西安事変 歴史との出合い①ー1

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蒋介石と彼の幕僚は軍事会議を開くため、1936年12月7日西安に到着した。

蒋は郊外の硫黄泉臨潼に入り、参謀たちは城内の西安招待所で宿泊した。
情勢は「政治的に絶好」と朱徳がいいそうなものになっていた。


蒋としては、もう一度大規模な掃共戦をやるには、まず日本としか戦わないと決意している東北軍を抑える必要があった。

この「破壊的な」傾向を変えるには、総統はまず西北における彼の副司令である「青年元帥」張学良を処置すべきであろう。

以前から張学良は、民主主義という「危険思想」を抱いたり、日本を中国から追い出す必要を説く青年たちに取り巻かれていた。


青年元帥と彼の幕僚も腹を決めて蒋を迎えた。

彼らは、内戦を続行せずにすべての中国軍隊の抗日統一戦線を作る計画を起草していた。

その十項目〈八項目?〉の綱領では、中国人民に市民的権利を与えること、抗日運動に対する一切の法律や制限を撤廃すること、政治犯を釈放すること、孫逸仙の遺志を実行すること、各党各派をふくむ救国政府を樹立することなどを要求していた。


蒋総統はそうした計画を討議する全体会議を召集せず、東北軍最高幹部を一人ひとり呼びつけて、青年元帥を廃して掃共戦に出動するように地位と金を餌にして誘惑した。


だが、蒋の勧誘に乗ったのはたった一人だった。

しかもその一人の将軍もまもなく若い東北軍の将校に暗殺された。

他の者はみな、日本が彼らの故郷を占領し家族を殺したこと、東北軍が望むことは同胞との戦いではなく、日本との戦いであることを総統に強く告げるのであった。

しかし蒋は頑として意を翻さなかった。


そこで12月11日の明け方、張学良の部隊は行動を起こした。

蒋介石が連れて来た秘密警察と国民党のそれぞれの本拠と、蒋の任命した陝西省政府主席邵力子の邸宅を襲って、全員を逮捕した。

蒋の参謀たちの泊まっている西安招待所を襲った一団は、将校たちをベッドからたたき起こし、自動車に詰めこんで、青年元帥の司令部に連行した。


西安で機関銃や小銃の音がする頃、若い東北軍将校が部隊を連れて臨潼に急行した。

そこで全国で最も憎まれていたファシストの一人であった蒋介石の甥と彼の護衛を射殺した。

蒋介石は寝衣のまま逃げたが、捕らえられて、西安の張学良元帥と楊将軍の所へ運ばれた。

蒋介石総統は西北の抗日軍隊の要求を相談するために抑留すると言い渡された。


西北各地の東北軍は、蒋が内戦のために持ち込んできた弾薬、食糧、衣料など一切の物資を差し押さえた。

同時に紅軍は西安から数マイルのところまで進出し、省を横切って歩哨線を敷く一方、朱徳と毛沢東は北方の延安を占領して本拠をそこに移した。


国民党や外国人は蒋介石の抑留を「誘拐」と呼んだのだが、それから三日後に西安に新たに軍事委員会がもうけられ、紅軍を含むすべての抗日軍隊は代表者を送るように勧誘された。

掃共戦のため西安飛行場に集められた二十五機の爆撃機や戦闘機を捕獲した青年元帥は、その一機を送って、紅軍代表を軍事会議に連れてきた。

紅軍代表団主席の周恩来は、蒋がしぶしぶ引き受けていた会談に新たに参加することになった。



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by far-east2040 | 2017-05-22 20:28 | 朱徳の半生(改編後削除予定)