水南へ進撃 紅色方陣③ー2

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敵の第二十八師団を武装解除したその夜に、報徳懐からの報告を持った伝令が到着した。

この伝令は第二番目で、第一番目は捕えられ殺されている。

報告によると、報徳懐の紅軍第三軍は二日二晩北方から来た敵軍第四十三師団の前面と背面との両方に猛攻を加えて、山上の堡砦をうばって谷間に追い落としたという。

そこで半数を武装解除し、残りは水南にいる友軍第四十七師団のところに逃げた。


全西方戦線は今や紅軍の掌中にあった。

しかも二つの戦闘による収穫は小銃七千、その他機関銃、臼砲、医療品大量の糧食、弾薬、かなりの額の金でしかなかったので、朱将軍の回想するときの声は不満があるように響いた。

第二十八師団と四十三師団は第一次そう共戦で撃滅された第十八師団の半分の大きさでしかなかった。


朱徳と毛沢東は解放された地区にはパルチザンといくつかの中隊の正規軍を展開させた。

司令部と無電学校が合流した主力は、紅軍史上もっとも劇的な攻撃に出るために動き出していた。


主力部隊が敵の第四十三師団の残存部隊が第四十七師団と合流して立てこもる水南の城壁に向かって進撃したとき、女子どもを含めた数千の農民がかごをかつぎ棍棒をかざして、部隊のまわりに渦巻き動いた。

北方軍の一連隊が武装解除され、残りのものは軍需品の大集積を置いたまま東方に滑走した。

紅軍は「おれたちの補給部隊」といいながら大笑いした。


朱徳がその軍需品を急いで点検したとき、数千の農民はすでにそれを始末しているところだったが、彼が「借りた米は日を決めてちゃんと返すとわしはいったろう」というとどっと笑った。


農民たちの迅速で徹底的な仕事ぶりを思い出したときの朱徳の声から畏怖のひびきに似たものが伝わってきた。

アリのように群がって、かごや水牛がガタガタ引く車にいっぱい積み、女や子どもは丹念に米の最後の一粒まで手ですくい取った。

年寄りと女子どもはきちんと列を作ってソビエト地区に引き上げたが、若い男たちは大隊ぐらいの隊をいくつか組んで、紅軍のために米と弾薬を運びながらいっしょに東進し、軍隊のように春の豪雨も少しも気にしなかった。


その作戦を語っているとき、朱将軍はもう一度過去に身をおいているかのように見えた。

「われわれの攻撃はしだいに東に進んでいき、15日間軍は戦っては眠り、眠っては戦うことを続けた。

戦闘した部隊が地面にどっと倒れて眠ると、その後をほかの部隊が目を覚まして起き上がり、快速行進をして敵の背後を撃った。

水南から二日後、白沙では第四十七師団と第四十三師団の残存部隊を武装解除した。

北方出身の大男たちは首をふりながら、山の中や雨の中で戦争をするのは苦手だったと愚痴をいった。

彼らは農民パルチザンや紅軍部隊によって捕虜収容所に連れて行かれ、負傷者たちは後方の病院に護送された。


「私は、長時間眠らなくてもいい人間だ。

だが、それからの二週間というものは、ほとんど眠ったというおぼえがない。

われわれは、敵に、二度と忘れられぬほどの懲らしめをしてやろうと決心していた。

各部隊は洪水のように押してゆき、戦いながらスローガンを叫び、また歌い、死にものぐるいで一インチ一インチと戦って行ったので、敵はその前に崩れるばかりだった。

雨は振りつづけて、敵の爆撃機は役に立たなかった。

われわれは、敵兵を水びたしの米田に追いこみ、それから、その泥まみれになったやつを、引きずり出した。

彼らは、完全な国民党軍軍服をきて脚絆をまき、短靴またはわらじをはいていたが、わが軍はといえば、薄手のシャツとかんたんな上衣とで、裸足だった。
私はわらじをはいていたような気がするが、よくおぼえてはいない。
そうだ、毛と私とは兵士と同じ服装をしていた。
またおぼえているが、敵兵の重たい袋を取ってみると、村々での掠奪品がぎっしり入っていた。


「敵が楔を打ち込んできたソビエト地区の内部の村々に行ってみると、家は焼け落ち、非戦闘の住民たちの死体は射殺され、切りたおされ、首を切られたところにそのまま転がっていた。

幼児や老人の死体もあった。

女たちは殺された前後に暴行されて、地面に横たわっていた。

この現場を見たものは、重傷者以外はどうしても戦場に帰ると言い出し、われわれの戦列には国民党の最高指揮官何応欽を生け捕れという内容の激しい歌声が昼夜響いた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-06 06:33 | 朱徳の半生(改編後削除予定)