大草原を通過 長征④ー1

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あるとき、私(スメドレー)は彭徳懐の司令部の人たちが長征のことを語り合っているのを聞いた。

そのうちの一人がいいだした。

「同志の道といえば、ぼくは君たちの誰が長征中にほくの針を盗んだか聞きたいね。
今まで口に出さなかったけど、今だに針がないから思い出したよ」

皆が笑い、一人が答えた。

「君は多分村の娘にやったんだろ。
君が物持ちだっていうことを証明するためにね。朱徳が紡いだり織ったりするのは見たことはあるけど、君が上衣のボタンをつけるのなんて、見たことないよ」


「朱徳は西康ではかなり暇だったな」と針を失くした男が答えた。

「われわれが大草原を抜けてきた当時は、ボタンのつけ甲斐のあるような物さえもってなかった。

鼠を食いだしたのはあの頃だった。

われわれはどこの村の鼠も一匹残らず平らげたっけ。

ひどい味だったけど、みんな食べたな。

ぼくはこんなものを食う犬や猫が可哀そうになったもんだ」


もう一人が話し出した。

「ぼくは大草原を抜け敵の防衛戦を破って、甘粛に進出してはじめて中国人の農民を見かけた時のことをよく覚えているよ。

連中は、ぼくたちが気が違ったと思ったようだ。

何しろぼくたちは、家や土地をなでたり、連中を抱きかかえたり、踊ったり、歌ったり、泣いたりしたからね」


大草原! 大草原! 大草原! だれもが大草原のことを語った。

毛沢東の率いる紅軍第一縦隊は1935年9月に大草原を通過した。

一年後に朱徳将軍が残りの紅軍を率いて、不気味な恐怖に満ちた同じ地帯を通った。


大草原は、中国とチベットとの境界地帯に数百マイルにわたって広がっている道もない広大な沼沢地である。

来る日も来る日も紅軍が目にするものは、見渡すかぎり果てしない野草の大海原だった。

草は深さ数フィートの黒ずんだ汚水が淀む冷たい沼沢に生え茂っていて、草の巨大な株がごちゃごちゃに重なった古い枯れ株の上から生えていた。

虫の音もせず、小石さえなかった。

激しい夏の豪雨や厳冬の風雪の吹き通る野草の果てしない拡がりのほかは何ひとつない世界だった。

空には暗灰色の重々しい雲が永遠に垂れこめて、地上をうっとうしく陰気な黄泉の国に変えていた。


紅軍は大草原の東の縁に沿って進んだ。

そこでは沼沢もそれほど深くなかったし、騎馬の少数民族が時々利用する狭い筋のような土地があった。

各自八日分の食糧と燃料を携行した。

行軍の先頭に立った林彪の第一方面軍は後続部隊の避難所を作るために、竹のすだれも運んで行った。

各自の食糧は炒った小麦と茶であった。


紅軍の一人は『長征史』の中で次のように書いている。

「毛児蓋付近の中国文化に感化されてやや友好的な少数民族が、毛の靴下と羊皮を持ってゆかないと凍死すると忠告してくれた。

われわれはできるだけ多く買い入れたが、こんな大勢の人数にゆきわたるほど集めることはできなかった。


「大草原に入る直前、われわれの後ろの方で銃声がした。

騎馬の少数民族の一団が道に迷って隊から離れた者を襲い、小銃を奪っていった。

第一日は10時間行軍した後、両側の草をテントのように結んだ下で、狭くて冷たい道の上に横になって寝た。


「四日目に入って行った地帯では、われわれは膝までどろどろの汚泥に沈み、馬は押したりたたいたりして引き出さないといけなかった。

空には雲が重くたれ、葉ずれの音がするだけで、まるで死の世界であった。


「私は一人の同志に、もし自分が作家だったら大草原をどう表現するかと、たずねてみた。

砂漠と表現したいと彼は答えた。

ただ、違うのは砂ではなくて水と草がすべてだ。

砂漠では渇いて死ぬが、ここには水はいっぱいある。

そして砂漠では太陽が照るが、ここではまったく見られない。

また『砂漠では蜃気楼がみられるというが、ここにはそんな楽しみはない』といった。

われわれは結局、大草原とは、足がいつも水浸しになって、馬のひづめの跡が消えてしまって、人や馬が草の株の間のどろどろした汚泥に落ち、引き上げられても寒さに震えた所ということで意見が一致した。

そしてあたりの荒涼たるすさまじさを如実に表現することはできないということでも一致した」


紅軍の別のモー・シェーという人が日記の中でこう書いている。

「今日、ひとりの同志がどろどろの水の中でもがいているのを見つけた。
体は引き込まれて泥水で被われていた。

鉄砲をしっかりつかんでいたが、泥の杖のように見えた。

私は、彼がただ落っこちて立ち上がろうとしているのだと思って、助けて立たせようとした。

私が引っ張ると彼は二歩進んだ。

そしてその身体の重みが全部私にかかった。

その重いこと、私は彼を支えていることも、一歩踏み出すこともできなかった。

彼にひとりで歩くようにいって、私は手を離した。

彼は道に倒れて身をもがいたが、それでも鉄砲にすがりついて起きようとした。

私はもう一度持ち上げてやろうとしたが、ひどく重いし、私も衰弱していて不可能だった。

その時、彼が死にかかっていることがわかった。

私はまだ炒り麦をもっていたので、彼に与えたが、噛むことができなかった。

どんな食べ物でも助からないことは明らかだった。

私は炒り麦をそっと私のポケットに戻した。

彼が死んでから、私は立ちあがって、彼をそのままに立ち去って行った。次の休憩地に着いて、私はポケットから炒り麦を取り出したが、噛むことができなかった。

死にゆく同志のことを考え続けた。

私は彼を倒れた場所に残してくるしかなかったのだ。

そうしなかったら、私自身がわが軍から遅れ連絡を失って死ぬことになるからだ。

そう考えてもやはりその炒り麦を食べることはできなかった」



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by far-east2040 | 2017-05-19 19:51 | 朱徳の半生(改編後削除予定)