第二次そう共戦 紅色方陣③ー1

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5月のはじめに、南京政府の軍政部長何応欽を最高指揮官とする十五万の国民党軍は堡塁線の後方の陣地についた。

その堡塁線は西は吉安から東は福建省の建寧まで江西省をジグザグに走り、長さは約250マイルに及んだ。

こうして第二次そう共戦は始まった。

朱将軍はこの敵の堡塁線についてすべて知っていたとあっさりといった。

というのは構築のために強制労働させられた農民が、場所だけでなく濠の深さ、堡塁についている銃眼の数、使われた煉瓦と石の量まで説明し、さらに地面に略図をかいて、そこに行く抜け道まで示してくれたからだった。


「われわれは、第一次戦のときと同じ戦術を用いることにした。
それは、まず敵をその堡砦戦のうしろから出てこさせ、ソヴェト地区、つまり紅軍と人民との勢力圏の中におびきよせ、迅速な大迂回行動を取って、その背面を攻撃して消滅する、というのだ。
最初に東固と吉安との間で、第二十八師ほか二個師をたたくことに決めた。
われわれは、敵の堡砦線の後方の糧食弾薬の集積を必要としていたし、無電学校の連中は、第二十八師の新式無電装備をほしがって、わいわいといっていた」


1931年5月16日の夜、朱徳と毛沢東は正規の紅軍と補助のパルチザン部隊に戦闘命令を出したのち、司令部を東固山岳地の要害に移した。

そこには衛生部隊が設置した二つの後方基地病院があった。

何千という数の民衆は勝利を信じて疑わず、さまざまな地点に集った。

そして紅軍の負傷兵を運ぶためのありとあらゆる形の担架を用意したり、捕獲した敵の軍需品を運ぶために、かごと担い棒とを携えて来た。


朱将軍は農民の心の中に残っている古い封建意識については包みかくすことなくあからさまに語った。

農民は敵の負傷兵も紅軍病院に運び味方と同じように扱えという彼の命令を拒んだ。

大衆集会を開いて近代戦争の法を朱徳が説明しても農民に理解させることは難しかった。

敵といえども革命の味方に引き入れるという説明で農民の心を少しは動かせることできたが、この場合でも彼らはいやな顔をして、腹を立てるものもあった。


敵の攻撃が開始された。

朱徳はその正確な日時を知っていたので、その前の三日間、本隊は吉安地方の敵の背面に向って強行軍を行った。

敵の爆撃を避けて夜にだけ行進し、月のある夜に戦い、暗い夜は夜明けに攻撃した。


戦闘は17日の夜に始まることになっていたが、一発の砲声も朱徳と毛沢東の耳に入ってこなかった。

さらに2日たっても何らの報告もないし、戦闘の音も聞こえなかった。

黄公略の紅軍第三軍は東固と吉安のあいだの前線を保持すること、一方報徳懐と林彪の部隊は敵の背後を攻撃することが命令されていた。

しかし黄公略からも報告がまったくなく、谷間は静まりかえっていた。


その沈黙があまりにも不気味だったので、朱徳は参謀長と二個中隊を率き連れて調査のために山を降りて西に向かった。

ほとんど山麓に降りてきて、二つの峰のあいだの狭い谷に入ったとき、山上に向かって進撃していた第二十八師団の先鋒部隊と突然鉢合わせしてしまった。


「やっとのことで山腹の森林に入って散って、交戦しながら退くことができた」と朱将軍はいった。

「だが、敵が慎重にうごいているところを見ると、こちらの戦力を知りかねているのだ、ということは明白だった。
三時間後に、われわれが東固高原の近くにまで引き、毛が、司令部と病院と民衆との撤退準備をしつつあったときに、敵が兵を退けはじめたのをしった。

遠くからの銃砲声がひびく……紅軍第三軍が第二十八師の背後を衝いていたのだ。
そして、夜までには、その師団の大部分を武装解除した。

公秉藩将軍もその捕虜の中にいたのだが、彼は第一次作戦からある教訓を学び取っていたのであって、階級章もつかぬ兵隊服をきて、兵の中にまじっていた。
われわれが捕虜の兵のひとりずつに三元をやって故郷に帰れと告げたときに、公将軍も列をつくってその三元をもらったが、……一生のうち、こんなはした金をもらったことはなかったろう。

彼は、われわれを手玉に取ったが、われわれの方では、彼の銃砲と軍需品を取り、例の無電学校の生徒たちは、咽喉を鳴らしながら『手つかず』の彼の新無電機と技手とを、受取ったのだ」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-05 09:45 | 朱徳の半生(改編後削除予定)