江西南部の農民たち 「上杭の歌」①ー6

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地主の民団や地方軍と戦いながら、江西南部じゅうを進撃してまわった旋風作戦の話を、朱徳は社会学者のように冷静に語り始めた。


これらの地方では農民たちはぼろぼろに崩れた城壁に囲まれた小さい村々に住んでいた。

城壁の門はたいてい一つで、内側には二本の汚い泥道があり、この通りに面してわらぶき屋根のあばら家が並んでいた。

この通りは雨期には完全に泥沼になった。

気候のいい季節には、通りの両側の蓋のないどぶは腐りかかった廃物でいっぱいになった。

陰気な小屋には入口は一つしかなくて、窓はない。

地面にじかに敷いたわらむしろか、木の足の上に板をのせ、その上にわらを積み重ねたものを寝床にした。

このわらは敷ふとんにも掛ふとんにもなった。

掛ふとんをかけるというのはぜいたくなことだったので、持っているつぎはぎだらけの服を着込んで眠った。

食事をする荒削りの木のテーブルと腰掛けくらいはある。

泥でこねあげたかまどには、中に鉄の筒があり、その下に焚き口がある。

かまどの上にはどんな料理にでも使う鍋が一つだけかけてある。

燃料は乾いた草や木の小枝などで、子どもたちが付近の山から集めてくる。

粘土製の茶碗は割れたところを小さなかすがいでうまくつないである。

箸は竹を削って作ったものである。


これらの村々には文明の光がかつて差し込んだこともなく、病気と悪疫と時には犯罪の温床でもあった。

小作料は七割という高さで、作物で納めるときはもっと高率になった。

高利の借金、凶作、省軍や地方軍の徴発が農民の死亡率を高くし、農民の家族数を少く抑えていた。

朱徳の観察によれば、農村人口の少なくとも七割が貧農で、そのほとんどは文盲だった。

市が立つ町や都市には学校は一応あったが、授業料を支払い、子どもたちにきちんとした通学服を着せる余裕のある家だけに許された贅沢だった。


地主たちは大きな町や都市に住み、堅固な城壁の外で安泰に君臨し、内側では役人、裁判官、陪審員、死刑執行人かつ民団や地方省軍守備隊の司令官でもあった。

地主たちはこれらの軍隊を率いて村々を歩き回り、自分たちが税金として賦課した穀物を農民たちが埋めて隠さないように取り入れを監督した。


この暗澹たる農民の人生への絶望感が、「朱毛」という一人の百姓が「貧乏人の軍隊」を率いて郷紳と戦っているという噂がいたるところから伝わってくると、春風のもとの氷のように溶け始めたのである。


うわさによると、この朱毛という男は、神通力をもっていて、自分の軍隊を敵から守るために、旋風をまきおこしたり、雲をよんだりすることができるといわれていた。


紅軍が来ることを農民たちに知らせるために、百姓の服を着た男たちを軍隊に先行して進ませた。

話を聞いた農民たちは紅軍が来るのを待たずに、原始的な武器をとって都市からかけつけた民団に押しつぶされるまで戦った。

農民指導者の首が村々の前で棒の上にぶら下げられ、夜になると悲しみに打ちひしがれた女たちが棒の根元にしゃがみこんだ。


かろうじて死をまぬがれ、疲労こんぱいして朱徳のもとにたどり着いた農民もたくさんいた。

あるものは息子や兄弟を殺された悲しみに泣き、あるものは憎しみをこめた声で「わしにも、たたかわせてください」といった。


朱徳は眼を小さなきびしい点のようにせばめて、じっと彼らの話をきいていたが、そばにいるわかい指導者たちをふりかえって、こういった。

「みんなに銃をやれ。行軍の途中で、訓練しろ!」


二十年後には太古以来の圧制を絶滅させることになる農民たちがまきおこす旋風は、江西南部の朱徳や北西を進撃していた毛沢東、さらに中国じゅうの十数カ所にいた指導者たちのまわりにも渦巻いていた。


「われわれは、どんな村をも攻撃する必要は、まったくなかった」と朱将軍はかたった。


村じゅうのものが紅軍を迎えるためにどっと表に出てきたし、何マイルも歩いて迎えに来てくれたこともあった。

しかし地主の拠点は突撃して奪い取らなければならなかった。

城壁には工兵隊の卵として編成されていた鉱夫たちが、穴を堀り黒色火薬をつめて爆発させた。

爆破後の穴の大きさが不十分な場合は、農民たちがはしごを持ってきて城壁をよじ登った。

地主の米倉をきれいにするために、たびたび女や子どもたちまで天秤棒をかついでいっしょに行軍した。

紅軍は三日分の配給米を袋に詰め込み、残りは農民たちに分配した。

そしていたるところに訓練された要員を残し、農民の組織と指導にあたらせた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-02 07:22 | 朱徳の半生(改編後削除予定)