第六次掃共戦 長征④ー4

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日本の綏遠進撃は蒋介石の新たな掃共作戦と呼応して、紅軍だけでなく青年元帥張学良の旧東北軍や彼と同盟関係の楊虎城の陝西省「保安軍」に対する挟み撃ち作戦の形になった。

蒋は、紅軍討伐に対する西北軍の反対気運を「規律と指導の欠陥」に過ぎないと解釈して、事態を刷新するために12月11日西安で特別な掃共軍事会議を開くことにした。

西安は青年元帥と楊将軍のそれぞれの司令部の所在地であった。


この西安会議の続いてただちに実施されることになった第六次掃共戦の準備として、蒋介石は全作戦に必要な食糧、弾薬、現金、衣料といっしょに新たな師団を甘粛省に輸送した。

同時に、武器を携行する数百人の秘密警察を無電機とともに秘密裏に西安に送り込んだ。

これは青年元帥に対する武装蜂起を準備するためであった。


憤慨した共産主義者その他の中国人は、内外の情勢から判断して、国民党と日本との間に中国のすべての抗日勢力に対する共同の陰謀が存在することを確信した。

塘沽協定と何応欽・梅津協定や日本と南京の多くの公式声明はこの確信を裏付けるものであった。


たとえば、毛沢東縦隊が西北に着いてまもなく、日本の外務大臣広田広毅は「アジアの共産化を防止する」ための東京・ベルリン・南京防共協定を提案した。

そのすこし前に、広田は議会で次のように声明した。


「東洋における共産主義活動の抑圧、したがってまた中国を赤の脅威より解放することは、単に中国のみならず極東および世界の安定のため、絶対的な重要性をもつ事柄である。……共産主義を根絶するため、種々の方法で中国と協力することは、日本政府の切望するところである」


広田はさらにつけ加えて、今日なお中国で、学生の扇動的運動があることは

「日本にとってまことに遺憾」

であり、

「それはわれわれの企図する精神と背馳する」

ものである。が、しかし

「現在の状態は、中国当局によって、間もなく匡正されるであろうことが期待される」


南京政権は1936年11月の東京・ベルリン防共協定には調印しなかったが、蒋介石の外交部長張群将軍は「中国は共産主義に対する断固たる態度を一時も放棄するつもりはない」ことをくり返し日本に保証したのであった。


親日要人として有名な張群は、すでに1935年のはじめにも日本政府に向かって、中国政府は中国の共産主義に対する日本の関心を了解しているが、「それは一国内における扇動は隣国にも影響するからであり」そして中国政府は害悪の根源をすみやかに除去するため、断固たる闘争を続けているという了解を与えている。


そこで、蒋介石の新たな掃共戦は、日本が直接に協力していないにしても、少なくとも南京その他主要都市にいる日本の軍事代表と外交代表の監視の下に行われたのである。

青年元帥の本拠の西安は、中国の戦略的要地の中で、そのような日本の「オブザーバー」達がいない唯一の都市だった。

四川省では、民衆が「オブザーバー」の日本人を襲撃した。

国民党軍と秘密警察は躍起になってそうした事件の発生を抑えた。

法律家、銀行家、新聞人などをふくむ数千人の愛国者たちが、内戦の停止と抗日統一戦線の樹立を要求したという理由で「共産主義者」として逮捕、投獄、または殺害された。


朱徳が紅軍を率いて、チベットと中国の辺境地帯から西北に入ってきた当時の政治軍事上の情勢は以上のようなものであった。

長征はまさに成就されつつあり、紅軍は歴史との出会いの道に立ち続けた。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-21 14:44 | 朱徳の半生(改編後削除予定)