紅軍の進撃ー大汾、大余 土地革命の開始⑥ー1

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朱徳と毛沢東は四千人の兵を率いて敵の封鎖を突破した。

井岡山の山麓から外界へ通じる道を知っているのは、匪賊になった農民以外いなかったし、誰もあえてこの道を辿ろうとする冒険をおかすものもいなかった。

山道の痕跡すらなく、巨岩と火山の先鋒との混沌とした世界にすぎなかった。


1929年1月の明け方、井岡山と江西―湖南の省境を南へ走る山脈を結びつけるぎざぎざの尾根のいただきを、ぼろぼろの服を着た男女の群れが一列になってはいのぼり始めた。

激しい風雨雪のためにすべりやすく、くぼみには雪がたまっていた。
口を開けている真っ暗な割れ目にすべり落ちないように、互いに手をつなぎ合って少しずつ進んでいった。


夕暮れがせまる頃、彼らは狭くて傾斜した固い火山岩の台地に着いた。

そこで各人が携帯していた冷たくなった米の飯を半分だけ食べた。

互いに身を寄せ合い、震え、咳をしながらその夜をすごした。

夜があけると、ふたたび南に向かって進んでいった。

午後遅くに、大汾の村へ下る雑草の生い茂った細い道に出た。

この村には、敵兵一個大隊が駐屯していた。

この山道で行軍を停止し、残りの米の飯を食べて、夕闇がたちこめてきたときに、音をたてないよう静かに下り始めた。

山道のふもとに着いてから、彼らは大汾の村を包囲し、弾薬を持った数個部隊が村に入ってゆき、たちまち敵の守備隊を制圧してしまった。


「その晩は、われわれは、実によくたべたよ!」と、朱将軍は、いかにも満足そうに、語った。


捕虜たちとはよく話し合った後、釈放した。

捕虜を訓練する計画は持ってなかったし、むしろ彼らに警報を拡げさせて、封鎖部隊に自分たちを追跡させようと考えたからだった。

ところが、封鎖部隊ではなくて、ほかの場所にいた敵軍が警戒態勢についた。

南に向かって急進撃を続けながら、かかしのようなぼろをまとった紅軍の諸部隊は、瞬時に地主と民団を襲撃し、敵から食糧や補給物資を獲得し、地主の家で手に入れた服で着替えをしていった。

そしていたるところで農民に呼びかけ、彼らの昔からの仇敵を一掃させた。


紅軍はこの地方の守備隊を粉砕し、江西省南西部のタングステンの都市大余を占領し、三日間とどまって、弾圧されてきた大衆運動を復活させた。

こうしてわざと敵軍一個連帯に紅軍に追いつく時間を与え、彼らを混乱と絶望の戦闘に追い込み、数百人の戦死者を出させた。


朱徳と毛沢東は退却を命じた。

その後の10日間は、氷に閉ざされた山々の中で四方八方から攻撃してくる敵軍との激戦の連続だった。

紅軍が通り過ぎた雪道の上には、血にまみれた死体が続いた。

昼間しか行動しない敵軍を追い抜くために、紅軍はいつも数時間だけの休息をとり、真夜中ちょっとすぎに行軍を開始した。


村に近づくと、紅軍はまず一人か二人の兵士を先行させたので、農民たちは外に出てきて、紅軍のために米を集め、負傷者や疲労した人を引き取って匿ってくれた。

あとに残って農民の世話になるものには回復したら、農民を組織できるように小銃と数発の弾薬を与えておいた。


「紅軍の兵士を訓練するに当ってのわれわれの方針は、たとえたった一人だけしか生き残らなかったとしても、その一人が人民を蜂起させ、指導することができるようにすることだった」と朱将軍はかたった。

「あの恐怖にみちた時代には、数かぎりない戦闘をまじえたが、あるときはたった一回の戦闘で二百人もの同志を失ったこともあった。
またあるときには、二十人の兵士と一人の黄埔軍官学校出身者とが敵の捕虜になったことがあった。
この二十一人は、そのころ江西省南部のある県を守っていた一個連隊の敵軍に加わった。
二、三ヶ月後、彼らは、連隊全員を指導して、叛乱をおこし、この県をゲリラ基地にかえしてしまった。
その後、ここは、われわれのもっとも強力なソヴェト地区の一つになった」


さらにほかの戦闘では朱徳の妻呉玉蘭が行方不明者の一人になってしまった。

彼女は拷問されてから首を切られ、彼女の首は郷里の長沙の町に送られた。

市の長老たちはその首を棒の上に突き立てて、大通りのさらしものにした。

彼女と同じような考えを持つものに対する見せしめにしたのだった。

                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-25 09:00 | 朱徳の半生(改編後削除予定)