盧溝橋事件と南京事件の頃 歴史との出合い②ー1

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日本帝国主義は1937年7月7日、北京付近で二十九路軍を攻撃し、前から計画していた中国征服を開始したが、統一戦線はこの時まだまとまっていなかったし、蒋介石も戦う決心を固めていなかった。

しかし、特別行政辺区と延安辺区はただちに戦争体制に入り、24時間以内に抗大で勉強していた指揮者たちはそれぞれの部隊に帰るため南に向かって出発し、一方数百人の者が部隊を離れて延安に向かってきた。


日本の侵撃が始まって10日後、やっと蒋介石は声明を発表して、国民に抵抗を訴え「もはや退くことはできない」と述べた。

その時までに、日本は河北省を占領し、西北に殺到しつつあった。

8月13日には日本軍が揚子江流域で戦端を開き、上海占領から12月の南京占領へと拡大していった。


蒋介石の軍隊が真剣に戦いだしたのは上海戦からであり、南京が危うくなって初めて紅軍との積極的な協力に同意したのであった。

朱徳将軍と周恩来は、8月9日、紅軍と共産党の代表団を連れて南京に飛び、国防参議会の会議に出席した。


9月6日、紅軍の三個師団が朱徳将軍を総司令、彭徳懐を副司令とする国民革命第八路軍に改編された。

この三個師団(第115師団、第120師団、第129師団)には一挺の新しい銃器も補給されず、供給された医療品も結晶ヨード3ポンドとアスピリン錠2ポンドだけだった。

だが三個師団分の弾薬と金は供給された。

この選りすぐりの四万五千で編成された三個師団は、ただちに山西省の前線に向かって出発した。

彼らはまだもとの紅軍の制服と軍帽をつけていた。

毛布一枚交付はされなかった。

蒋介石軍のひとりの中尉があとで皮肉まじりに私(スメドレー)にいったものだ。


「赤の連中は、これまで鉄砲もその他の給与もすべてわれわれ国民党軍から取ってきたと自慢していた。こんどは同じように日本軍から取ったらいいだろう」


私(スメドレー)は八路軍が前線に出発してから1ヶ月後に、五台山で朱徳将軍の司令部に加わった。

山西省の東北部にある五台山は当時日本軍の後方になっていた。

9月25日と26日、林彪の指揮する第115師団は長城の平荊関で日本軍と戦って、中国最初の勝利を勝ち取った。


一方この間、南京の共産党側は、紅軍主力が長征に出た後に江西や福建に残った紅軍遊撃隊の集結を蒋介石に承認させようと交渉を続けていた。

しかし南京が陥落し、二十万の市民や捕虜が虐殺された後になって、やっと軍政部長は命令を出して、紅軍遊撃隊に揚子江下流地域に集結して新四軍を編成せよといった。


紅軍遊撃隊のやせ細ったぼろぼろの農民たちが元のソビエト地区の山を出て行軍してゆくと、地主や民団がいたるところで待ち伏せして狙撃したり殺したりした。

指揮官の頂英と陳毅は歯をくいしばって、部下に一発も射ち返すなと命令し、夜間行軍で危険な地域を通りぬけた。


1万1千の新四軍は1938年4月安徽省南部に集結を完了し、葉挺将軍の指揮下に置かれ、頂英は副司令となった。

陳毅は師長になり、南京地区に浸透するためすみやかに行動を起こした。
新四軍は揚子江に沿う幅約50マイル、長さ150マイルの戦闘区域を割り当てられた。

軍政部はあざやかな計画をしたものだ。

新四軍は日本軍に対する機動作戦の場合でも、その区域から出ることを禁止された。

一方背後の南京地区には、かつてソビエト地区の掃討に使われた上海南京ギャングの配下の部隊が配置されていた。

国民党秘密警察の親玉の載笠将軍を最高司令に頂くこのギャングの部隊は装備も給与も格段によかった。

彼らの任務は新四軍を閉じ込めておいて、進出してくる日本軍の矛先に直接追い込むことであった。


事情に通じた中国人や外国人から見ると、国民党がこれまで出来なかった八路軍と新四軍のせん滅を日本軍にやらせようと期待していたことは疑いなかった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-25 09:53 | 朱徳の半生(改編後削除予定)