戦没者大慰霊祭での演説 「上杭の歌」①ー8

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寧都の町の占領後2週間目には、北方から三個師団の敵軍が血に飢えた目つきをして圧迫を加えてきたので、紅軍はふたたび行軍を開始することになった。

寧都のソビエトと多くの人民組織が山地の村々へ撤退するのを援助したあと、敵軍二個師団に追跡されながら、汀州の基地に向かって出発した。

しかし、汀州も海岸方面と南方広東省との2方面からも、敵の数個師団が進撃してきておびやかしていた。


包囲体制の中で最も弱い敵軍は海岸方面から進撃してきた福建軍であった。

紅軍を率いた朱徳と毛沢東はこの方面を選び、汀州を素通りして、城壁をめぐらした竜岩という町に電撃的攻撃を加えて占領した。

この町は福建軍の補給基地だったので、あらゆる種類の軍需品と一万ポンドにのぼる阿片を奪い取った。


竜岩では紅軍の戦没者大慰霊祭が催され、朱徳と毛沢東の二人も演説した。

この地方一隊から一般の人たちも大群衆となって参列したが、戦死した兵士が名誉を受けるということは彼らにとってかつて聞いたこともないことだった。


慰霊祭の間じゅう、かがり火として奪い取った阿片を燃やし続けたが、これに火をつける儀式は朱徳が執り行った。

そして、毛沢東は大群衆に向かって、将来中国が解放された場合は、革命途上で亡くなったものは立派な名誉を受け、遺族は年金を受け取り、遺児は国費で教育を受けるだろうと演説をした。


朱徳がそののち数年間一千回は繰り返したであろう議論を初めて展開したのはこの慰霊祭でのことだった。

太平天国の乱から1911年の辛亥革命、袁世凱打倒の運動であった1915年の革命、さらに1925年から27年の大革命までの中国の革命闘争の歴史を回顧して、中国の人民はこのような革命的伝統の継承者であるという事実を忘れてはならない。

この革命的伝統は植民地諸国の人民の解放闘争や全世界の抑圧されたもの解放闘争の一環になっていると演説した。


スメドレーは朱徳の演説をたびたび聴いたが、声は小さくて演出効果をねらうとか美辞麗句を並べることもせず、とくに上手な演説家ではなかったという。

演説というよりはむしろ学校の先生のようは話し方で、ときどき話をやめて、聴衆に「わかりますか?」と確認するのであった。


もし聴衆が、わからないと答えると、彼は、ことばをかえてみたり、もっとわかりやすいことばをつかったり、苦心惨憺して、もう一度説明しなおすのであった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-04 18:11 | 朱徳の半生(改編後削除予定)