最後の会戦 紅色方陣③ー3

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朱徳の第二次掃共戦の回想は続く。

「どの道筋を行っても、農民たちがわが軍や敵軍の負傷兵を後方に運んでいるのが見えた。

あるものは家の戸に縄をつけて担架を作り、あるものは負傷者を背負って運んでいた。

敵味方分け隔てることなく扱えという指令に農民たちは一応従っていたが、独特のやり方で白軍への憎しみを晴らした。

彼らはくたびれると敵の負傷兵を下ろして、「白軍の匪賊野郎! 強姦男! 人殺し! 地主の犬!」とののしりながら蹴ったり、木の枝を折って叩きつけたりした。

「それからまた負傷兵をかつぎ上げて、またくたびれるまで運び、それからまた地面に下ろして「わしは、なんで手前みたいな犬を負わにゃならんのか」といいながらぶった。

それを止めたものもあったが、私はそういう暇がなく、たえず東に押して休止なく戦っていた。


「北の寧岡地域で、蒋介石がこの江南に移動させた二十六路軍に属する北方から来た数個師団と遭遇した。

蒋介石はかつて馮玉祥将軍に率いられたいたこの軍を信用していなかった。

われわれはこの軍の中にいく人かの党同志がいたし、部隊内では不満が広がっていた。

われわれと接触すると、三個連隊が一発も撃たずに投降してきて、残りは退却した。

われわれはゆっくり考えろと彼らを放っておいて、東の方にひたすら押して進んだ」


この大作戦の最後の会戦は5月29日に敵の堡砦線の東端の福建省建寧の周辺で行われた。

ここで紅軍は劉和鼎指揮下の国民党第六路軍と対峙した。

劉は福建省の匪賊の頭目として長い間悪名を知られていたが、後に国民党軍の将軍になり、彼の一万の匪賊は六路軍に編入されたのであった。


朱将軍は強い憎悪を込めて続けた。

「彼の軍に攻撃をかけると、たちまち劉は司令部を捨てて建寧の市内にもぐり込み、部隊もそれを真似した。

われわれはそれを追って市に突入突破して閩江の橋まできたが、その時すでにいくつかのわが部隊は江をわたって対岸で迎撃の構えをしていた。


「たちまち橋の上は、匪賊の軍と馬と行李でいっぱいになって動きも取れなかった。

西岸のわが機関銃隊はそれに目がけて火を吐いて射ちこんだから、敵兵は銃を投げ捨てて江に飛びこみ、わが軍の一部はそれを引っ張り上げ、一方対岸にいた部隊は江を泳ぎわたってきたやつを捕えて武装解除した」


建寧を奪取した紅軍は、一部の戦闘部隊を残しておいて、旋回して敵の堡砦線に沿って堡砦を破壊しながら引き上げていった。

その線の両側に広汎な新地域を獲得したので、政治工作員はそれをソビエト地区に固める仕事に取りかかった。


敵の堡砦をことごとく破壊したのちに、紅軍はふたたび旋回して南のソビエト区に入り、はるか南方の広東省からきていた十九路軍に向かって進撃した。

この軍も退却の名人で、故郷の広東省に入るまで足をとめることはしなかった。

朱将軍の説明によれば、その退却は広東広西二省の将軍たちと蒋介石とのあいだの軋轢によるものだった。

「掃共戦」がいまや紅軍によって笑い種にされたので、外国人と中国人の支配階級は蒋介石を手きびしく批判するようになった。

そこで南方の将軍たちは中国内の外国勢力の代表者たちに売り込んで、蒋介石がしくじったことを仕上げることができるからといって外国人の承認支持に値すると信じさせようとしたのだ。



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by far-east2040 | 2017-05-06 13:22 | 朱徳の半生(改編後削除予定)