福島から避難してきた女性の話ー3

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原発が危ないことはわかっていても、口に出せない雰囲気があった、原発城下町と呼ばれる村で大工をしながら暮らしていた中で大震災が起きた。
彼女の家は地震でも壊れなかったので、すぐに通常の生活に戻れたという。


                                            2011-05-10 公開

暗くなったころに、まず「冷却水ストップ」のニュースが、ニュースの中でほんのちょっとです。
すごく大きなことなのに、ちょっとだけニュースで聞こえました。

「何か起こっているんだ」と思いました。
それから1、2時間後、3キロ圏内避難指示というニュースが入ってきて、夫といっしょに避難しよう、何が起こるかわからないから、少し離れたところまでいって寝ようといって、パジャマを着せた子ども、5歳と1歳の子どもがいるんですが、子どもを車の後ろにふとんを敷いて乗せて、とりあえずの荷物、「とりあえず、とりあえず」って自分の身に言い聞かせながら、家を出ました。


そして40キロ離れたとこまで行って一晩明かし、次の日は100キロ離れた会津の辺まで行って、様子を見てましたが、いっこうに収まる気配はなく、水素爆発の手前のころでしたが、私はそのとき後ろに髪が引かれて、自分が住んでいたところはきっと大丈夫って避難を決められなかったんですね。
でも、夫は小さい子もいるんだから、絶対川内には帰れないから、離れようっていうんですね。
頭ではわかってるんです。
けど、心と身体が動かないんですね。
突然断ち切られて、自分の家から出てきて、しばらくぼーっと会津若松の町ですごした後、あるときに「あっ、そうか、私が住んでたあそこにも放射能が来ちゃったんだ」って認めた瞬間があって、とっても悲しくて。

それからとりあえず「しばらく滞在できる岡山の実家に帰ろう」と決めて、車で新潟をとおって3月13日に岡山に着きました。

今私が住んでいた川内村は全村避難で、村の人たちはほとんど、牛を飼っている人や鶏を飼っている人はどうしても離れなくて、少しは残っているんですけど、今川内村はからっぽです。

働き者の大工の親方も、春が来て種をまきたいお百姓さんたちも狭い避難所やビジネスホテルでこの春を迎えています。

きょう広島の町にバスに乗って入ったときに、「あ、そうかっ」て気がついて、ここは原爆が落ちたときに、やけどをして亡くなった人たちは、私はもう後に生まれて、その人たちは被爆者としてしか認識していなかったけど、8月6日のその日まで普通にそこに生活していた人たちだったんだ、という事実に気がつきました。


今、福島県で被災している人たちも、当たり前のように自分の場所でささやかな幸せな日常を送っていた人たちが、自分たちの土地を生活を離れています。
またそれは放射能は目に見えません、一見自分が住んで場所は何も風景が変わっていません。
少しだけ屋根は落ちていたりするんですけども、変わっていません。
その事実を認識することのむずかしさということも感じています。


人はお金がなくても、土と水と空気さへあれば生きていけます。
どんなに札束があったって人はそれだけじゃ生きていけません。
私たちの命を支えるものは、この大地と水と空気です。
その一番大切なものを福島県の人たちは奪われてしまいました。
これから5年、10年ずっと長い間どうぞ福島の人たちに思いを寄せて、関心を持って、そして愛を送ってあげてください。


それから、この教訓をエネルギーシフトへの明るいエネルギーに変えていけるように人がつながって、つながることからしか力は生まれないと思います、みなでつながって変えていけたらいいなと思っています。

……

このあと1分ほど、彼女が取り組んできたフラダンスの紹介があるが、うまく聞き取れないので省略。
動画の中では、冷静に語ろうとする彼女の揺れる肩や息遣いが伝わってきて、観た人はみな彼女に好感をもつと思う。

関西なので、福井県の原発で何かあれば、まず水がだめになるだろうから、次世代である子どものために避難しないとだめなのかなと考えている。
 



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by far-east2040 | 2016-06-22 15:05 | 震災・原発