民主的改革への模索 歴史との出合い③ー3

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戦争の1年間に政府は政治犯を釈放し、その管下の人民にある程度の政治的自由をゆるしたが、ふたたび反動が勢力をもり返す不吉なきざしがあらわれてきた。

汪精衞行政院長は多くの追随者に支持されて、「共産主義の匪賊行為」に対する警鐘を打ち鳴らし、日本の講和条件を受け入れるよう主張していた。

また国民党内の反動的な「C・C団」も人民の組織と武装に反対し妨害した。

汪精衞は戦争が続けば中国は共産主義者に乗っ取られるだろうと警告した。


蒋介石は、日本に降伏すれば自分の立場がなくなることを知っていたので、敵のあらゆる和平提案を拒否した。

しかし赤い同盟者を恐れる点では汪と同じ立場だった。

たとえば1938年の夏には、蒋介石は八路軍の解放した地区を接収するため、特別の部隊を華北に派遣した。

それと同時に黄河沿岸の国民党部隊は解放区に侵入し始めた。

一方、延安地区の北境に接する綏遠省西部の国民党軍は、八路軍を共同攻撃するため、日本軍と停戦や同盟を結びだした。


1938年10月中旬、日本軍が漢口をめざして進撃していたとき、朱徳将軍は国防参議会で協議するため首都に飛び、前述のような活動に対して警告を発するとともに、民主的改革を全国的に採用するよう要請した。

そうした改革によって初めて人民の生活を改善することができ、彼らに命がけで戦い守るべきものを与えることができると述べた。

彼はその論拠として、華北を敵の収奪に対する防壁に変えた八路軍の業績について報告した。

選挙される町村の委員会は完全に民主的であって、共産主義者の参加は3分の1に制限されていることを力説した。


朱将軍の提案は十分な成果をおさめなかったけれども、八路軍と弟分の新四軍は統一戦線を守り、国民党軍との緊密な友好関係を努力する気であることを政府に確信させた。


日本軍が10月25日漢口を占領してから2ヶ月後、汪精衞と追随者たちは飛行機で重慶を去って、インドシナに行くという奇怪な行動をとった。

そこから上海に入り、そして日本人の手に飛び込んだのである。

1939年3月、汪は日本の傀儡政府を南京に作ったが、その目的は「共産主義の絶滅」であると宣言したのであった。


朱将軍は、1939年7月18日延安の新聞で発表した論文の中で、国民党反動勢力の増大と、内戦と対日降伏という二重の危険ついて述べている。


「1938年秋、漢口が日本軍の手に落ちて以後、われわれは国民党内の有力な一派が、民族統一戦線を破り内戦を再開することによって、降伏の道を準備していることを知った。

われわれは、山西省東南部、河北省南部、そして山東省西部の国民党軍が、八路軍を敵として彼らのいわゆる『連省共同防衛』協定を結んだ証拠文書をもっている。

そのうちの鹿鐘麟将軍のひきいる部隊は、われわれが敵から解放した地区を接収するために蒋介石が派遣した部隊だった。

この軍はわれわれの解放区に入ってきて、あらゆる地方行政機関を解体し、1937年日本軍がきたとき逃亡した、もとの封建的な役人たちをそのあとに据えた。

また地方の人民部隊を包囲し、武装解除し解体して、『保安隊』をおいたが、その仕事は、人民の抗日と民主主義活動とを抑圧することだった。われわれが導入した小作料引下げや、高利の禁止などの改革は、非合法とされ、新旧の重税が課された。

村民はふたたびギャングたちのため強制徴兵され、鹿将軍に三千元献納するものだけが徴兵をまぬがれる状態だった」


こうした動きは、重慶政府支配下のあらゆる地域でしだいにひどくなった人民活動の弾圧と並行していた。

国民党が直接管理するもの以外あらゆる出版や組織は弾圧され、政治犯の集中拘置所が設けられた。

新しい産業合作社さえ、そこで働く人々の共同所有であるという理由で破壊的なものと見なされた。

ある国民党政治家は、華北で共産主義者が合作社の網をはりめぐらしているから、合作社は共産主義制度にちがいないと私(スメドレー)にいった。

そして、こういう制度は戦争中は役に立つかも知れないが、勤労者が独立心を持って以前の仕事場に戻らないようになるから危険だと述べた。

                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-05-29 14:57 | 朱徳の半生(改編後削除予定)