不撓不屈の彭徳懐 「上杭の歌」①ー3

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汀州という町の占領は、中国革命史上の転換点であったことは明らかだった。

上海にあった共産党中央委員会からの使者が、国内や国際情勢に関する報告書と重要書類を持ってやってきたのは、占領から2、3日してからだった。

その文書の中には、中国国内のテロのため1928年の夏にモスクワで開かれた共産党第六回大会の報告と決議もあった。

第六回大会の少し後に開かれたコミンテルンの会議も同じ結論に到達していて、その報告もあった。


朱徳と毛沢東とに指導された軍隊が、彼らの党の中央委員会と接触したのは、この二年間に、これがはじめてであった。
朱徳と毛沢東らは、彼ら独自の道をすすみ、必要と確信にもとづいて、行動したのである。


この上海からの使者の数時間後に、一人の農民が朱徳の司令部に入ってきた。

着ている服のはしの裏地から、数行の文を書いた布切れを出したのだが、そこに彭徳懐の名が署名してあった。

朱徳と毛沢東が1929年1月に井岡山の山岳要塞を取りまいた敵の封鎖部隊を突破して出ていったときに、井岡山に残して指令をまかせた若い指令が彭徳懐であった。

井岡山でのその後のことは朱徳も毛沢東も知らなかった。

彭の手紙には、現在彼は瑞金にいるのだが、朱徳と毛沢東がこちらに来るか、彼が汀州に行けばいいのか知らせてほしいと書いてあった。

瑞金は江西南部の小さな県城で、汀州から西へ2、3日の行程であった。


多数の軍事および政治代表と、護衛隊一個大隊と上海からの使者も同行させて、朱徳と毛沢東はただちに瑞金へ出発した。

瑞金で、彭徳懐は彼らに井岡山でのその後の話をした。


朱徳と毛沢東が井岡山を出発後、敵はこの要塞の封鎖を圧縮してきただけでなく、ついに奇襲をかけてきた。

一人の選ばれた敵兵が腰のまわりに綱を結んで、絶壁を正面からよじ登ってきた。

彼は頂上に達し、次々とほかの兵士を引っ張り上げた。

彼らは人目につかない紅軍の歩哨を殺した後、数千の敵軍がどっとこの山道を登ってきて、包囲されていた革命軍に襲いかかってきた。

その結果、約六千人の革命軍は病院や兵舎で徐々に餓死していった。


彭徳懐は、敵軍を押し返してできるだけ多くの病人や負傷兵を森の中にかくす時をかせごうとした。

はって逃げたものも少しはいたが、やがて狩り出されて殺されてしまった。

そのほかのものは寝床に横たわったまま殺された。

やがて兵舎と病院は焼かれて灰燼に帰し、井岡山の家や建物すべて焼き尽くされ、防衛施設は爆破された。


この、身の毛のよだつような大虐殺のあいだじゅう、雪がふりつづけ、寒風が、悲しみの歌を泣きさけびつづけていた。

彭徳懐は、わずか七百人ばかりになった生きのこりをあつめ、これをひきいて、かつて朱徳と毛沢東とが通った同じ道を、岩山をわたり、石ころ原をこえて、進んでいった。
その部隊は、この年のはじめに井岡山を出た朱徳・毛沢東軍よりも、はるかに悪い条件におかれていたが、しかも封鎖をやぶって、脱出したときには、もう敵に大打撃をあてはじめたのであった。


紅軍はゆき先々で朱徳と毛沢東の行方を探したが、あちらこちらで朱毛軍が通り過ぎたという農民の噂を聞いたぐらいで、見つけることはできなかった。

ついに彭徳懐は朱徳や毛沢東は殺されたかも知れないと思うようになり、単独で紅軍を建設し、大衆革命運動を組織する活動に取りかかった。

多くの農民が彼のもとに集まり、瑞金にいたその時までには千五百人の勢力になっていた。


やがて汀州が紅軍に占領されたという噂を聞いた彭徳懐は、ただちに方向をかえ東に向かって進撃を始め、瑞金守備隊を撃滅したのち占領してしまった。

朱徳と毛沢東が瑞金に着いて、三日三晩続けられた瑞金会議で彭徳懐の話を聴いたあと、上海の使者が持ってきた報告と諸決定を討議した。


「われわれは、この諸決定を承認し、ただちに、それを実行にうつしはじめた」


と朱徳はこの会議の模様を簡潔な言葉で語り終えた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-30 13:35 | 朱徳の半生(改編後削除予定)