歌と戦い 「上杭の歌」②ー1

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朱徳が語る生涯の話は歌と戦いになった。

朱徳にとって歌うことは生活の一部であり、生活と思想は戦いによって形成されたものだからだった。


紅軍が来るまでは、人民が歌を歌うということはほとんどなかったという。

まさに革命こそが人民のエネルギーを解き放ち、いろいろな歌を生み出した。

農奴や奴隷の身分から解放された喜びを歌う簡単な歌もあったが、農民の希望や、自由世界へ進むことができると知ったきっかけを表現したものもあった。

人民に合唱することを教えたのは紅軍であった。


新しい民謡の一つである「上杭の歌」は、農民たちが紅軍から教わったものの引き写しだった。

貧しい人たちに対する同情と、福建南部の上杭という城壁に囲まれた市にヨーロッパ中世の貴族のように住んでいた地主への憎悪の情をつづったものだった。


そしてこの民謡が語っているとおりに、仲秋の日に朱徳は正規軍二個連隊と数個部隊の赤衛隊を率いて、福建南部の上杭に向かって進撃した。

行軍してゆくと、沿道の農民たちはそれぞれ鋸や斧や槍をとっていっしょに加わった。


ある日の午後遅く、朱徳と彼の幕僚は沈みゆく太陽をながめながら、木々におおわれた山腹に立って、足元に広がる谷のなかの地主の要塞でもある古い城市を見下ろしていた。

歩いてこの町に入るには南門に通じる1本の道しかなかった。

この門は厳重に要塞されていて、しかも毎日数時間しか開かれなかった。

ほかの3つの門は閉鎖されていて、内側には砂袋が積み上げられていた。


朱将軍と幕僚は熟達した専門家の目で状況を観察した。

朱徳は敵が待ち構えている西側から攻撃する気はなかったので、そばにいた連隊司令林彪を振り返って、西門の前に並んでいる丘を指差していった。


「あの丘の上に、臼砲を二、三門配置すれば、敵軍全部を西門の周辺にひきつけるくらいの大さわぎをおこさせることができる。そのあいだに、背後から城壁によじのぼって、占領しよう」


この地方の状況は、赤衛隊が詳細な報告を地図を地面に書いて教えてくれていた。

市の真北からトークー河がうねり流れていて、城壁の北側、東側、南側のまわりを完全な馬蹄型状にかこんでいる。

川と古い城壁との間に、かなり幅広い土地が帯のように横たわっていて、その夜の攻撃に大いに役立った。

北門の真ん前には木におおわれた丘があり、朱将軍はここに第一次の司令部を置いた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-07 09:28 | 朱徳の半生(改編後削除予定)