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           アメリカ海軍の駆逐艦(Wikiより借用)


朱徳の説明によると、もはやこの時には、革命をつぶそうとする国際的陰謀は、世界のあらゆる帝国主義国の首府から、上海にむかって毒手をのばしており、外国人たちは、いつのまにか、蒋介石は結局は「過激派」ではなく、じつに善良な人物だといい出した。
「外国人は、片手で蒋介石をなでながら、もうひとつの手で、国際武力干渉で、おどかした」


蒋介石も、なかなかの人物で、本音を隠して計画を立てていた。

だがその本音が、あからさまになったのは、後のことだった。

中国銀行団は、蒋にむかって、もし革命をすてて、独力で軍事独裁政権をうちたてさえすれば、融資と外国の承認を約束する、と申し出た。

その融資の額は、2500万ドルとか3000万ドルとかと噂されていたが、私(スメドレー)は、やっと1949年に、もっとも信頼できる外国の情報によって、それは当時の貨幣で6百万元にすぎなかった、ということを知った。


この融資の代償として蒋に課せられた仕事とは、漢口国民政府と縁を切るだけでなく、上海の労働者の武装解除をして、元の工場に追い返し、共産党をつぶしてしまい、国民党とソ連との同盟を断ち切る、ということだった。

しかしこの陰謀の、あらゆる筋書きがはっきり明るみに出たのは、第二次世界大戦の後になってからのことだった。

朱徳は、この仕事には外国の干渉が関係しているにちがいない、と信じていたが、スメドレーに物語っていた1937年の時点では、その証拠はつかんでいなかった。

しかし、第二次世界大戦後に、ジョン・B・パウエルという、上海の『チャイナ・ウィークリ・レビュー』という新聞の所有者兼編集長で、かつ反共産主義の闘士で、いかなるときも蒋介石の味方であった人が、彼の自叙伝を出版したが、その『中国での二十五年』という本の中では、そうした外国からの干渉のことがいいことであるかのように書かれている。



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# by far-east2040 | 2018-08-17 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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            イギリス海軍の練習艦(Wikiより借用)



2日後の3月24日、蒋介石軍の他の一支隊は、南京に突入して、無数の敵軍を、市中に追いまわした。

敵軍は逃げながら掠奪を始めたのだが、まもなく蒋介石の軍隊もーーその多くは軍閥の軍から寝返ってきたものだから、――いっしょになってしまった。
そこで巻きおこった騒乱の中で、イギリスと日本の領事館その他の外国人の家が掠奪された。
6人の外国人が殺され、12人が傷ついた。


イギリスとアメリカの砲艦は、即座に南京に向かって火ぶたを切り、騒乱を終焉させ、それから陸戦隊をあげて、居留民を護衛して砲艦にむかえた。
この事件で、数百の中国人が死んだ。


この「南京事件」は、ほとんど国際武力干渉を招くところだったが、蒋介石をしてついに反革命の態度をとるようになった多くの原因の一つにもなった。

蒋の方針は、もともと決まっていたのだ。
しかし、いまや彼は、この南京事件の責任をすべて共産党に負わせて、わが軍内にいる政治工作員がこの暴発の元凶である、と声明した。


外国人はこの解釈を喜んだのだが、総じて彼らも蒋も、ほとんど共産党に支配されていた「鉄軍」こそ、全国で最も軍規が正しい軍隊であり、かつて掠奪も外国人への暴行もしたことがないという事実を無視したのだ。


朱徳将軍は、南京事件と上海ゼネストとにつづく悲劇的な余波については、つぎのように語った。


――南京事件のさなかに、蒋介石は船から南京にいったん上陸したが、市に入って秩序を恢復することはしないで、にわかに他の船に乗りうつって上海に向かい、そこで彼は、労働者に、武器を捨て、ゼネストを中止し、工場に帰れ、と命令した。

当時上海にいた共産党書記長陳独秀は、労働者にむかって、その命令にしたがうようにと勧告した。

労働者は、すでにかずかずの奇怪な事件の発展によって目覚めていたので、その勧告を拒んだ。

漢口の国民党政権は、布告して、今後は軍事は行政権に従うようにと命令した。

上海には、革命臨時政権がすでに樹立されていて、労働者は、その政権、――すなわち漢口からの命令を受けている政権に、したがうことを誓った。


だが労働者は見たーー蒋介石は、上海に入ると、ただちに、中国の銀行家、工場主、それから青幇と、秘密の交渉に入り、青幇の連中は、フランス租界と共同租界当局の本部とのあいだを、いそがしく、かけまわっていた。
しかも、蒋は、この上海を解放した革命勢力とは、話し合おうともしなかった。
彼らに対しては、蒋は、元の奴隷状態に復帰すべし、と厳命した。
青幇というのは、何万という、暴力団、アヘン売り、泥棒、女衒、ごろつきなどから成り立ち、外国人および中国人の反動派とつながっていて、労働者その他の革命勢力から憎まれていた。



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# by far-east2040 | 2018-08-16 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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             周恩来(『抗日解放の中国』より借用)


ちょうどこの蜂起が崩壊し恐怖に支配されていたころ、イギリスの特別遠征隊が、アメリカ、フランス、日本の陸戦隊とともに上海に上陸した。

そのころ蒋介石の軍も、上海に集結しつつあった。

彼らの上陸の3日後、――2月19日に、上海の労働者はストライキに入ったが、これを1回目として、後に2回のストライキがおこったが、すべて周恩来が組織したものであった。

揚子江下流域の軍閥、孫伝芳将軍は、おのれの全力をあげて、1回目と2回目のストライキにおそいかかり、それをつぶし、大衆への見せしめとして、何百の労働者の首を斬った。


それにひるまず、労働者は3回目のゼネストをやり、3月下旬、ちょうど蒋の軍が上海に近づきつつあったときに、全市を麻痺状態にした。

ピストルをかざした3百人を先鋒として、彼らは、警察署、守備隊本部、それから兵器廠を襲撃した。
そして武器を手に入れて、軍閥孫の部隊とたたかって、全上海地区を追い散らし、そして蒋の軍を市に歓迎するために、代表を派遣した。


私(スメドレー)は、その代表のひとりを知っていた。
彼は鉄道の運転手であったが、労働者の武装隊に投じて、軍閥孫の下の白系ロシア人連隊と、北停車場と鉄道沿線で戦った。
一日一夜、休みなく戦い、ついにその傭兵を根こそぎ追っぱらった。
蒋介石の軍を歓迎する代表使節のひとりとなったことが、彼にはうれしくてたまらなかった。
しかし国民軍先鋒部隊――広西省からきたものーーの司令部についたとき、彼と同志は、冷淡な扱いを受けて、おどろき、とまどったのであった。


「士官たちは、わたしらの歓迎の言葉はきいたんです。
だが一言もいわないで、わたしらをにらんでいた」と、彼はいった。
「蒋の軍が入ったところでは労働者の運動を弾圧している、という噂はたくさんきいていたんです。
が、わたしらは、そういうことは、ひとりひとりの部隊長がやったことだ、と思っていた。
ところで、わたしらは戦って、何千もの同志が死んだんだが、蒋の士官らは、わたしらを敵みたいに扱った。
わたしらが、帰って労働組合の本部にそのことを報告すると、みなのものが不安になった。
だが、われわれはまだ銃をしかとにぎっているんだから、やつらもわれわれに、ひどいことはするまい、と思ったんです」



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# by far-east2040 | 2018-08-15 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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              劉伯承(ネットより借用)


国民党右翼のものも、秘密の組織をつくり、南昌では孫文主義学会といっていた。

ひとたび孫逸仙が亡くなると、生前には彼の政策を非難していたものも、彼の名のかげに隠れる方が便利だと考えた。

南昌の国民党右翼の孫逸仙クラブは、まもなく反革命の秘密本部となった。

隠れていたその連中は、1927年のはじめに、蒋介石が南京や上海に進軍して労働者や農民の組合を弾圧しはじめると、はじめて明るみに飛び出してきた。

江西にいた雲南軍もすぐに見ならって、労働者農民の指導者の多くを殺した。


1927年2月中旬、南昌の反動派は、はじめて正体をあらわして、暴力団をやとって、棍棒や鉄棒をもたせ、労働団体代表者の会議を襲撃させた。

会議場内や前面の街頭で、はげしい闘争がおこった。
朱徳は何人かの暴力団をとらえた。
彼らは、孫文主義学会に頼まれたからやった、と公言して、悪びれもしなかった。


この事件の1ヵ月後、四川からの報道がきて、軍閥劉湘軍が、蜂起を弾圧して、数千の進歩主義者を、残虐きわまるやり方で殺した、と知らせた。
朱徳の2人の甥も、殺された中に入っていた。
その蜂起をひきいたのは、後に「独眼将軍」として知られる
劉伯承だった。

彼はかつては四川軍閥の一人だったが、革命に投じて共産党員になっていた。

朱徳は万県にいたときに劉に会っただけでなく、彼を四川に送って、革命支持の民衆組織をつくらせたのである。
朱は、会ったときのことをよく覚えている。

というのは、劉は朱の事務室につかつかと入ってきて、共産党の委任状を卓の上にぱっとおき、それからまた進んできて、朱の肩をぴしゃりと叩いたものだから、朱は、ほとんど床にたおれそうになったものである。
「おぼえとられですか?」と劉の声は高くひびいた。
「何年か前に、省の南の方で会ったですな。
あの時は、わしは、成都軍閥の走り使いになって、雲南貴州の軍と戦争しようじゃないかと、護軍と臭い取引をやりにいったのだったが」


朱将軍はいった。
「劉伯承は、立ってもすわっても、いつも動いている、という男だった。
それから、どうして軍閥稼業をやめて孫逸仙の方に走り、かつ共産主義者になったか、ということを、私にはなした。
私たちは夜が明けるまで話しあい、たがいが、道を探し求めて、ついに共産主義に突きあたるまでの、さまざまなことを語った。
劉が私をたずねてきたのは、
楊森軍隊ではたらきたい、という希望からだったが、私は逆に、劉湘に反抗する革命軍を組織するようにと、私の妻や友への手紙をつけて、南四川に彼を送ることにした。
彼は、生まれつき、組織と指導の能力をもっていた。
数ヵ月のうちに、南四川一帯の進歩的勢力を組織して、軍閥を相手に力づよい蜂起をした。
だが、
劉湘は強力な軍隊を投入して、彼を破り、何千の人びとを殺戮したが、その中には、大湾から歩いて参加した私の甥2人も入っていた。
劉自身は、逃げることができて、漢口に、それから南昌にと、たどりついた」

            

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# by far-east2040 | 2018-08-14 09:00 | 第5巻「大革命について」改編

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             方志敏(Wikiより借用)


南昌における反動派は、数からいえば弱小だったが、政治的には強力だった。
というのは、彼らは、高級軍人や、官吏や、豪商や産業資本家でありーーそのうちの多くは、同時に地主でもあった。

大衆運動をさしはさんでの、国内戦線の分裂が激しくなるにつれて、こういう人間たちは、漢口の国民政府ではなく、蒋介石が指導してくれることを待望した。

朱は、南昌国民党中央委員会に席をもっていたので、彼らが進めてゆく計画を知ることができ、彼らが、農民や労働者の組合を、弾圧するのか、軍事行動の補助機関にとどめるかにせよ、たえず索道することに対して、抵抗することができた。

彼らがとくに敵意をいだいたのは、農民運動講習所であったが、そこでは、少数の女をふくめた6百人の農民が、全省の各地から寄り集まってきて、農民指導者となる訓練をうけていた。


朱徳が監督するあらゆる施設で教えたことは、孫逸仙が生前に宣布した基本的な政治題目であって、それは、大衆組織の方法、三民主義、三大政策、革命の歴史、それからいくらかの世界と中国の歴史、などであった。
軍官学校では、時間の大部分は軍事教育にふりあて、他の施設では、大部分は政治問題にふりあて、課外にいくらかの軍事を教えた。
農民は、とくに大衆組織の方法についての訓練をうけた。


南昌時代には、個人的問題を考える暇が一瞬たりともなかった、と朱徳はいった。

夜明けから深夜まで、軍事と警察の両学校の運営をして、農民運動講習所で教える部下の仕事を監督した。

何か特別な意味のある日には、それらの学校で演説をしなければならなかったし、毎月曜の朝には、軍官学校で、孫逸仙追悼の式をおこなった。

国民党の諸会合にも出席しなければならないと感じたし、さらに共産党の会合があり、そこではたとえば、労働者と学生の特別グループの組織運営の問題などを話し合い解決しなければならなかった。


そうした共産党の会合の多くは、方志敏が校長である農民運動講習所でひらかれた。

彼は工業技師として教育を受けていたが、中国が生んだ最も有能な農民組織者であり指導者であった。

そして指導者のひとりだった1919年の五四運動の時に、共産党員になった。
朱の話では、方はそのころ30歳ぐらいで、背が高くたくましく、公衆の前での演説はまずかったが、会議の席上では光彩をはなった。

全国の5万の共産党員、3万5千の共産主義青年団員のうち、約1千人が南昌とその周辺にいた。
そのいくらかは学生だった。
他は、鉄道、ドック、河川、製陶などの労働者だった。

党各支部の中央理論機関はそれぞれ小新聞、パンフレット、冊子などを出し、研究グループと学校をもっていた。



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# by far-east2040 | 2018-08-13 09:00 | 第5巻「大革命について」改編