李立三路線拒否 「上杭の歌」③ー4

f0364260_21032142.jpg

長沙占領と時を同じくして、8月1日朱徳と毛沢東は南昌攻撃を命じた。

やせて汗にまみれた兵士たちは南昌周辺の防禦陣地に向かって不眠不休で体当たりを続けたが、敵軍の砲火のもとに秋の木の葉のようにばたばたとたおれていった。

朱徳の顔色がしだいに土色に変わり、かすかに緑がかった色合いを帯びてきたように見えた。


24時間後、朱徳と毛沢東は指揮下の部隊に退却を命じた。

紅軍の各部隊は数マイルの間隔をおいた3つの縦隊となって、武漢へ向かって西に進み始めた。

その途上で彭徳懐の代表と出合い、江西省北西の森に覆われた山中に集結し、そこで彭軍と合流したうえで、李立三の指令を検討する会議を開いた。


李立三の指令は、長沙の奪回と第二軍団、第四軍団がすでに兵力を集中しつつあった武漢三鎮の占領を要求していた。

毛沢東はこの方針に異議を唱え、朱徳と彭徳懐が彼の意見に賛成した。

朱徳は次のような意見を述べて、毛沢東や彭徳懐やその他多くの参加者から支持を受けた。


紅軍はまだ、今後必要になってくる陣地戦を敢行するだけの、装備ももっていなければ、訓練もできていない。
長沙につぎこまれた敵の増援ぶり一つとってみても、彼らは、それぞれ電流を通じた鉄条網で強化された、三段構えの防禦陣地を構築している。
武漢の防衛は、さらにいっそう強力で、多数の外国軍艦が揚子江上に投錨し、紅軍の方向に砲門をむけて、待機している。
このように圧倒的な敵の兵力と、強力な装備とに対して攻撃しかけることは、結局紅軍の全滅をもたらし、その結果は、今後数十年間にわたって革命をおしつぶすことになるであろう。


しかしこのような意見はすべて否決され、9月第一週に長沙に対する第二回目の攻撃が始まり、9月13日の夕刻まで続いた。

数千の農民や労働者が紅軍の塹壕掘りを助け、米や弾薬を運び、戦場から戦死者や負傷者を運ぶのを手伝ってくれたが、人間の肉体は鋼鉄に対抗することはできない。


ついに朱徳と毛沢東は彼らの一生のうちでもっとも重大な行動の一歩であり、中国革命運動に難局をもたらした一歩を踏み出した。

彼ら自身も指導的メンバーの一員である党中央委員会が採決した政策つまり李立三路線を拒否し、紅軍に長沙からの撤退を命じたのである。

紅軍はそれぞれ異なった八個縦隊に分散して、江西省に帰り、9月30日吉安近くに集結した。

吉安は不在地主の城塞であり、南昌に次いで国民党軍の軍司令部のある要所であった。


朱徳と毛沢東との命令は、彭徳懐その他によって支持されたが、全部の支持はうけなかった。
そしてそれは武漢を囲んでいた他の二軍団の撤退を要求したものであった。
その結果、共産党としては、国民党独裁体制にたいする武装闘争の全国的計画全部を、放棄せざるをえなくなったのである。
しかしーーと、朱将軍は言明したーー。これ以外のいかなる決定も、「革命の生きた中核」を破滅させる結果になったであろう。
李立三路線は、純然たる「冒険主義」であり、――彼がさらにつけ加えていうところによれば、しかも、支持すべき根拠もないところの、ロマンチックなばくちにほかならなかった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


[PR]
by far-east2040 | 2017-04-18 21:09 | 朱徳の半生(改編後削除予定)