農民パルチザン 「上杭の歌」②ー3

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上杭を占領して2、3日後、朱徳はふたたび行軍を開始し、福建南部一帯の敵軍を掃討した。

そしてついに10月の末に、朱徳の部隊は福建南部に隣接する広東省東江地方へ突入した。

この地方は2年前に有名な「鉄軍」が撃破されたところであった。


今回も朱徳は重装備の三個師団で攻撃してきた第十九路軍に敗北し、数百人の部下を失った。

朱徳にとって、最大の損失の一つは最も有望で高い教育を受けた紅軍司令官のひとりである連隊司令リュウ・アン・クンが戦死したことであった。

朱徳の胸の中には、革命のあらゆる闘いと、彼の指揮下で戦死した全員の名前が刻み込まれていた。


東江地方のゲリラ部隊を増援するために、二個中隊の義勇兵を残したうえで、11月の末朱徳はふたたび北方へ撤退し、省境の山岳地帯を越えて、江西省へ入った。

この行軍の間、朱将軍は悲嘆にくれていた。


「国民党ならば、何千人の兵士をうしなおうが、そんなことはなんでもない」と彼は、悲しそうにかたった。
「しかし、紅軍の兵士は、軍閥の野心にみちた勝負につかわれる将棋の駒ではない。
われわれは、たとえ戦闘にまけた場合でも、生きのこった一人一人の兵士が、新しい軍隊をきずきあげ、革命をつづけることができるように、一人一人の紅軍の兵士を教育してきた。
一人一人が、革命の貴重な財産だったのだ」


朱徳は革命途上で数多くの敗北や何千人という人間が戦死していくことは覚悟していた。

しかし、彼は自分の指揮下で起こった一つ一つの敗北や戦死に対して激しい悲嘆を感じていた。

彼の部隊がたくさんの軍事物資やその他の補給物資を入手したという事実で慰めようとしたが、出来なかった。

朱徳の憂鬱が少し解消されたのは、広東―江西省境にそった山地で一隊の農民パルチザンに出会ったことだった。


その付近にいた六百人のパルチザンのうち二百人近くは、一年前朱徳と毛沢東に従って井岡山の封鎖を突破した紅軍の古参兵だった。

彼らは一年前の厳しい冬、この山岳地帯で紅軍が必死の戦闘を続けていた当時、病気や負傷のために農民のもとに残された人たちだった。

彼らには小銃と数発の弾丸を与えられ、全快したならば、農民のパルチザンを組織し指導するように言い渡していたのである。


生き残ったものはみな命令通りに行動していた。

彼らは互いに連絡をとりながら、小さな連隊を組織し、各分隊には政治工作員にいたるまで紅軍を模範として編成されていた。

無事に元の紅軍に戻れた彼らは、朱徳を安全なパルチザン地帯に案内した。

朱徳はここで休養して、福建にいる毛沢東へ使者を送った。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-04-08 20:16 | 朱徳の半生(改編後削除予定)