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戦中の日本軍による従軍慰安婦についてつたない見識で考えてみた。

まともに関連本を1冊も読んでいないし、ネットで情報に目を通すぐらいで、あくまでも個人的に感じていることになる。


日本軍の戦地での従軍慰安婦はたしかに悲惨な状況の中で存在したと思っている。


働いていたアジア図書館でアジア関連の書物に触れることが多かったころ、ちょうどメディアでも元従軍慰安婦の存在を取り上げていたと記憶している。

従軍慰安婦をキーワードにして被抑圧者としての女をテーマに蔵書を一同に並べる企画もした。さらに、講演会も企画していたので、元将兵から戦争体験を生の声で聴く機会もあった。


シベリア抑留を経験した元兵士だった人が、独身のものは慰安所のような所を利用している気配はあったが、自分は結婚していたので利用していないという内容を語っていたのを覚えている。

ただし、この場合は戦場が満洲や中国東北部なので、慰安婦がどこの民族の出身かはわからない。


ビルマ戦線にいた元将校だった人は、体験談の中では慰安婦については一切触れなかったけれど、会場で後片付けなどをしている私に、戦地にいたときは慰安婦は「素人」の女性とは思っていなかったという内容を言葉を選びながら毅然と語り、さらに軽く頭を下げた。

メディアで取り上げられていた頃だったからだ。


戦地(多分ビルマだったと思う)で「アイゴー(Koreanが泣くときに発する声)、アイゴー」と泣く慰安婦の声が戦後もずっと忘れられないという老兵の新聞に掲載された短歌をどこかで読んだ。


ビルマ戦線について書かれた本で慰安婦が写っている写真を見たことがあるし、兵が撤退するとき自分たちは逃げれないと観念し、数人でかたまって地の上に横たわっていたという目撃証言を読んだこともある。


1990年代よりずっと前に、日本のYという男性が自分は済州島で数百人の若い女性を慰安婦として仕事の一環で「狩りだした」という内容を証言した。
当時は衝撃的なものだったと記憶している。
私もよく知らないまま、当時はそのまま受け入れがたい事実を受け流したと思う。

が、現在は矛盾点も多くその真偽は不明らしい。


これは私も現在の見識では事実とは思っていない。何か別の目的があったのだろう。


当時Yさんは三十前後と思われる青年ということで仲間もいたらしい。
戦地に行かなくてもよかったの? 
それと言葉が通じない。
言葉が通じなくても暴力は行えるけれど、どうかな……。
言葉が通じなくても直接人と人が接触する暴力が行えるのは、こういう状況下ではレイプ以外想像できない。
それと済州島というのもひっかかる。
土地勘がない人がやれるかな。


ニューギニア戦線の元将校の方の体験談を聴いたことがある。
フィリピンでは文芸作品を通じて兵士が飢えて人肉を食べたという事実は知られているが、その方はニューギニア戦線でもその事実はあったと証言していた。
但し自分は食べていないとはっきりいった。
実際食べていたら、こんなところで話すことなんか絶対できないと真顔でいっていたのが印象に残っている。


暴力で慰安婦を一人や二人ではなく数百人という数を直接集めたと証言するYさんのパフォーマンスが大げさな感じがする。


元従軍慰安婦だった女性Kさんの大雑把な経歴を見たけれど、正直いうとちょっと違うなという感想をもった。
もちろんレイプもふくめて悲惨な人生を経験してきたことは伝わってくる。

ちょっとこだわるまでは、KさんはYさんの証言に出てくるような女性だと思ってきたからだった。

                                      (つづく)





# by far-east2040 | 2019-08-25 15:02 | 戦争の記憶

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亡くなった父は、戦中は「親日派」と呼ばれた微妙な立場で、終戦の年の8月15日を今の韓国の大邱という町に近い山間部の農村で迎えている。


若い頃、この立場がとても珍しいと気づいて、折にふれて積極的に聞き出そうと試みたときもあった。
父は確信犯ではなく、いつのまにか気づいたら「親日派」とよばれるひとりになっていたということだった。


韓国にいる叔父に「父は親日派とよばれてそのことがいやだった」という内容を語ったとき、辛い顔をされて感情的に否定されたことがあった。

「親日派」ということばは韓国の人と私のような部外者では受け止め方がかなり違っていることに気がついたときだった。


父に久しぶりにあったときのことを思い出す。
テレビで元従軍慰安婦だった老女がメディアの取材に応じて感情的に訴えているシーンがよく放送されていたころで、1990年前後かな、よく覚えていない。


父は弱い立場の人に対して同情しやすいタイプの人で、多分日本軍が関係していることを訴えたその老女の姿を観て、かわいそうで仕方がないといい、「恥をしのんで名乗り出てるのに……だれか証言してやったらいいのに」とつぶやいていた。


父は半官半民の団体職員のひとりとして、面事務所(村役場のこと)で勤め、身分や給料は公務員に準ずるものだった。
仕事は農民に割り当てられた作物を供出させたり増産できるように指導することで、担当した作物は米ではなかったので、さほど農民から恨まれるということはなかったそうだ。

それでも精神的にはつらい仕事で、末端の父がやれることは割り当てられた量をわずかでも超えないようにきっちり守ることだった。

それと、そのままだと飢えようとする農民の姿を見かねて、自分の出身県の特産物だったサツマイモの苗を入手して、農民に分けて植え方を指導したという。
もちろんこういうことは内地出身日本人の上司の許可を得てやったことだった。


当時は戦局がじわりじわりと悪化していて人手不足だった。
朝鮮半島出身者にも志願兵の勧誘や徴兵制がしかれつつあり、若者は目立つと北海道などの炭鉱に徴用されるかもしれないとびくびくしていた時代だった。
内地日本ではおんな子どもまで銃後を守るために何らかの工場などに整然と動員されたが、朝鮮半島で喜んで劣悪な環境の場に行く若者はいなかっただろう。
一般的に、そこまで精神は動員されていなかった。


父がいた面事務所では割り当てられた徴用工の人数が集まらなかったのだろう。
親日派のグループが夜中に新婚家庭にしのび入り、無理やり夫を引きずり出してトラックにのせた。
一番年若い父は見張りをさせられたという。

こういうシーンに「強制連行」と名付けたのだろう。


健康な日本人男子ならみな戦地に赴いていた時代、官公庁の末端は朝鮮半島出身者つまり親日派が担っていた。

父の立場を発見した娘の私が「じゃあ、徴用工の募集について、官公庁の何らかの承認と指示のもとになされたことを誰が証言してほしいとなれば、お父さんやれるよね」と問いかけると、父は目をとじて黙っていた。

父はこういう経験をもつので、官の承認・指示のもとに、従軍慰安婦の募集についても親日派が現場は担当したと考えたのだろう。


父の記憶に従軍慰安婦が少しでもあればいいのに、まったくない。

「知らんな……」といっただけだった。


いま話題になっている従軍慰安婦の少女像は、農村で農作業や洗濯・子守りなど家の手伝いをやっているような女の子が、無理やり連れ去られ、船に乗せられ戦地の慰安所に放り込まれたシーンの想像を強要されているようで、個人的に不快感をもつ。




# by far-east2040 | 2019-08-14 17:30 | 父からの聞き取り

従軍慰安婦の少女像から

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最近、名古屋市での「表現の不自由展・その後」でネット上が炎上していることを目にしたので、記事を読んでみた。

詳しくは把握できていないけれど、展示物のひとつの従軍慰安婦とされる少女像が問題になって全体が中止になったという。

なんとややこしい……。


あのマネキン人形を持ってきたような少女像が、表現としては稚拙な感じがしてきて、個人的には不快感をもつ側のひとりを自認している。

この像の作者は韓国の人らしい。

それと確認できなかったけれど、昭和天皇の写真を燃やすシーンの表現作品があるとか……。昭和天皇を批判するのは個人の自由だと思っている。
でも写真を燃やすは品がないというか発想の貧しさを感じる。


炎上目的を疑ったので、芸術監督の津田大介氏の経歴をざっと見たらプロだということはわかった……。


もう亡くなっておられるけれど新屋英子という主に関西で活躍された舞台女優を思い出す。
戦後の在日の苦労してきたおばあさんの苦労話の一人芝居「身世打鈴(しんせたりょん)」が十八番だった。
いかにも苦労してきたしわくちゃなおばあさんを白い民族衣装に身をつつみ、ご自身の独特の顔立ちで演出していた。

一時代、関西の「人権の場」やメディアでの登場機会が多かった。

関東ではさほど知名度がない?

若いころ一度はどこかで観たような気がするけれど、ほとんど覚えていない。

この歳になっていろいろなことがわかってくると、他にはない便利な出し物として小さな世界で需要があった作品と思えて仕方がない。

一人一人の観客から入場料をとれる作品ではない。

これは言いすぎかな。


新屋英子の在日物が好きではなかった。

ご本人から直接「実際に観てからゆって!」という内容をいわれたが、やっぱり観る気がしなかった。


新屋英子の演出はちょっとオーバーだと思ってきた。
私のような立場からははっきりそういえる。実際、関西の多くの人にとって、あのようなかわいそうな境遇の在日のおばあさんの姿は身辺や街中にいたかも知れない。
でもあの姿は個々人の胸のなかに個々人の描くイメージから熟成するまで、そっとしておいてほしかった。


従軍慰安婦の像に話しを戻すと、芸術作品として自分ならどう表現するかと考えてみた。

私ならまず戦場にいた男をえがく。

恋人やあこがれの女性、新婚の妻、まだ幼い子どもをだく妻とはなれて死を覚悟して戦地にいき、時代の精神にまきこまれてしまったために、個人的な理由がまったくないのに相手を殺す状況に追い込まれた若い肉体をえがく。

これが異常事態であり、個人的な秘め事である青年の欲望の発露を、国家によって従軍慰安婦を上からお手軽にあてがわれてすまされた事実が伝わってくるような構造をえがく。
そこからもっと悲劇性のともなう女の存在が個々人の胸のなかにイメージできるような、さらに戦争への憎悪を感じさせてくれるような作品。

さらにつきすすんで、両者の同意なしの性行為やそれに類するセクハラ行為は犯罪だと個々人が感じ取れるような作品。

と、いうのはかんたんだが……。


ABだ」といいたい作者の意図を受け手に感じとらせる作品が個人的に好きだ。
芸術とは個人がひとりで感じ取ったり気づいたりするものだと思っている。
たとえ作者の意図と受け手の感じ方が違っていてもいい。


従軍慰安婦についてはもっと別の表現者が出てくることを期待したい。



# by far-east2040 | 2019-08-11 13:14 | 戦争の記憶

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気になるキーワード


自給生産運動―国民党が解放区への外界からのすべての供給をストップしてきたので毛沢東が公式に宣言する


「三光」戦略―19417月に華北日本軍の総司令官岡村寧次によって開始された。目的は太平洋戦争にそなえて華北を粛清することだったと。

      12月に太平洋戦争開始。八路軍は反撃を開始。よって日本軍は華北の軍隊を南太平洋に転用できなかったと朱徳はのちに報告している。


日本軍隊内の変化―1942年の半ばごろに日本兵の降伏や脱走がきわめて増えてきたと朱徳は報告。実際に脱走した人を個人的に思い出すことができる。その人は中国人捕虜を刀で殺すように命令され、戦後ずっとそのときの感触から解放されることはなかったときいた。赤紙1枚で召集されてこういう行動をとらされる理由はまったくない。


日本人民解放連盟・岡野進(野坂鉄)―1943年ごろには八路軍のいくつかと連絡をとっていたとある。


欧米列強の宣伝―第二次世界大戦は民主主義のための戦いと宣伝されていたが、1940年まで日本に戦略資材を売っていた事実から朱徳たちは信用していなかった。

      こういう事実を知ると戦争とは何かと思う。


葉剣英―朱徳の参謀長。じみーに存在感がある。


真珠湾攻撃―この攻撃につづく最初の2ヵ月間は日本は圧倒的勝利をとった。しかし朱徳たちは、太平洋戦争を予期していたし、日本がアジアの戦線に近いことや欧米が長年日本の軍事力の強化を援助した事実から、日本軍の初期の勝利すら予想していたと。


東方民族会議―


日本のスローガン―「アジア人のためのアジア」「日華共存共栄」「英米帝国主義の軛(くびき)から中国を解放せよ」

      

スバス・チャンドラ・ボースの親日運動―


スティルウェル将軍召喚―

アルバート・ウェデマイヤー将軍―

今日は74回目の広島原爆の日。改めて太平洋戦争とはいったい何だったのかと思う。




# by far-east2040 | 2019-08-06 17:19 | 『偉大なる道』

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      雲霞のごとき将兵

      大風のごとく歌いひびかせる。

      砲閃、日帝をしりぞかしむ。

      血はわが山河をぬらす。  

                       朱徳


 1941
年と42年は、解放区の人民と部隊が、血と困苦によって鍛えられた年であった。


事態はどんな鈍感な人にもわかるほど明白だった。国民党が外界からあらゆる供給を遮断して共産主義者を鉄の封鎖にとじこめる一方、日本軍は、戦場で彼らを掃討しようと努力していた。


 共産主義者は、1941年前半には背後からの攻撃と前線の戦闘にそなえる準備をした。国民党による封鎖がなされたすぐあと、毛沢東は公式に「自給生産運動」を宣言したが、これが時とともに華北の外貌を変えていき、長期間の軍事的抵抗を可能にした。この運動について毛沢東はこう説明した。


「われわれの政策は、われわれの自力による更生の道である。地代と利子の引下げは、相互援助の熱意をたかめ、農民の生産力を高めた。われわれの経験からすると、相互援助によって一個人の生産能力は4倍になっている。……いったん相互援助が習慣になると、生産高が非常に増加するだけでなく、いろいろな意味の新しい結果が生ずる。政治的水準が高まるだろうし、ひとびとは文化的にも向上するだろう。ごろつきは矯正され、慣習も変わってきて、われわれの農村社会はまったく新たな生産力になる。そうなると、戦争の続行や飢饉との闘争が可能になるだけでなく、反撃に用いる大量の食糧や日常必需品の蓄積も可能になる。
農民だけでなく、軍、党、政府機関もすべていっしょに、生産に従事しなければならない」


生産運動は、解放区数千マイルにわたって各地での、住民各層――紅軍の各部隊を含む――の計画会議を手はじめに、開催された。何千万もの人びとが、互助会や、変工隊や、工業、消費、運輸の合作社や、新設の小工場やその他の施設で働きだした。だれひとり例外はなかった。



# by far-east2040 | 2019-07-29 09:00 | 第11巻「ひとつの秘密の兵器」改編