抗日戦1年目の報告 歴史との出合い③ー2

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朱将軍の報告によると、抗日戦1年目に八路軍の被った損傷は2万5千で、約3分の1が戦死者だった。

損傷のうち7千人が共産党員であった。

この当時、八路軍部隊は陝西の山々から黄海まで、南は黄河から北は内蒙の熱河省にいたる華北全域にわたって作戦を展開していた。

内蒙の熱河省にも山岳基地を作り、満州義勇軍と協同して作戦していた。
彼らは山東省の省都済南さえ襲撃したし、北京近郊の炭鉱や発電所も攻撃した。

北京郊外6マイルにあるアメリカのミッション経営の燕京大学の学生や若干の教授は八路遊撃隊といっしょに活動していた。

多数の燕京卒業生は大学から直接八路軍に参加した。

戦争が終わるまでに、実に7百人の燕京大卒業者が八路軍に参加した。


朱将軍は、報告書の中で、日本軍が黄河を渡って南進し国民党軍を撃つことができないのは、華北における八路軍と民間遊撃隊との活動があるためであると述べた。

日本軍は通信線と輸送線の警備、襲撃に対する防禦、道路、橋梁の修理などに兵力を分散するために、南進を停止させられていたのだ。

彼らも、国民党の内戦十年間と同じように、堡塁を建設し始めたし、また大量虐殺によって住民を文字通り「鎮定」し出した。


朱将軍は、戦争が始まったときの南京の会議でも提案したが、ここでふたたび全国家的戦略の必要性と、「中国の長所と敵の短所」を基本とする戦術の採用を主張した。


彼は断言する。

中国は「陣地に腰をすえて敵にたたきつぶされるのを待つ」やり方では、守ることができない。

そうしないで、中国軍はすべて好適な場所と時とを選んで戦うべきであり、装備の著しく優秀な敵と同等の条件で戦うことは避けなければならない。


八路軍も大きな損害を被ったが、敵の損害は3万4千であった。

大部分が傀儡中国人だった敵の捕虜は2094人で、その他に徴兵されていた満州兵1366人が日本の兵器をもったまま八路軍に入ってきた。


八路軍が開戦当時持っていた貧弱な装備を考えると、捕獲した戦利品は目を見張るものだった。

具体的には、小銃6387丁、軽機関銃171丁、重機関銃84丁、野砲72門、臼砲25門、乗用車190台、トラック847台、ラジオセット4個、拡声器6個、電話セット19台、観測鏡9個であった。

なおその他に5箱の毒ガスがあった。

つまり日本軍は八路軍をせん滅するためなら、どんな手段でも許されると考えていたのだ。


紅軍はさらに山西北部の飛行場で敵機24機を破壊した。

これに対して蒋介石は2万米ドルの褒賞金を出した。

その他戦車5台、装甲車5台、乗用車とトラック901台を破壊した。
なお1937年末、私(スメドレー)が朱将軍の司令部にいた当時すでに数千人の八路軍部隊が捕獲した日本軍の外套を着ていた。


八路軍の力が大きくなり、その影響力が華北全体に拡がるにつれて、国民党反動たちの中の恐怖心も増大した。

八路軍が敵の手から解放した地域で改革を実施したというニュースが漢口に伝わると、以前からあった「共産主義の脅威」という叫びが聞かれ出した。

北部と北西部の各解放区では18歳以上のすべての男女に完全な選挙権が与えられた。

彼らは元の国民党の役人に代わる町村の行政機関を選挙した。

国民党の役人たちは日本軍が来ると、逃亡するかあるいはこれに加担して傀儡地方政府を動かしていたものだ。

こうした反逆者の多くが大地主だったから、解放区では農民が彼らの土地を没収して分配した。

地主の中には逃亡したが反逆者にならなかったものもいた。

こういう地主の土地は没収はされなかったが、小作する農民は敵から逃げ出したものも地代を払う気持ちになれなかった。


そうした情勢を考慮しながら、朱将軍は語っている。


「中央政府は、人民の生活状態を改善するため、あらゆる努力をはらい、それによって人民の具体的支持をえて、人力を動員するようにしなければならない。

政府はまた、愛国的組織や活動を後援し、大衆を直接間接戦争に参加するよう組織しなければならない」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-29 10:17 | 朱徳の半生(改編後削除予定)