長沙占領と撤退 「上杭の歌」③ー3

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朱徳と毛沢東の第一軍団が動き出すと同時に、彭徳懐の第三軍団は江西省北西の基地を出発して西進し、湖南省の首都長沙を占領し、後に北に方向を変えて武漢に向かうはずであった。

その間に、賀竜指揮下の第二軍団は西から、徐向前と張国燾は北から武漢に向かって兵力を集中させ、武漢内部からは工業労働者がゼネストに立ち上がる予定であった。

東西に揚子江を抑え、南北に北京―広東鉄道を支配する「中国のシカゴ」と呼ばれる武漢三鎮はこのようにして中国人民の同盟軍に手中に落ちて、やがて全中国も落ちるだろう。

スメドレーは朱徳の語りに「すばらしい、劇的な戦略だ」と口をはさんだが、彼は目を細めて謎めいた表情を返した。


「まったく、この作戦は、芝居だった!」みじかく、ちらと笑って答えた。


革命軍は数は少く、装備もきわめて貧弱だった。

一方軍閥の軍隊は兵力も大きく大砲も持ち、国の資源も注ぎこむことができた。

その上帝国主義諸国の軍隊が沿岸水域だけでなく揚子江の奥深く侵入していて、大都市である武漢の真ん前にいかりを下ろしていた。

朱徳たちの戦略は純然たる冒険主義だった。


「毛沢東と私とは、このことをよく知っていた。
しかし、この計画を阻止するだけの十分な情報をもっていなかったーーしかも、こういう疑念をいだいていたのは、じっさい、われわれ二人だけだった」


多数の政治工作員が部隊に先行して進み、農民に立ち上がるように呼びかけた。

紅軍が江西省を縦断して進撃するにつれて、敵軍は隠れたり、ばらばらに逃げ去ったり、南昌へ退却したりした。

進撃の途上で朱徳は数万の農民を軍に集めた。


「われわれは、農民をその場ですぐ武装させ、各戦闘部隊に配属し、行軍の途中で訓練した。
あらゆる大都市には戒厳令がしかれ、その路上には労働者やインテリの首が、ごろごろところがっていた。
ゼネストの準備は進行していたが、労働者の指導者たちは、すでに殺されていた。
われわれが、彼らを解放しないかぎり、労働者はなにもできなかった」


1930年7月29日、朱徳と毛沢東がはるか遠方から江西省の北端の南昌の周辺の強力な防衛陣地を観察した同じ日に、彭徳懐の第三軍団が湖南省の首都長沙を占領し、湖南、江西、湖北三省のソビエト政府の設立を宣言し、不在主席として李立三を推したという知らせが中国じゅうにぱっと広がった。


朱毛軍による南昌への脅威と、長沙の占領という事態に直面して、外国帝国主義諸国は国民党を援助するために直接戦場にのりだしてきた。

アメリカ、イギリス、イタリア、日本の砲艦は長沙から全外国人の引き揚げを終えていたが、紅軍による占領の次の日にはふたたび長沙に引き返してきた。

湘江に停泊したこれらの砲艦は長沙の市街に向かって四日間の砲撃を開始したので、市内には大火災が起こり、数千の兵士と市民が殺された。

この砲撃を指揮したのはアメリカの砲艦パロス号だった。

紅軍の長沙進撃の際、いちはやく逃げ出した地方軍閥である何鍵はこの外国軍の反撃に乗じて上陸してきた。


8月3日、紅軍の諸部隊と紅軍を支持している市民組織は長沙からの撤退を開始した。

長沙から江西省北西部の鉱山地帯をつなぐ支線の鉄道労働者たちは、その夜一台の機関車と三台の車輌を何回ものろのろと往復し、まず負傷者を撤退させ、続いて敵から没収していた印刷機械、新聞用紙、米、現金などの物資を運び出した。


8月4日、軍閥何鍵はついに長沙を奪回した。

彼は一週間にわたって数千の市民を大虐殺したので、商人や産業資本家まで彼のことを「罪のない人民を虐殺することしか知らない屠殺者」と非難したほどだった。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-04-17 14:53 | 朱徳の半生(改編後削除予定)