瑞金会議 「上杭の歌」①ー5

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瑞金会議では、毛沢東議長のもとで二つの独立した軍事と政治作戦を立案した。

一つは、朱徳と毛沢東の指揮下で江西省の南部と中央部の反革命勢力を粉砕して、福建省西部を含めたこれらの地域を中央革命基地に転化するという計画だった。

そして華南一帯に拡大していくことになっていた。


二つ目は、彭徳懐が指導して井岡山地区に戻り、できればこの地帯の人民運動を復活させる計画だった。

そののち彭徳懐は彼の古い基地である江西省北西部の鉱山地帯に進軍し、しだいにこの地域を強化拡大し、湖南、湖北両省の隣接地域を統合してゆき、最後には南方で朱徳と毛沢東が建設した中央ソビエト区と統一することになった。


2週間休養しているあいだに、汀州から着いた新しい軍服を受けとって、彭徳懐の部隊は進軍していった。

朱徳と毛沢東は一旦汀州に帰り、1週間後毛沢東は一千人の部隊を率いて、興国から敵軍を追っ払うために江西省中央部に向かって進軍を開始した。

興国と東固のゲリラ基地を統一し、紅軍の学校や病院、兵器工場、その他の施設を提供することになっていた。


毛沢東がこの使命のために出発してから1週間後に、朱徳もまた汀州を出発し、江西省の南部一帯にわたって行動を開始した。

彼はいくつかの部隊は汀州と瑞金に残し、パルチザン部隊の組織と訓練をさらに拡大するように命じた。

東固山地の東方数マイルにある城市で、かつて一度紅軍が占領したことがある寧都の町こそ、朱徳の作戦の最終目的地だった。


朱徳は自分が関わった軍事作戦について語る場合、奪い取った兵器の型や数、種類などをひとつひとつていねいな報告を繰り返しながら、長期にわたる苦難に満ちた革命の成長の姿を描いた。

朱徳はしばしば「紅軍の父」といわれているように、過酷な闘争と忍耐強い訓練の成果との生きた化身であった。


しかし、いくら軍事問題を強調したといっても、同時に彼は、つねに人の意表に出る人でもあった。
その単純な態度や、素朴な外貌こそ、まさに曲者なのである。


延々と続く戦闘については、名だけ語って終わる場合もあったが、まるで社会学者のように民衆の恐ろしい運命について回想したり、自然環境の美しさを微細に語り、故郷の四川地方と比べたりした。

そして、朱徳の思い出には、いつでも民衆音楽に対する深い関心と愛好が絶えず表れていた。

だから、彼の話を聞くものは、彼の生まれた時代と境遇が別のものだったら、彼はいったい何になっていただろうかと考えさせられるのであった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-01 17:03 | 朱徳の半生(改編後削除予定)