朱徳西康省へ 長征③ー5

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第四方面軍の張国燾と朱徳たちの方針の確執について政治工作員の話は続く。


「会議は大いに荒れたが、最後に張は、第四方面軍で行われている軍閥式なしきたりややり方をすっかり改めることを約束した。

しかし、蒋介石が目的の達成のために十万の軍隊を投入していることを理由に、北進政策への反対は撤回しなかった。

最善の策は、来た道を天全まで戻って、チベットの町打籠炉を占領し、西康省に勢力を張ることだといった。

しかしその意見は否決され北進政策が再確認された。


「朱徳は張国燾に向かって、蒋介石も十万の軍隊を送り込んだが、わが軍もおよそ十万いるではないかといった。

そして、第四方面軍は十分休んで良好な状態だから、戦略敵な要点である松潘地方を占領し、北進の道を開くことにしてはどうかと提案した。

張は敵の防備が厳重なことを理由に頭から拒絶した。


「最後に、二つの縦隊に分かれて北進を継続することで妥協がついた。第一の東縦隊は毛沢東が指揮し、南からきた中央軍の主力をもって編成された。

第二の西縦隊は劉伯承を参謀長に朱徳の指揮下で、張国燾の第四方面軍と南方から来た第九、第五軍団で編成された。


「われわれはただちに行動を起こした。

東縦隊は松潘から70マイルの毛児蓋につき、そこで大草原を横断する準備と、彭徳懐軍の到着を待つために三週間留まった。

彭軍は全軍の食糧収集にあたっていた。

彼らはまた途中の少数民族に少数民族政府を組織させた。


「西縦隊はダイキョウライ山脈から降りてくる激流の一つの岸に達し、そこで休止して渡河点を探した。

張国燾は、この川を渡ることは不可能だから西康省に引き返す以外ないと主張した。

それが前々からの彼の望みだったのだ。

そして朱徳と劉伯承も彼とともに引き返すべきだといった。

四川省出身者である朱と劉の名声は中国西部一帯に響いていたので、、張国燾はそれを利用したかったのである。

もう一つの理由は、軍でただ一つのラジオ発信機を彼らが持っていたことだった。


「朱将軍と劉参謀長とは、渡河点は見つかると思うが、もし見つからなければ、毛児蓋で東縦隊といっしょになって長征を継続すべきだといった。

その晩、張国燾は第四方面軍の特別部隊を率きいて総司令部を包囲し、朱徳と劉伯承を捕虜にした。

張は朱徳に二つの命令に従うことを要求した。

「第一は毛沢東を弾劾して彼とのあらゆる関係を切れということだった。


「朱将軍は毛沢東とは一心同体だから関係を切ることはできないと答えた。


「張の第二の命令は、華北に移動して抗日反蒋解放戦を開始するという党の決定を拒否せよということであった。

朱将軍はその決定に対して自分も努力したので反対することはできないと答えた。


「張国燾は朱徳に、考え直す時間を与えるが、それでも命令に従わないならば射殺すると告げた。

朱は答えた『それは君の力でできることだ。自分はそれを押しとめることはできない。だが断じて君の命令にしたがわない!』


「いろいろな原因から、張国燾はその脅迫を実行できなかった。

主な理由は第九軍団と第五軍団との存在だった。

彼らは朱徳と参謀長を奪回して東縦隊にとって返すことを望んでいた。張国燾はそんなことをやらないよう警告を発した。

こうして、中央アジアの高原でいつ残酷な争闘が勃発するかも知れないような情勢に直面した朱徳と参謀長は、ついに意を決して張国燾に従って引き返すことにした。


「張の指揮に移った西縦隊は西康省に引き返し、一年後に賀竜の第二方面軍三万五千がやってくるまで、その地方にとどまっていた。

賀竜軍は中央軍とだいたい同じ経路をとって長征を行った。

ただ、われわれのやったおそろしい山脈越えだけは避け、西によって打籠炉を迂回して第四方面軍と合流したようだ。


「賀竜と政治部主席肅克は事件の一部始終を聞き、朱徳と参謀長が我慢に我慢を重ねて張国燾と協力していることを知った。

そこで張に向かって、朱徳に指揮権を返し、その指揮のもとに華北に進軍するように真剣に忠告した。

その時には毛の縦隊はとっくに西北に着いていて、日本の侵入ルートを真横に横切る強力な革命基地を開拓していた。

また、その時までには全国の政治情勢も革命側に好転していたし、西康の食糧事情もひどかったので、ついに張国燾は同意した。

そこで朱徳がふたたび指揮をとり、毛沢東に合流するために北進を開始したのである。

だが張は、依然として第四方面軍の指揮部にとどまっていたので、軍の教育はやはりうまくいかなかった」



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by far-east2040 | 2017-05-15 15:43 | 朱徳の半生(改編後削除予定)