貧乏人の軍隊 「上杭の歌」①ー1

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東固地方のゲリラ部隊を再編成して、軍の隊列に編入してからは紅軍の兵力は四千人前後になった。

このうち三千人は休養をとってから八日目にふたたび作戦に出かけていくことになった。

その他のものは山地に残って畑を耕し東固要塞を守る任務についたが、このうちの三百人は入院中や、健康を回復していないため戦闘に参加できない朱毛軍の古参兵だった。


作戦に出た三千人の半分は近代的兵器を持っていたが、ほかは槍で武装していたにすぎない。

ごくわずかのものは、むかしの軍服のなれの果てと呼べそうなものを一応着ていたが、残りはつぐはぎだらけのだぶだぶのズボンに短い上衣、わらじにへんてこな形の様々な帽子という極貧の中国人の格好をしていた。


みな痩せて飢えていて、多くは15歳くらいから20歳前後の青年で、その手は大きく丈夫で、足の裏は皮が厚く固くなっていた。

彼らにとって人生は労苦と窮乏、不安と抑圧の連続であり、ほとんどは文盲だった。


長いソーセージのような形の米を入れた袋を肩からぐるりとかけて、反対側の腰のところで結んでいた。

いまはこの袋に2、3日分の米がたっぷり入っていたが、無くなると地主の倉庫から補給するか、敵の補給部隊から奪いとるしかなかった。


もう一つの装備品は実弾を入れる長い布製のベルトで、両肩から前と後ろへ十文字にかけて、腰の周りまで届いていた。

小銃を持っていたもののベルトには数発の弾薬が入っていた。

出発前の最期の査問を行ったときに、槍しか持っていない兵士に朱徳はいった。


「諸君もすぐに、みな小銃をもつことになるし、諸君の弾薬帯もすぐ一杯になるだろう」


朱徳も毛沢東もほかの指揮者もみな兵士たちと同じ格好をしていたので、まったく区別がつかなかった。

1929年の夏に写した写真の兵士の輪の中に立つ朱徳の格好は、頭は坊主できれいに剃り上げられ、半ズボンと前に開いた百姓の上着だけで、はだしにわらじだった。

いつもの癖で、両足を大きく開いて立ち、手を腰にあてて、顔にはユーモラスな表情を浮かべている。


1929年の早春、朱徳は軍隊と農民とのお別れの集会で演説したときも同じような格好だったかも知れない。

彼はこの山地の要塞めがけて三方から包囲してくる十一個連隊の敵軍のことを説明し、その後数年間集会で千回は語った戦略を述べた。


「われわれは、敵の内部の矛盾を利用し、多数を味方にひきいれ、少数に反対し、こうして敵を一つ一つ粉砕してゆかねばならぬ」


実際、敵の陣営内には多くの衝突と矛盾の兆候があった。

東固への東側の入口はまだまったく敵に包囲されていなかった。

蒋介石は仇敵の広西の将軍と争うことで多忙だったので、福建軍の諸部隊に東側の入口を封鎖するように命令していた。

しかし福建軍はこの命令を守らなかったからであった。


その理由を朱徳は福建軍が自分たちの領地で金もうけを続けたかったからであり、さらに蒋介石は直系の精英部隊を紅軍との戦闘で消耗したくなかったので、地方軍に動員を命じたからだと説明した。


紅軍の将兵たちは8日間ではまったく疲れがとれていなかったが、月が高く中空にさしかかった頃、朱徳と毛沢東は三千の部隊を率いて東側の斜面を下りふたたび作戦を開始した。

はるかに数が多い敵と戦う場合、紅軍はそのときどきの情勢に応じて独自に考え出した戦術を使ったが、それだけではなかった。


古い昔の中国軍や蒙古軍が使った戦術、19世紀の太平天国の軍が使った戦術、1925年から1927年の大革命で学んだ経験に基づいて、日本の士官学校で教育された国民党軍の司令官たちを途方にくれさせた戦術などをきわめて的確に用いた。


山のふもとに到着すると、いくつかの小部隊を編成して、主力と反対側の方向に行かせた。

大きな町を攻撃するようなふりをして敵軍をひきつけさせて、突然村々のあいだで姿を消したり、また別の町の前面に姿を現したりして敵を攪乱させた。


その間に朱徳と毛沢東は村々から地主の民団を追っ払い、人民を蜂起、武装させ、幹部に後をまかせてやりかけた仕事を続けていった。

敵軍は神出鬼没の紅軍を追いかけて、江西南部を騒ぎながら駆けまわっていた。


紅軍は農民に案内されて夜間に敵に奇襲をかけ、あっという間に敵の補給部隊から物資を奪い取り、たちまち姿を消したかと思うと、数マイル離れた別の地でふたたび姿をあらわすのであった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-28 07:43 | 朱徳の半生(改編後削除予定)