝利の遅速は連合軍の海陸の攻撃と同時に、中国の戦争努力に相当大きく依存することを表明した。


しかし、スティルウェル将軍の召喚以後と、とくに4月にルーズベルトが死んだ後は、朱徳と毛沢東は全国の進歩的な人々と同様、有益な同盟者としてのアメリカを信用しなくなった。

それでも朱と毛は戦い、連合国からの全面的な協力を求めたが、ヒマラヤ山脈と新設のビルマ路を越えて中国に流入するレンド・リース物資を1つも受け取ることはなかった。

胡宗南の反共軍20万は依然として延安辺区の封鎖を続けていたし、もはや外国人記者の解放区視察も許されなかった。


日本の敗退が続き、本国が厳しい餓えに苦しみだすと、中国にいた日本軍は人間いなごになって、いたるところの収穫を掠奪して食いつぶした。
解放区に対する彼らの襲撃はとくに常軌を逸した精神状態になり、凶悪きわまるものだったが、共産軍は連合軍の勝利につれてますます大胆になっていった。


山東省から朱徳の司令部に入ってきた報告では、新たに面積2万平方マイル、2万の部落の人口9百万が解放区に入った。

山東省の海岸線5百マイルも奪回されて、沿岸では八路軍「海上遊撃隊」が活動していた。

この報告から典型的な一節を引用してみよう。

「山東解放区。

選挙された村政府は地代、利子を引下げ、賃金を引上げた。

軍、人民および地区政府の生産的努力によって、食糧その他物資供給の困難が克服された。

広大な基地を回復した。

掘った井戸数13,031、しゅんせつした河床の長さ290マイル、新たに掘った灌漑水路21マイル、互助社数62,000で参加農民数283,000人、3行政地区の労働英雄1,012人。

……ひんぱんな敵の掃蕩行動も、生産と文化再建を停滞させなかった。現在解放区には初等教育8,134校(生徒数471,158人)、中等学校17校(生徒4,000人)があり、成人文盲教育のための夜学校は無数にある。

どの村にも壁新聞、村劇団とヤンコ隊(ヤンコは、抗日戦争中解放区で始められた歌舞激。昔からの田植行事をもとにして、つくり変えたもの)がある。

軍は耕作と収穫に大きな労力を提供している。

17の軍医療所が昨年22,000人以上の民間人を治療した。

伝染病の発生した村には、臨時軍病院が設けられた。

軍は人民のために紡車と農機具を作った。

公私100ヶ所の工場で、鉄線、石鹸、絹布、アルコール、薬品、煙草、硫黄などを生産している。

価格は20パーセント低下した」


内蒙との境にある山西・綏遠解放区からの報告書では、「人民義勇軍英雄」の会議を開催したことや、戦利品を配当する「破壊合作社」が盛業中といった報告がみられる。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-06-05 07:43 | 朱徳の半生(改編後削除予定)