靴屋でも三人寄れば諸葛亮 「ひとつの秘密の兵器」③ー2

f0364260_15100315.jpg

スティルウェル召喚のあとをアルバート・ウェデマイヤー将軍が継いだとき、アメリカの対中華政策が変わってきた。

蒋介石と国民党右翼とにとっては青信号が出たことになる。

『ニューヨーク・タイムズ』特派員のブルックス・アトキンスンがいっているとおり、アメリカはこの時以来、腐敗した瀕死の政権を支持することになった。

そしてその時から内戦は不可避になった。


朱徳将軍の参謀長葉剣英は外国人記者とアメリカ軍事視察団に、八路軍と新四軍の戦闘記録の報告書を提示した。

その中の一章は、1940年秋以後に日本軍に寝返った国民党軍のことをとりあげていた。

1944年半ばまでに、少将以上の国民党将校67人が部隊を率いて日本軍に投じた。

日本軍全部隊の62パーセントを八路軍と新四軍が引き受けて戦っていた。


朱将軍は、アメリカ軍事視察団が来た少し後の公開の集会で、はっきりとのべた。


「国民党はまったく弱いので、外国人のうちにはこれを中国の全部と誤解して、『中国はしまいまで戦い抜くことはできるだろうか』と聞くものもある……だが古い中国の諺に『棺桶をみるまでは涙をだすな』というのがある……また別に『靴屋でも三人よれば諸葛亮』(諸葛亮は三国時代の大哲人政治家であった)という諺もある。

さて、華北には、わが軍と人民武装隊とあわせて、三百万人の靴屋がおり……村や県や地区政府の人民代表もたくさん選出されている。

それをみな勘定すれば何人の諸葛亮ができるか、考えてみて下さい……国民党がわれわれを封鎖する、そこでわれわれは自分たち自身で働いて生産する。

共同作業を組織的にやる人民は、外からの供給がなくとも一致して日本に対抗することができる。

これが何より大きい歴史的教訓だ。


「われわれ自身のことをいえば、われわれは西太后とか袁世凱、段祺瑞などといった『指導者』の系譜に名をつらねたくない。

もし蒋介石にそれらの指導者たちがなぜ失敗したかがわからなければ、彼の名も間もなくその列に加えられるだろう。

満州族は、専制的な圧迫や美辞麗句をもってしては、人民をおさえておけなかった。

袁も段もそうだった。

誰だってそんなことはできない、と私は思う。

われわれは現在の独裁者に、このことを警告したいと思うだけだ」


さらに朱将軍は現在の解放区では衣料と食糧の自給はできていると語った。

手榴弾と地雷を作るのは家内工業でやっているが、地区基地にある小兵器廠ではまだ部隊に必要なだけの弾薬が製造できない。

敵の後方での生活は苛烈をきわめる場合が多く、敵の部隊に10数回も荒らされた町村もあり、また解放区のはずれでは国民党軍に6、70回も荒らされたところがある。

それでも1942年には解放区は縮小するどころか、むしろ拡大しだしていた。


封鎖期間のあいだじゅう、国民党は日本軍に対して消極的な「戦闘回避」政策をとっていたと朱将軍は語をついだ。

攻撃されれば退き、もっぱら連合国の戦勝を待っていた。

それは「中国はもう自分の割り当て分の戦闘はすましたから」という理屈だった。

連合国の反撃に攻めたてられた日本は、ひたすら南方アジアへの大陸連絡路を開こうとして、華南の米軍航空基地を破壊しにかかったが、飢えかけて士気の落ちた国民党はその遊撃につぶされ、敵は六ヶ月のうちに目的を達した。

この同じ時期に、八路軍と新四軍は反撃作戦を行って、8万平方マイルの地域から日本軍を追い出し、新たに数百万の中国人を解放した。


戦争が始まった1937年の八路軍の有効兵力は8万だったと朱将軍は付け加えた。

1944年の末には、60万の正規軍と200万以上のパルチザン補助部隊になっていた。

この期間に正規軍は約40万の損傷を被ったが、そのうち3分の1が戦死だった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


[PR]
by far-east2040 | 2017-06-04 15:15 | 朱徳の半生(改編後削除予定)