百団大戦 歴史との出合い③ー5

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朱将軍は、1940年の年次軍事報告やその他の論文の中で、1940年は大規模な内戦の再開が不可避と思われたくらい危険信号の多い年であったと述べている。

これは日本に有利な情勢の展開に押されて、重慶が分解し始めた時期であった。

有利な情勢というのは、

①雲南省に通ずるテン越鉄道の無期限閉鎖とビルマ公路の一次閉鎖。

つまり重慶は海港からの軍需品供給が絶たれた。

②ヨーロッパ戦争の開始。

③汪精衞を頭領とする日本の傀儡「中央政府」の設立。

設立目的は共産主義の絶滅であると宣言された。


大胆な民主主義的改革を導入すれば、華北の経験がしめすとおり、人民の持つあらゆる潜在的な力や熱情が呼び覚まされるはずであるが、重慶はそれをやらないで、反動と腐敗の底にますます深く沈んでいった。

その上国民党の将軍たちはしばしば重慶最高司令部の直接の命令の下に全部隊を率いて華北に入り、八路軍と戦うために日本軍側に投じ始めた。


国民党は軍の日本軍側への寝返りについて語ることをいっさい厳禁したばかりでなく、それを隠す煙幕として、逆に八路軍や新四軍は日本と戦っていないと攻撃した。

蒋介石直系の陳誠将軍は、すでに1940年1月、共産軍は「農村をうろついて、民衆を煽動し社会秩序をみだす」だけだと公然と非難の声をあげている。


朱徳と八路軍の15人の指揮官たちは陳誠将軍のでたらめを指摘した。
そして、実際の状態を明かにするため、陳誠将軍を河北に派遣するように正式に蒋介石総統に要求した。

行動中の八路軍の状態、負傷兵であふれた野戦病院、人民抗戦部隊の状況などを見せると同時に、他方日本軍と裏で取引するばかりでなく日本軍の対八路軍戦に協力している国民党軍の現状を実地に見せたいと思ったのである。

蒋総統はその要求を無視した。

八路軍と新四軍とに対する非難は依然として続いた。


八路軍の指揮官たちの要求が通っていたならば、蒋総統の派遣した代表たちは抗日戦中で最も強力な作戦の一つを目撃することができたはずだった。

1940年8月初旬、朱徳と彭徳懐は長い間計画していた「百団大戦」の命令を下した。

それは5ヶ月後に終わったが、この期間に共産軍のますます増大する力に対する国民党の恐怖が頂点に達して、両軍の統一は事実上終わりになってしまった。


朱将軍が私(スメドレー)にくれた手紙によると、この驚異的な攻勢に参加した八路軍の百団(百個連隊)はすべて志願によって編成されたもので、日本軍の「封鎖せん滅」作戦を打破し、打ち負かそうという熱烈な希望を持つものから選ばれた。

八路軍は全部隊からこれに参加したが、義勇隊では最も強いものだけが百団に加えられた。


全華北は陝西北部の山岳から東の海岸まで、南は黄河から満州まですべて戦場となり、5ヶ月にわたって日夜激しい戦いがくり返された。

百個連隊が経済、交通、封鎖機構など敵の全体制に襲いかかったので、戦いは惨烈をきわめた。

敵が抑えていた炭鉱や発電所、鉄道、橋梁、公路、列車や電信施設などが破壊された。

郷村には電信電話線や電柱が散乱した。

華北の鉄道は広範囲に切断され、枕木は運び去られ、レールは山岳基地の小兵器廠に運ばれた。

敵のトラックや自動車が無数に破壊され、山東沿岸の港では船が爆破された。

また済南や芝フの倉庫や役所が打ち壊された。

解放された鉄道や鉱山の数千人の労働者が八路軍に加わった。


12月末この作戦が終わったときの戦果は、破壊した日本軍の堡塁2,933、日本軍の死傷者は将校18人を含む20,645人、捕虜281人であった。

その他に、中国人傀儡部隊の51,000以上を殺傷し、18,407人を捕虜にした。

その約半数が元国民党軍の兵隊だった。

また莫大な武器弾薬その他を鹵獲して利用した。


こうした情勢と国民党の反応を日本人はどう考えたか。
それは東京の反動新聞『国民新聞』の1940年12月27日付の社説(国共紛争)が端的にしめしていた。。


「重慶が中国共産党の影響力の増大に苦慮していることはたしかだ……揚子江下流における新四軍の跳梁は平和に対する脅威になっている。
……津浦線の輸送は非常な打撃をうけている。

八路軍は華北全体に滲透して、平和維持のガンをなしている。

……蒋一派はいまジレンマに当面している。

……もし重慶が共産主義者の鎮定に失敗すれば、日本も共産党勢力のため重大な影響をこうむる事態になることは、考えられないことではない」(以上概要)



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-30 17:30 | 朱徳の半生(改編後削除予定)