1941年・岡村寧次・「三光」 「ひとつの秘密の兵器」①ー3

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自給生産運動に着手した1941年7月はじめ、華北日本軍の総司令官岡村寧次は30万の日本軍を解放区に入れ、「殺し尽くし、焼き尽くし、掠奪し尽くす」という彼のいわゆる「三光」戦略を開始した。


岡村の「三光」攻勢は「太平洋戦争に備えて華北を粛清する」というはっきりした目的があった。

入り込んできた日本軍の部隊は県全体を包囲し封鎖して殺戮した。

山西省東南のある小さな県の場合などは典型的だが、日本軍はここでたとえ老人子どもでも区別せず、家にとどまっていた一般民1万3千人を殺した。

八路軍が奪回したある町では、その広場に老若あらゆる年齢の婦女子数百の裸の死体がころがっていた。


日本軍はこの「三光」攻勢の前後、河北省中部だけでも自動車道路に沿って2,400マイルの深い溝と400マイルの防壁とを設けた。

華北一帯の鉄道の両側にも高い障壁と防御壕が作られた。

日本軍は食糧と弾薬を入れる地下室がある防舎の連鎖を建設した。


華北平野の民衆もまた地下を利用した。

彼らは地下防空壕を掘り、そこから長いトンネルで伸ばして、しばしば隣部落と連結する場合があった。

敵に襲撃された部落はトンネルを通って他の部落へ避難することができたし、退避後の無人の部落に入っている敵兵を、八路軍が突然地下からあらわれて包囲したこともあった。


民衆は地雷の作り方を習って、部落を守るためにまわりの道にまいた。
闘争の中から生まれた「人民英雄」の中にはこんな少年もいた。

村の外に出て進んでくる敵の部隊を迎えた少年は、「とめられてるから、村に案内することはできませんが、それはあの道です……」と無邪気に答え、地雷の埋まった山道を指差したが、そこには部隊やパルチザンが待ち伏せしているのだった。


1941年7月1日の年次報告で、八路軍と新四軍は一人5発か10発の銃弾しかない状態で戦闘を始めたことがたびたびあり、華北の民衆や部隊が大きな損害を被ったのは国民党の厳しい封鎖の力によるものだったと朱将軍は述べた。


1941年12月の第一週、敵が、華北の人民軍はかたわにしたから安心して太平洋戦争にかかれる、と考えたその矢先「われわれは反撃を開始した。日本が華北から軍隊を南太平洋に転用しなかったのはそのためである」と朱将軍は後に報告している。


この反撃にともなって、生産運動も高揚した。

人民軍が一県一県と回復してゆくと、一般民が帰って来て、壊された家の再建にかかった。

こうした回復食後の地域には延安から穀物と家畜が運び込まれた。


1943年の年次報告では、この反撃の間に捕獲した弾薬、食糧、医薬品などの量は報告されなかった。

それらの物資はすぐその場でわが軍が使用したからだと朱将軍は述べている。

だが、その他の戦利品は、小銃5,000丁、重軽機2,000丁以上、拳銃4,027丁、対戦車砲29門、野砲73門、速射砲225門、高射砲2門に達した。

その他に、無電発電機272台、野戦電話セット939組、写真機112個、ガスマスク7,201個があり、また無数の自転車、蓄音機、落下傘、日本国旗、そして数千頭の馬があった。

新四軍の戦利品には「米国ガソリン592缶」というのもあった。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-06-01 20:23 | 朱徳の半生(改編後削除予定)