父系の血縁集団を表す姓

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6年前はまだ新聞を購読していたので、その年のノーベル平和賞に中国の作家で服役中の劉暁波氏に決まったことを大きな活字で知った。

ノーベル平和賞に関心を持つ世界中の人は「劉暁波氏って誰?」って思ったんじゃないかな。
初めて聞く名前だったし、服役している理由や受賞理由を改めて知ってもほとんど理解できなかった。

政治にあまり関心を持てないからなのかも知れない。

中国側の言い分も、受賞を支持する側の言い分も、私には同じ距離があるというのが正直なところだった。

私が気になったのは、劉暁波氏の奥さんの名前がやはり劉氏であることだった。
劉氏と劉氏が結婚していることになる。

ひょっとしたら、名前を変えている可能性もあるかも知れないが。封建社会の中国だったら、成立してない婚姻ではないかとちょっと思った。


最近中華人民共和国成立の功労者の一人である朱徳の娘が生んだ孫が現在の中華人民解放軍の幹部にいると知った。

当然生れたときは朱以外の姓だけど、朱姓に変えたとどこかで読んだのだが、多分合っていると思う。軍部にいるので、朱徳との血の繋がりを表現するためだと誰でも考えてしまう。


韓国でも離婚再婚が増えてきているので、離婚後再婚した女性が前夫の姓を名乗る子どもたちの姓を現在の夫の姓に変えることは法的に可能だと知った。

姓は父系の血縁集団を表現しているので、いかなる状況でも不変だと思っていたので、姓を変えることができる事実に時代の変化を感じた。

父系の血縁集団という本来の意味が崩れてきている。

朝鮮民族や漢民族、ベトナム民族の姓は血縁集団を表していて、女性は婚姻しても姓を変えることはない。これはよく知られている。

朝鮮民族は、過去において同じ本貫(氏族集団の発祥の地)通しは婚姻できない法規制と慣習があったが、現在は北朝鮮でも韓国でも法的に婚姻は可能という。しかし北朝鮮はわからないけれど、韓国では根強い慣習として続いているはず。


金や李などのように数種類の本貫を持つ姓もあるが、たいていは1つである。だから違う姓同士なら、たいてい本貫が違うので婚姻可能。もちろん同じ姓でも本貫が違うなら婚姻可能だが、違う姓でもたまたま本貫が同じ場合は不可能だったと理解している。

この慣習は、非科学的であることは間違いないが、傍で想像するほど窮屈なものではないかも知れない。選択の幅はあるし、双方にとってフェアな忌避感情であるし、婚姻相手を選ぶ際のたしなみのようなものと理解しているが。

ただ、積極的に残していく遺産とは思えない。
 
かつて中国人の留学生に直接訊いたことがあるが、同姓との婚姻は避ける慣習はないと聞いた。地方に行けば、状況は少し違うかも知れない。


ベトナム人の名前のグエン、ファン、フィン、ホー……もみなかつては漢字一文字の姓である。
もと留学生で日本の大学でベトナム語を教えておられた在日ベトナム人男性に、こういう慣習があるのか訊いたことがある。南ベトナムで仏教に縁がある家庭のご出身だった。

私の質問に即答しなかった。首をかしげてしばらく考えて、
「年寄りはいやがる……しかし若い人は結婚するよ」
と答えられた。
 

こうなるとかつて儒教文化圏と呼ばれる地域に存在したこの慣習は、台湾の情報がわからないけれど、韓国において色濃く残されていることになる。

現在の韓国においては、法的には日本と同じように医学的見地から近親結婚を禁止している部分を除いて、いかなる制約もないことになっている。


が、実際は韓国内にいるとどうかな。

若い世代の人たちは親の世代に比べるとはるかに変化してきているのは間違いないが、同じ姓や本貫同士、慶尚道出身者と済州島を含めた全羅道出身者との結婚忌避は現実問題として水面下では存在しているように思う。



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by far-east2040 | 2016-09-02 17:03 | 名前

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岩本千綱著 『シャム・ラオス・安南三国探検実記』

もう20年ほど前に読んだ本なので、内容は忘れかけている。

アジア図書館で働いていた頃なので、こういうアジアに関する珍しい本にも出会える機会が多かった。

紹介してくれたのは東南アジア通の男性で、私とそんなに変わらない年齢だったような気がする。

今振り返ると、彼は何をして生活していたのかなと思い出される。

「社畜」ということばは彼から聞いたので、社会にはまりにくかったのかな。


沢木耕太郎のアジアの紀行文はかなり読んでいたようだし、実際東南アジア各国へは観光でよく行ってたようだ。

といってもぞろぞろ団体で行くのではなく、あくまでも単独で。

当時は「お楽しみ」を目的にした団体観光や数人の仲間で行く話はよく聞いたので、彼のような単独者で東南アジア通という存在はなかなかいいものに写った。

男でも女でも一人旅ができるというのは、日本人の中でも独特の性格を持った人たちだと思っている。自分でものを考えている。


で、「笑えまっせ」という保証つきで勧められたのが中央公論社の文庫本である。
「ほんまに笑えるんかな」
と半信半疑に読んだ。

著者は生まじめに綴っているが、なるほど確かに笑える箇所がいくつかあった。

今はネットで結構つまらないことで笑うことがあるのだが、本を読んでそこまで笑うことはあまりないので、記憶に残っている。

1897年(明治30年)の初版を底本として、現代仮名遣いに改めて1989年に出版されたものだった。

この本は古本屋経由でこの図書館に来たことは、最後のページにえんぴつで書かれた店頭販売価格の数字でわかる。
1896年(明治29年)に巡礼僧に身をやつし、現在のタイ、ラオス、ベトナムにかけて冒険旅行を試みた二人の日本人の探検記である。

二人はそれぞれ「三無」と「鉄脚」と号を名乗っている。

私が笑いの壷にはまったところを引用してみる。

「九時頃プラケア村に着す。人家三、四軒、停車場あり、坊等始めて蘇生の思いをなしまず朝餉の料に有りつかんといよいよ托鉢を思い立ちしも、人に向かって食を請いたる経験なき俄坊主の悲しさ、何分に乞食の勝手暗くきまり悪さの限りなければ、二坊互いにその実行を譲り、三無は鉄脚に鉄脚は三無に、イヤ君は名僧らしければまず第一に試み給え、イヤ君はシャム語の名人なれば人を感ぜしむるの妙あらんと躊躇逡巡、先陣の譲り合いはいつ果つべきとも見えざりし折柄、天の助けか仏の恵みか東の方より一老舅の荷物を肩に来掛りしあり。」(岩本千綱『シャム・ラオス・安南三国探検実記』)
 
こんな調子の珍道中。

現代文ではないのでとっつきにくい文体であるが、全体的に偏見のない目で淡々と綴っているのが二人の人柄を表していた。

どんなものを食べ、どんな家に住んでいたかなど衣食住にわたっても、よく観察して具体的に書かれていて、今読んでも新鮮な感じがすると思う。

ラオス、安南(ベトナム)は当時フランスの植民地になっていて、白色人種の黄色人種に対する圧迫を憤っている様子も伺えておもしろい。
小田実の『何でも見てやろう』と重なりもする。
 
この本は1897年(明治30年)博文館から初版が出た。
ぺらぺらの紙表紙の薄手の冊子だったそうだが、現在この本の初版は奇覯本になってしまっているらしい。
太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に再刻版が出されていて、このときに親しんだ人が多かったという。
だが、この本すら奇覯本になってしまっているとのことである。


隣国の東アジア各国よりも、こうしてちょっと距離があるアジアに対しては案外親密感持てたんじゃないかなと思う。

このぐらい離れた国なら国境問題や拉致問題、タイムリーなミサイル発射とか国民のデリケートな感情に接触することもなくて、メディアも積極的に煽るネタも探しにくくて、いい関係を築きやすいように思う。



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by far-east2040 | 2016-08-28 18:41 | アジア図書館


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現在のベトナムは手頃な値段で観光旅行がしやすくなってきているし、衣服を中心に「made in Vietnam」という表示がついた製品もよく目に付く時代になって、経済的な繋がりも増えてきてると思う。

日本から見れば、もう遠い国ではない。


私はベトナムは日本や韓国と同じように歴史的に中国の影響を受けてきた漢字文化圏の国であり、その後フランスの植民地でもあったことから、いい意味でも悪い意味でも西洋文化を許容し影響も受けてきた珍しい国と捉えている。


そしてこの地で今から考えれば、ばかばかしく思えるのだが、この狭く細長い国で自由主義と共産主義のイデオロギーの違いから、アメリカを中心に想像を絶する悲惨な戦争が繰り広げられた国でもある。


そのベトナム戦争も1973年に終結とあるから、今のベトナムの若者にとっても遠い大人たちの記憶でしかないかも知れない。


朝鮮戦争もそうだが、ベトナム戦争なんて写真集を見ていたら腹立たしくなってくる。

前回のエントリー「アジア図書館の本 ―ベトナムー」で書いた1966年当時社会党の国会議員であった楢崎弥之助氏が発行した写真集『ベトナム』の中から、発行への思いを抜粋してみた。


……「焼きつくし、殺しつくし、破壊しつくす」これがベトナム戦争である。そしてナパーム弾、毒ガス、殺人爆弾シュラプネル、無差別爆弾、虐殺、これはアメリカ帝国主義侵略の実体である。これら侵略の殺人道具は一部日本で作られている。沖縄は侵略のための最大の基地になっている。
 私たちは、ベトナム戦争がどのようなものであるかを日本国民に正しく伝える義務があり、私たちはいま何をなすべきかを訴える責任がある。ベトナム人民との戦闘的友情を果す責務の一つとしてここに写真集『ベトナム』を日本国民の前におくる。……」 


この本はベトナム関連の書籍収集家から個人的にこの図書館に寄贈された本の1冊だった。古本屋を巡り歩いていたときに、店頭に無造作に積まれていた写真集であったと回想されていた。

1973年(昭和48年)1月発行の雑誌「週刊サンケイ緊急増刊」の特集「全記録ベトナム戦争30年」も蔵書として2冊ある。

このようにアジア図書館では雑誌は特集記事に焦点をあてて登録して配架するので、ベトナムコーナーになっているのである。

この2冊は書架で肩を並べているが、別ルートから来たものである。登録番号がかなり離れていた。

いまこの雑誌は日本にどれだけ残っているだろうか? 

全体的にはかなり変色していて、裏表紙も少し破れていた。

長い年月を経た雑誌特有のパサパサとした紙質に変化していた。しかし当時ベトナム戦争がどのように報道されていたか知る貴重な資料である。
 
1986年(昭和61年)発行写真雑誌『PHOTO JAPON』5月号の特集は「41人のベトナム戦争」である。

この雑誌も特集記事から判断してベトナムコーナーに納まっている。

戦争に巻き込まれ、肉体的犠牲を強いられた子どもの写真が多かった。

両足がない子、全身包帯だらけの子ども、物乞いする両うでのない子、墓場で泣き伏す女・子ども、ナパーム弾で顔じゅうの皮膚がむけ、かさぶたのように覆っている写真が続く。


一度見たら、まぶたに焼き付いてしまう。一枚の写真から受けるメッセージは言葉以上。

現在の中東アジアで爆撃などで犠牲になった子どもたちの報道写真とよく似ている。



沢田教一、一之瀬泰三、石川文洋氏など日本人カメラマンの活躍が思い出される。ベトナム戦争の生々しさを命がけでレンズを通して世界に報道しようとしてきた息遣いが伝わってくる。
 

沢田教一は1936年生れでピューリッツアー賞をもらった写真とともによく覚えている。34歳ぐらいでクメール・ルージュが支配するカンボジアで亡くなっている。


一ノ瀬泰三は1947年生れで、やはりクメール・ルージュが支配するカンボジアで26歳という若さで消息を断ち、その後処刑されたことがわかった?

『地雷を踏んだらサヨナラ』という写真集を読んで泣いたという青年がいたが、ベトナムの話になると意気投合したものだった。

今一ノ瀬泰三が生きていたらなあと思う。惜しい人材だ。


最後に石川文洋氏は1938年生れなので、現在78歳。

私はこの写真家は人間味があって好きなのだが、北ベトナム側にあまりにも肩入れし過ぎだといって嫌っていたベトナム難民の方も知っていた。


ベトナム戦争時代、後に政治家となる作家の南ベトナム行きに同行していたのだが、大砲のようなものを北ベトナム側に試しに打つように南ベトナム軍の誰かに勧められてやろうとしたときに、石川氏が「あなたがこういうことをする理由がない」という内容で止めたというエピソードを知ったのもベトナムコーナーの本か雑誌からで、感動したものだった。


今調べてみると、この作家は1968年にベトナム取材をしているので、36歳ぐらいで、それを制止した石川氏は30歳ぐらい?

石川文洋氏の沖縄生まれと関連づけたらいけないのかな。

現在この人のことを顕彰する博物館がホーチミン市にあるらしいから、一度行ってみたいと思っている。


戦争は軍需産業の在庫を減らすためであり、また新たな武器の実験場でもあると強く思っているので、やりきれない。枯葉剤なんかの実験も兼ねた戦場という感じもする。

写真集の迫力という点ではベトナムに並ぶ国はないと思っている。


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by far-east2040 | 2016-08-26 10:35 | アジア図書館

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ベトナムと聞けば、やはり「戦争」ということばを連想してしまう。年輩の方なら、1960年、1970年代の「べ平連」の運動を思い出される方も多いはず。

私自身は生まれてはいたが、その熱気を感じる年齢層ではなかった。
 
現在はシリアなどからの船に乗ってヨーロッパに難民となってやってくる映像がよく流されていて、「難民」が時代のキーワードになっている。

幼い子どもを連れての家族ぐるみの命懸けの脱出行動を見ていると激動の時代を迎えていることを感じる。


1990年前後の難民といえば、ボートピープルと表現されるベトナム難民のことを思い出すのだが、アジア図書館で働くまでは新聞やテレビでしか知らない遠い存在だった。

しかし実際にアジア図書館を通じて何人かの難民と出会ったことがきっかけで、ベトナム難民がなぜ住み慣れた地を離れようと決意したのかという点にとても興味を持つようになった。


私はベトナム難民の人に実際に接していたり、本雑誌を読んだりしているので、たとえばヨーロッパに来るシリアの難民が故国では中流階級ぐらいに属する人たちだろうということは想像できる。

故国で無学文盲、食うや食わずの極貧生活をしていた人たちが難民になったのではない。


とにかく難民を出すにいたったベトナムの歴史的社会的状況を知りたいというのが実際に本を手にするきっかけだった。


書架には、ベトナム戦争当時発刊された時代の証言としての本が多かった。

古本として出回る本の数と、新刊として出版される本の数は比例関係に近いと思っているので、当時ベトナム戦争に関する書物が多く出版された事をしのばせてくれた。

ページを開くと、日本でだれがどのような行動をとり、本を書いたか、何が報道されたか、外国の知識人が何を訴えてきたのか伝わってくる。

1966年(昭和41年)発行の「ベトナム研究会」編集による1冊の写真集『ベトナム』を手にしたとき珍しい本だと思った。

発行は当時社会党の国会議員であった楢崎弥之助氏。なつかしい名前である。

この写真集、縦25cm横40cmほどの一昔前どこの家庭にもあったアルバムのように重量感のある本だった。

発行年を振り返れば、ベトナム戦争真っ只中とわかった。


表紙をめくると、
「民族の統一を願って戦うホー・チ・ミン大統領」
「自由南ベトナムの指導権を担うグエン・カオ・キ首相」
のそれぞれの顔写真が大きく載っていた。
最後のページは「ベトナム民主共和国国家歌」と「ベトナム共和国国歌」も紹介されていた。
中身は南と北の状況を伝えるページ数が平等に振り分けられ、対等に理解しようという姿勢が感じられる構成になっているのがよかった。

まだ「イスラム」という言葉が時代のキーワードになる前のころだった。

アジア図書館のベトナムコーナーの書架は、かつてこの地で何が行なわれたかを語る気概を持っているように感じた。




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by far-east2040 | 2016-08-24 11:15 | アジア図書館


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私がアジア図書館で働き始めた頃のベトナム語教室の講師は難民の男性Sさんだった。いわゆるボートピープルと呼ばれる形でベトナム戦争後の社会を出国し、非常に危険な航海途上で救出され日本に難民として入ってきた人だった。
1990年頃だから、難民として日本に入国して、日本での生活にも慣れてきた頃だった。この方は生徒さんから人望があった。その後しばらくしてさらに別の国へ行かれたと聞いた。


インドシナ難民なんてもう最近は聞かないことばだけど、1975年頃にベトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ三国が社会主義体制に変った際、その新体制になじめないとか迫害を受ける恐れがあるとかで海路で国を脱出した人達だった。
アジア図書館で働いたことによって、ラオスやカンボジアの難民とはまったく会う機会はなかったが、ベトナムの難民は何人かと会う機会はあった。


いろいろな情報に接して見ると、それぞれの国に華僑がいたし、ベトナムとラオス、カンボジアでは文化と顔つきも言葉も文字も違っていて、インドシナ三国という言葉では括れない複雑な事情を感じたものだった。


ベトナムが一昔前は日本や韓国と同じように漢字文化圏の国であることはあまり知られていなかったように思う。実際に接すると、基本的に勤勉であり、教育を尊ぶ傾向は儒教の影響を感じた。
そのせいだろう、本国で大学を出たり、また日本の援助団体の協力で日本の大学で学ぶ向学心の強い人たちが多いと思った。

傍から見ると、いわゆるキン族のベトナム人とベトナムに住む華僑の人たちの違いはわからない。ご本人たちはわかるようだが、ベトナム難民という一括りでは捉えられない確執もあったように当時は感じた。

ベトナムといへば、ベトナム戦争の悲惨なイメージがどうしてもつきまとうので、講師を囲む生徒さんたちは他の教室にはない独特の暖かさと社会的関心を持っていたように思う。
 

当時韓国の留学生にベトナムという国に対するイメージを訊いたことがある。国が分断したり同じ民族同士で戦争をしたという似たような悲劇を経験した国として、親密感はあるという内容を語っていた。その時の韓国人の「ベツナー」という英語らしい発音といっしょにずっと耳に残っている.


私は韓国語をもう少しブラッシュアップする必要性があったにもかかわらず、一人の生徒としてベトナム語教室に席を並べた。未知の言語に挑戦したかったことと、難民やベトナムという国に興味があったからだった。
しかし縁あって教えていただいた講師の先生はベトナム人留学生の夫人で、目に深みがある美しい人で、日本社会から好感を持って受け入れられる立ち居振る舞いをする気品のある女性Kさんだった。
第一印象は小柄な黒髪のフランス人だった。
 
K
さんはベトナムの民族楽器の琴を演奏する人でもあり、小さな国際交流の場で活躍されていた。細身の身体に身につけた民族衣装(チャイナドレスとパンタロンに似ている)と、小さなベレー帽のような頭飾りをつけたあでやかな姿で登場されると、ためいきが出そうだった。
統一後のベトナムで音楽教師をなさっていたので、教え方も上手で堂々としていた。
ベトナム語は私にはむずかしい言語で終わってしまったが、「人が変わった」ようにきびしい顔をして真剣に教えていただいた思い出は残っている。


K
さんがたまたまアジア図書館でベトナム難民の男性と会ったことがあった。気まずいのかなとちょっと心配したが、すぐに打ち解けて、お二人とも目を輝かせて故郷のベトナムの思い出話をされていた。抑揚のある早口のベトナム語で、まるで鳥のさえずりのように聞こえたものだった。
 
私は、統一後のベトナムで生きていくことに困難を感じて出国した人と、新たな社会で生きていく場を見出していった人を同時に見ていたことになる。
二人に共通しているのは、人としての良識とベトナム人として誇りを持ち、政治・イデオロギーにさほど熱くならないことだと思えた。
 
日本で微妙な立場の違いを越えて、はにかみながら話すお二人の姿を思い出すことができる。



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by far-east2040 | 2016-07-26 08:10 | アジア図書館