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              韓国ドラマ「黄金時代」オフィシャルサイトより借用


このドラマは「友情」と「擬似家族」もテーマにしているように私は見えた。
日本以上に「家族」や「一族」意識の強い儒教伝統社会において、親以外の血縁がほとんど出てこなかったことが印象深い。

焦点をしぼるために、あえて主人公たちをみな一人っ子にしたのではないかとさへ推測している。

特に上層階級のチェフンも婚約者も兄弟姉妹の存在がドラマの中ではまったくなかったので、一人っ子のように見えたが、現実ではありえない。
銀行の資産を巡る攻防を描いているので、普通は兄弟や従兄弟等々何らかの一族が出てくるものだと思うが。

別に韓国だけのことではないが、お金があるところにはいろいろな親族が集まってくるものだと思う。


そのあたりの確執がまったくなかったので、このドラマは血縁関係とは別の世界で、純粋な信頼にもとづく人間関係を描くことに成功しているように思えた。

また最終話まで飽きずに観れたのは、民族系銀行の頭取であった父を殺害されて孤児になったヒギョンが、恵まれない境遇の中でけなげに生きていく姿への好感と、ヒギョンが誰と最後は結ばれるかという好奇心のためだった。

婚約者のいるチェフンだったが、カンチョル同様、ヒギョンの近くで好青年として存在していたからだった。
さらにドラマはややこしくて、ヒギョンの父親の殺害に関わっているのが、チェフンとカンチョルの父親だった。

チェフンの父親は上昇志向型人間ゆえの野心と野望があった。
カンチョルの父親は誠実だが貧しい境遇ゆえに持つ「弱さ」があった。
チェフンとカンチョルはそれぞれの親の動機を知った。どうなるか?
うーん
想像していなかったけれど、結末には納得できた。

時間の余裕ができたら、韓国語の勉強を兼ねて、もう一度主人公たちに会いたいと思っている。


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by far-east2040 | 2016-10-04 10:35 | 友情

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              韓国ドラマ「黄金時代」のオフィシャルサイトより借用

戦中、日本の銀行との確執で民族系銀行の頭取であるチェフンは苦悩の日々を送っていた。
そんな時に、彼がカンチョルに「親日派(韓国語でチニルパ)ではない」という内容のセリフを語っていたシーンが印象に残った。

いい意味合いでは使われていないことを再確認した。

日本語の「親日」ということばには、ほとんど悪いイメージはない。

韓国語の「親日派」は日韓併合以来「反民族的な響き」を伴うことは免れていないようだ。
定義がむずかしく、あいまいなまま使われているような感じもする。

簡単にいえば「日本の植民地行政に対して協力的な立場をとった政治家、軍人、知識人、文化人、官公庁の役人など」となるのだろうか。

確信犯もいただろうが、「協力的な立場」にいることの葛藤は大なり小なりあったと思う。
現在の韓国でも「親日派」の罪を問う法や風潮があるらしい。詳しいことはわからないので、ここまで。

戦中の面事務所に勤める下級官吏の末端だった父も、いつのまにか親日派と呼ばれるグループに属する人間であることに気がついた。

当時健康な日本人男子は戦地にいっていたので、面事務所では管理職だけが日本人で、他は現地採用の朝鮮半島出身者が多かったという。

この管理職の日本人は戦地に行かなくてもよかったのだから、45歳以上の中年になると思われる。

父の周辺では、思想を取締まる刑事も朝鮮半島出身者が担っていたという。
因みに父が面事務所に着いた初日に、この刑事から「思想」を調べるために徹底的な持ち物検査を受けたらしい。
こういう人たちとともに「親日派」と呼ばれていた。

戦中の徴用については、父の周辺では親日派と呼ばれる人たちが中心になって担っていたようだ。このあたりはデリケートな問題になると感じている。


この徴用はどうしても「強要」になってしまう。日本本土では健康な男子は戦地に行き、女・子どもは軍需工場に動員されて、本土決戦に備えて準備がなされていた時代だから、朝鮮半島出身者の徴用先はより労働環境の悪い炭鉱あたりだということはわかっていた。
「お国のために」と自ら積極的に動員されることを望む朝鮮半島出身者はほとんどいなかったというのは、少し想像力を働かせれば当然のことだと思う。


この徴用(強制連行というやや強い表現をする人もいる)で日本に来た人の手記をいくつか目を通したことがあるが、実際に誰に寝ているときや働いているときに無理やり連れて来られたかということを書いていることはほとんどなかった。

言いにくかったか書きにくかったのではないだろうか。

これは親日派と呼ばれた朝鮮半島出身者だろう。管理職がこんなことはしないだろうし、現場でこんなことができる日本人男子はとっくに戦地に行ってるはず。


父は一度だけ徴用のために男を連れ出す現場を目撃している。

夜間に新婚家庭の寝込みに入り、男を連れ出したと。

親日派と呼ばれる人たちがやったのだが、まだ若い父は現場の見張り役をさせられたらしい。

この記憶を父はずっと抱えてきたと思う。

おそらくこういう話題に興味を持っていた私にしか話していないのではないか。


こういう話を聞いている頃は慰安婦についてもニュースで話題になっていたが、慰安婦の件は父の記憶にはないと語っていた。

しかし元慰安婦の証言をする老いた姿をテレビで見ていると深く同情し、「誰か証言してやったらいいのに」といっていた。

こういうことを証言するために表に出てくるのはかなりむずかしいし、おそらく解放後の混乱期や朝鮮戦争ですでに命を失ったと思える。


話を戻すと、1945年8月の解放後、「親日派」に属していた父ではあったが、末端の技術者だったことと「人の供出」に直接は関わっていないということで、身体的な迫害はまったく受けていないといっていた。


父の身体検査をした刑事はおそらく徴用にも濃厚に関わっていたのだと思う。解放後すぐに公開の裁判のようなものにかけられて大変だったらしい。逃げてもどこまでも追求するぐらいの恨みは買っていたらしい。

父から聞き取りをして発見したことは、解放後、身の危険を感じた人は人の供出に直接関わった親日派と呼ばれる朝鮮半島出身者だったということ。


その一方で日本の植民者やその家族は周囲から「かわいそうに」といって同情を寄せられながら、整然と帰国していったらしい。

父は何も悪いことはしていないけれど、解放後は過去の経歴を語ると、「親日派か」と特別視される傾向はどこまでもついてまわったという。

チェフンのセリフから父の「生きにくさ」を発見した。


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by far-east2040 | 2016-10-03 23:23 | 父からの聞き取り

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ドラマの中で背景として時おり写る遠景の山の姿を見て思うことがあった。

朝鮮半島にも山の幸をもたらしたり、人が隠れたり、または虎が出てくるような鬱蒼と茂る山ももちろんあるだろう。

そういう山を背景にした民話や絵本を見たことがあるし、徴兵制に反対する若者が山に逃げたという事実もある。

しかし、ドラマだけを観ていると、主人公の子役時代も戦中時代も木々が豊かに生い茂る山が登場するシーンが少なかったように思う。

若い頃読んだ本の中に、韓国の釜山の町の背景に写る山肌を見た日本人識者と在日か韓国人の識者の会話があったことを思い出した。
日本人の識者が日本の山と違って「はげ山」であることを率直な感想として口にしたので、「植民地時代に伐採されてしまったから、こうなってしまったんですよ」というような内容で返すと、その日本人識者は何もいえなくなったというようなくだりが、哀感を帯びた文章で書かれてあった。

これを読んで、私も「そうなんだ」としみじみとした感慨を持ったものだった。
もっと時代を遡ったころに似た話しを亡くなった父から聞いていたので、確認したような感じだった。

父も「韓国の山がはげているのは、植民地時代に日本が木を切ったかららしい」という不確かな伝聞を語ったことがある。
父は経歴からこういう論調には傾きにくい傾向があって、半信半疑で受け止めていたように見えた。


ドラマを観て、はげ山の伝聞は狭い世界で流布した「誇張された情報」ではなかったかと再考する瞬間を持った。

植民地時代、朝鮮半島から日本に持っていかれてしまったものはあると私は考えている。
これは揺るがない。

日本人なら「お国のために」と多少の例外があるにしても、気持ちよく差し出せたかもしれないが、朝鮮半島出身者は神社参拝や宮城遥拝、日の丸掲揚というような様々な方法で忠誠を強制されても、日本人が到達した程度の精神を持つことはできなかった。

もちろん朝鮮半島出身者にも親日派と呼ばれた文化人や知識人のような例外があった。しかし反日の立場をとる人はもちろん普通の庶民の感覚でも持っていかれたとなると思う。

話を戻すと、「はげ山」になっている理由を100パーセント日本の植民地時代のせいにするのは、科学的ではないことはちょっと考えたらわかるのにと今思う。
36年間でどれだけの伐採事業がやれるかな。

木材の需要があるとすれば、鉄道の枕木? と素人は考えてみるが。

日本の高度経済成長期以来の急激な家具や住宅の需要をまかなうためにインドネシアなどの森林破壊が問題になったことがあるが、これと比べても無理があると思う。

気候風土、きびしい冬を越すための燃料、植林意識、朝鮮戦争、などの要因もあると思うのだが。

現代よりももっと感情的なしこりを強く持っていた人が多かった時代、複合的な要因を考える余裕が持てなかったこと、特定の思考へ傾く勢いがあったことをちょっと振りかえることができた。



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by far-east2040 | 2016-10-02 15:54 | 父からの聞き取り

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              韓国ドラマ「黄金時代」オフィシャルサイトより借用

このドラマは民族系銀行の内紛の周辺を描いているので、戦時色はあまり出ていなかった。

本土とは違い、朝鮮半島には空襲もなかったし、強い思想統制もあったので、表面的にはのんびりしていたように想像する。

「日帝」への反発は中国大陸や「地下」で生きるしかない時代だった。


しかし、朝鮮半島で戦中末期に実施された徴兵制について考える瞬間があった。
実業学校の教師をしているカンチョルが自分の教え子を戦地に送りたくないということで、友人のチェフンに銀行で採用してくれるよう頼んでいたシーンがあった。銀行員になれば、「徴兵免除」を受けることがわかった。

南大門市場や町を行きかう民衆に若い人がほとんど見られなかったが、実際もそうだったと思う。
若い世代は徴兵免除を受けているか、伝染性の病気を持っているかのどちらかでなければ、徴兵で戦地か、徴用のために日本本土の軍需産業の現場や戦地に強制的に連れて行かれているはず。
それがいやだったら「逃げる」という道しか残されていなかっただろう。

カンチョルは教師から銀行員になったのだが、教師のままだったら「徴用」の対象になっていた可能性はあると思った。
そういう意味でカンチョルとずっと一緒にいた友人が、ぶらぶらすごしているのが不自然に見えた。孤児だから対象からもれたと考えたらいいのだろうか。

この時期の日本の戦局はかなり悪く、兵が絶対的に不足していた。

学徒出陣という名で学業半ばの学生も戦地に行く時代だった。朝鮮半島にいる45歳以下の健康な日本男子も、いつでも戦地に行く覚悟は持っていたようだ。

『慶州は母の呼び声』(森崎和江著)より


「秋になりイタリアの降伏が伝えられ、兵役法がかわったとかで父が20数年前の奉公袋を出した。父もいつ召集されるかわからないことになったという。南方の島々に次々と米軍が上陸する。そして、10月、朝鮮海峡を往来して釜山と下関とを結んでいた連絡船の崑崙丸が、アメリカの潜水艦によって撃沈された。」


イタリアの降伏は1943年の9月のことで、奉公袋は遺書や連絡先を書いたものを入れた袋で戦地に持っていくものだった。

著者の父親は40歳前後と推測される。

こういう人が徴兵免除されないのだから、かなり兵力が不足していたと想像できる。

確かこの頃松本清張もニューギニア戦線の補充兵として運悪く召集され、兵団を編成するために朝鮮半島にいたのだが、30歳前半で妻子ある身だった。

決して若くない年齢なので、自伝では町内の誰かの心証を悪くしたためではないかというようなことが書かれていた記憶がある。
幸い戦地ではなく、朝鮮半島で終戦を迎え無事に妻子の元に戻ることができた。

この人が戦死していたら、戦後の文学界違っていたと思う。


松本清張は、朝鮮戦争後スパイとして北朝鮮で裁判をかけられ亡くなった詩人林和(イムファ)のことをきめ細やかに描写した『北の詩人』を書いている。

結核を病んだ繊細なこの詩人が、生活苦の中で宣教師から特効薬とか栄養のある食物との交換条件でズルズル関係を深めていく苦悩が松本清張独特の想像力でリアルに描かれていく。


亡くなった父もこの本を読んで感銘受けていたのだが、中でも米兵の描写が自分の実際観た感じとまったくいっしょだったことに驚いていた。

たとえば米兵の髭を剃り上げた顎あたりの色が緑色に見えたとか、履いていたズボンがぴしっとプレスされていたので、折り目が剃刀の刃のように見えたとか。

父は松本清張の自伝までは読んでいなかった。

この作家がもし朝鮮半島ですごす時期がなかったら、『北の詩人』は書けていなかったのではないかと思う。


ずっと以前、文学に詳しい韓国人留学生に林和のことについて訊いたことがある。彼女の肯定する返事とそのときの暗い顔つきをまだ覚えている。

時代に翻弄された線の細い林和のことを考えると人間の弱さを思い切ない気持ちになる。


さて話をもとに戻すと、朝鮮半島にいた父も「徴兵免除」をもらっていたが、徴兵検査は対象年齢の若者として受けた。

ところが自覚症状はないのに「結核」にかかっていることがわかり、「不合格」という結果をもらっている。当時の「結核」は「死の宣告」を意味したが、それでも「合格」した若者から「不合格」をうらやましがられたということだった。

現地ではなんとかわが息子も徴兵免除を受けさせたいと、父のポジションである農業技手になんとかならせようと努力していた金持ちの人がいたと聞いている。


例外もあったことは承知しているが、あの時代においては徴兵や徴用を避けたいと思うのが普通の感覚だったと思う。



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by far-east2040 | 2016-09-30 16:24 | 友情

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主人公たちは子役から青年になり、戦中の朝鮮半島が舞台になったので、当時の日本語と朝鮮語の使用について考えてみた。

植民地時代だからといって、朝鮮半島は一様な日本語使用社会ではない。
ドラマでも町の看板を始めとする印刷物は漢字、ひらがな、ハングルが混在していた。
慣れるまでちょっとおかしかったが、登場人物はドラマなので日本人役の俳優もみな韓国語を喋っていた。

実際は日本人同士は日本語、朝鮮人同士は朝鮮語のはず。
では日本人と朝鮮人が出会う場ではどうだったろか。
朝鮮半島が併合された初期のころは通訳が活躍したと思う。


植民者二世として朝鮮半島で生れ育った作家森崎和江著『慶州は母の呼び声』によると、


「わたしの父は大邱公立高等普通学校、つまり朝鮮人の少年たちの五年制の中学校に勤めていたのだ。朝鮮人は家庭では朝鮮語であったが、併合後は国語は日本語ということになり、生徒たちは国語として日本語を学習した。普通学校の入学率は低かったが、学校では朝鮮語のほかに日本語を学び、高等普通学校の受験を志す子は日本人の子らとかわらぬ理解力を日本語にも示した」


教育を受けた若者になったチェフンもカンチョルもバイリンガルだった。

銀行の頭取になったチェフンが総督府に出向くシーンがあったが、流暢な日本語で交渉できたのだと想像する。

Koreanは教育を受けてバイリンガルになれるいうことをこの時代に経験している。


さらに森崎和江さんの著作によると、


「わたしの父は、他の日本人教師と同じように朝鮮語を使えなかった。総督府では官庁の職員に朝鮮語の習得を奨励していた。その試験の合格者には手当を給付した。公用語は日本語だったが、都市部はともあれ、村に入ると必要だったから朝鮮語を話す役人や警察官はすくなくないのだった。」


ところが、1938年の第三次教育令で随意科目になり、しだいに教育現場から「朝鮮語」は排除されていったという。
しかし農村部や朝鮮人同士や家庭の中では当然のことながら、朝鮮語で話していた。

亡くなった私の父も農村部の面事務所(日本でいう村役場)で働く下級官吏だったが、農家をまわるときは朝鮮語を話せないので、日当で通訳を雇っていたという。

「学校でうっかりして朝鮮語を話したら、先生から怒られたり、「ごめんなさい」と謝らされたりした」という内容で思い出を語る韓国にいる遠縁の親族を数人知っている。

こういう風景は沖縄で日本語を普及していくときにも一時見られたという文章をどこかで読んだ。東南アジアでもそうだったかも知れない。

戦中は公教育の現場や官公庁においては日本語使用が徹底されていった時代だった。
理由はなんだろうか。朝鮮語の学習時間が国語の学習の妨げにはなっていないと思うが。どう考えてもバイリンガルの人間や社会への圧力と写る。

森崎和江さんのお父さんが戦後日本に引き上げてきてまもない頃、自分の教え子たちが一人でものを考えるときも日本語だということを気にかけて泣いていたという思い出も読んだことがある。

私はバイリンガルでないので、ものを考えるときの言語の選択がどんなものかよくわからない。

学校で習った主たる言語がものを考えるときの言語になるのかな。


話がそれてしまうが、1942
10月に朝鮮語学会事件というのが起こった。詳しく語る見識はないが、ハングルを保存していこうとする学者たちの集まりだった朝鮮語学会の主要メンバーが別件で治安維持法違反で逮捕されるという事件だったらしい。

8月15日の解放後、「地下」でしか行動がとれなかった学者たちが一斉に表に出てきて、まずハングルを教えないといけないということで、にわかに講習会のようなものが開かれたらしい。

亡くなった父もそのような場で子どもがひらがなを学ぶようにハングルを習ったらしい。

「そのへんの先生ちゃう。えらい学者に教えてもらった」と語っていた記憶がある。


で、なぜ戦中こんなふうに朝鮮語使用を弾圧したかだが、私はやはり戦力不足を補うために実施された朝鮮半島での「徴兵制」が関係しているように、ドラマを観て改めて思った。


これはKoreanにしてみれば、負の記憶として残ってきたと思う。



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by far-east2040 | 2016-09-29 14:49 | 言語

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               韓国ドラマ「黄金時代」 オフィシャルサイトより画像借用


きっかけは、ネット上で日韓併合時の朝鮮半島や日本本土が描かれている珍しいドラマと知ったからだった。
途中で挫折した「チャングムの誓い」と違い、全20話とそんなに長くないので、とりあえず1巻借りてみた。
「はまる」とはこういうことかと自覚しながら、とうとう最終話まで観た。


1927
年、釜山から日本に向かう船の中で出会った同い年のクァンチョルとジェフンは、身分の差を越えた友情を育んでいた。しかしそんな2人を快く思わないジェフンの父親ヨンホにより、いつしか2人の仲は引き裂かれてしまう・・・。父親のジンテが京城銀行頭取のビョンイクを殺害する事件を目撃してしまったクァンチョルは、長年そのことで苦しむが、皮肉にも彼の娘であるヒギョンをやがて愛するようになる。10数年後、それぞれの道を歩んでいたクァンチョルとジェフンに、感動の再会が訪れるが・・・。(韓国ドラマ「黄金時代」オフィシャルサイトから抜粋)


よくできたドラマだと思った。

ちょっと原罪をテーマにした三浦綾子の『氷点』や松本清張の小説と重なる雰囲気を持っていると思った。

人間は生きているかぎり、その時代の社会的、歴史的な事柄に影響を受けているのだから、こういう背景を抜きにしたドラマは私には物足りなくて楽しめない。

このドラマを通じて、社会的、歴史的な背景のもとに繰り広げられる人間ドラマが好きなんだという自分の趣向を再発見した。


このドラマは韓国で2000年から2001年にテレビで放映され、高い視聴率を取ったという。私の周辺でもかなり高齢女性のファンが多かった『冬のソナタ』の前年の作品だ。

日本では『冬のソナタ』はかなり評判がよかったらしいが、私は見ていない。

たとえば瓜二つの別人が出てくるとか、このドラマいろいろありえないことがよく起こると聞いていたし、子育てで一番大変な時期でもあって結局見る機会がなかった。

題名からかなり甘そうだなとは思ってきたが。


さて、この「黄金時代」では関釜連絡船は出てくるし、釜山港、下関港の光景、在日一世の原型のような男、戦中の様子を観ていると、いろいろ考えさせられることが多かった。

完全な「時代考証」ではないと考えても、私がそれまで写真や残された記録だけで築いているイメージよりはるかにリアルに展開してくれた。

かわいい子役たちの演技もうまい。出身階層が違うチェフンもカンチョルもどっちも味わいがあってよかった。
特に、カンチョルにはあの服装のまま家に来てもらって、ごはんをいっぱい食べさせてあげて、「おばあさん、おいしいよ」といってもらいたい妄想の世界に入っていきそう。

ああいう子役に弱いことも自覚している。

韓国女優としてはそれほど美形ではない女優が陰の主人公を演じているのだが、演技に惹かれるものがあった。
「あんなとこで写真を拾うかな」とか、「あんなとこで会うかな」というようなシーンもあるし、冷静に考えたらありえない話なのだが、感情移入しているうちに、絡み合いそうにない登場人物達が、いつのまにか自然に絡み合っていることに気がつく。そんなドラマだった。


他のドラマは観ていないが、私の好みでは「黄金時代」を韓国ドラマではベストに位置づけている。



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by far-east2040 | 2016-09-28 09:55 | 友情

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1961年に出版された同名の小説『キューポラのある町』は現在は公共図書館で探すのは苦労すると思うが、アジア図書館ではKOREAを知るための文学書の1冊としてさりげなく棚に納まっている。


1962年に公開された吉永小百合さんが演じる多感な十代の少女の成長物語だけれど、その時代の北朝鮮への帰国事業に沸く下町の人情を描いていることが、私には興味深い映画作品になっている。


あらすじはWikiによると、

中学3年の少女ジュン(吉永小百合)は、鋳物職人の父・石黒辰五郎(東野英治郎)が解雇されたことからはじまり、貧困・親子・小中学生の不良化・民族・友情・性など多くの問題に直面しながら、まっすぐに生きていく。


舞台は埼玉県川口市の鋳物の街。ほとんどの人にとってなじみのないキューポラ(鉄の溶解炉)ということばを知らしめたこともこの映画の功績の1つだと思う。

事業自体は1950年から1984年まで続いたとあるが、この映画は1962年前後の関東の下町での状況を描いていることになる。

当時の帰還事業がどんなものだったかを知りたいなら、この映画はとても参考になる。

昭和の下町の雰囲気が濃厚だ。
こういう町ぐるみのお祝いムードの中で多くの在日Koreanたちが北朝鮮に行ったのだと思うと、現実を多少知った今は複雑な心境になるのだが。

当時にそれを求めることはできない。あまりにも美化された情報が人々を酔わせたように思う。

「就職」と「生活」を保証するということがいかに人々に希望を持たせたか。

それと傍から見れば、Koreanが自分の祖国に帰ると見えたかもしれないが、この事業で帰国した人のほとんどは今の韓国をふるさとにしていた。
この帰国事業は韓国では北送事業と呼ぶらしいが、当然反対する立場をとってきたのもうなづける。

「かわいそうやな。ほんとは大変な生活が待ってるのに」なんて陰で考える日本人関係者はほとんどいなかったと思われる。

在日にしても極端な反共主義者でなければ、悪いものとしては写らなかったと想像する。

映画の中の人々の持つ雰囲気は社会党系のシンパの人たちと思っていたが、原作者早船ちよさんは共産党員だったことを知って認識を新たにした。

原作をぺらぺらめくって読んだことがあるが、映画もそうだが、いかにも「貧しいが明るい」ところが私には作者の気質が表れているように思う。
主人公ジュンが同級生の友人に、帰国したら高校へ入学させてもらうように純粋に語るシーンなんか、現実はどうだったんだろうかと思うと、つらい。

よく見かける脇役の俳優で、帰国する在日Korean役をしていたが、壮行会のような場で日本人たちの前で涙ながらに礼を述べるシーンが「名演技」で、現実にはこんなシーンあったんだろうかと考えると笑える。
庶民にとっては、生活できることが大事であって、イデオロギーなんてむずかしく考えることはなかったにちがいない。

Koreanとして生活できること、進学できること、働けることに共感しただろうなと思う。

小説のストーリーは起伏に富んだところもなく、それほどの魅力を持っている作品とは思えないけれど、主人公の背景で帰国事業をさりげなく描いていったところがユニークなものにしている。こんな作品他には見当たらない

さらに映像で時代の雰囲気を残してくれたということでは貴重な作品だと思う。


なお、この映画は多くの果実をもたらした。日活の助監督だった浦山悟郎の監督昇格デビュー作でありブルーリボン賞作品賞を受賞し、主演の吉永小百合さんも主演女優賞をとるなどして、女優として大きく飛躍するきっかけになったという。

彼女の健気な演技が、社会問題を扱う映画にありがちな硬さをゆるめて、この映画を名作にしてくれたように思う。
映画界という華やかな世界にいる現在の吉永小百合さんの人生の越し方、生き方にこの映画から1本の筋を引きたくなる。



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by far-east2040 | 2016-09-26 13:09 | 生き方

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よく買い物をするスーパーの漬物コーナーでは、梅干、たくあん、キムチを並べる面積はほぼ同じで、他の漬物よりも圧倒的に広い。

いつからこんなに普及し始めたのかなと思う。


私は結婚するまで、キムチを買ったことがなかったが、夫が毎日食べても飽きないぐらい好きなので、買い始めたのである。

夫は九州の田舎町で育った人なので、多分大阪に出てくるまでキムチは食べたことはなかったと思う。

ある日下町の露天で売っているキムチを食べたときに、あまりの美味しさに帰郷するときにはおみやげに持って帰ったこともあるという。


夫が出かけるときによく一人で作るお弁当は、ご飯の間にマヨネーズ、キムチ、ピザ用チーズをはさんだキムチ丼風か、マヨネーズかマーガリン、キムチをはさんだサンドウィッチだ。

私は受け付けられないので味はわからないが、本人は「こんな美味しいもの……」というぐらいかなりいけるらしい。キムチとマヨネーズは合うらしい。

韓国でこんな丼やサンドウィッチ売っているのかな。


私は小さいころからキムチを眺めてはきたが、複雑な家庭環境ゆえに親しめなかった。
兄妹みなそうだ。
今までの見聞でいうと、在日Koreanではかなりめずらしい。

小さい頃の味の記憶がないので、冬場にスープやお鍋で美味しく食べるぐらいで、今でも漬物としては積極的に食べたいと思わない。

夫の酒飲み仲間から「アホちゃうか」なんていわれたことがある。


Koreanとキムチの関係は日本でいえば、なんだろう。
たくあんや梅干との関係は超えてる感じがする。
キムチなしでKoreanは生きていけないのではないか?


新聞を購読していた頃、1932年生まれで現在84歳の作家高史明氏が、少年時代の思い出話を語るコラム記事を読んだが、キムチに触れていたところを覚えている。


……冬は教室のダルマストーブに弁当箱を並べて温めていたのですが、うちのおかずはキムチしかない。そのにおいが教室中に広がって、くさい、くさいと騒ぎになった。自分もくさいと思ったのですが、気がついたら原因は自分だった……。自分が二重に壊れてしまった感じで、くさいと言っている連中を一人ずつ殴りつけました」


高史明氏はお母さんを早くに亡くしているので、このお弁当はお父さんが作ったものだと思う。それを思うと、余計に胸に迫ってくるものがある。


1930年生まれの韓国人女性イ・サンクム(李相琴)さんが、15歳で帰国するまでの思い出を綴った『半分のふるさと』にも同じように「キムチ入りのお弁当」がもたらした冬の日の教室内のほろ苦い思い出を書いている。

父の思い出にも当然キムチが出てきた。
1930年代いなか町の尋常小学校にほぼ初めての朝鮮半島出身の子どもとして入学したのだが、お弁当のおかずはキムチだけ。

他の子どもはうめぼしだけのいわゆる日の丸弁当。

その当時は麦入りのご飯が当り前で、お弁当を持参できない子もいっぱいいたので、持参できるだけ恵まれていたという。

まわりから「くさい、くさい」といわれたので、隠して食べたり、わざと持って行かなかったりしたという。
祖母はキムチを水で洗ったりして入れてくれたが、父はみんなと同じうめぼしにしてほしいと必死に頼んだらしい。
祖母はどんなものかわからない。仕方がないので、手に入ったまだ青い梅を切って入れてくれたらしいが、おいしくなかったという。当り前だわ。
高史明氏もそうだが、父も笑い話として語る心境には達していた。

日本社会でKoreanが定着するところには必ずキムチがついてきた。


日本社会で一番早くキムチの美味しさに気づき、食生活に取り込んできたのは九州ではないかと思う。

「うちは朝鮮漬けも作りますよ」

なんて聞いたのも九州のお宅だった。

九州では早くから「朝鮮漬け」として家庭でマメな女性たちに漬けられてきたようだ。

自分で白菜を栽培して、キムチを自分で作っている人を2人知っているが、偶然だろうかどちらも九州出身だった。


とにかくキムチとして、広く日本の家庭の食卓にも上るようになったのはこの数十年だと思う。夫もそうだが、キムチをほんとうにおいしそうに食する日本人がいる。
当然まったく忌み嫌う人もいると思う。私もそれに近いところがあるので、匂いがついていけないんだと思う。


反韓・嫌韓を煽る言論や行動の仕事についている人のことを考えていると、案外キムチは好きで食べている人もいるような気がする。


戦前のキムチが受けてきた扱いのひどさを知っているので、日本人の食欲を満たすことで確固たる地位を勝ち得たキムチの忍耐と努力に拍手を送りたい。



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by far-east2040 | 2016-09-11 15:13 | 文化

日本料理の独自性

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昔むかし、マレーシアの若い女性留学生と食文化の違いについて話していて、

「わたしは韓国人と台湾人とは結婚できる」

というので、理由を聞くと

「食べるものが似てる」といった。

「なるほどな」と思ったものだ。


これは食生活だけに限った世間話で、実際の結婚となれば、イスラム教徒以外との結婚はかなりむずかしいと思う。

多分、マレーシアではマレー系=イスラム教徒=イスラム教徒以外の結婚は禁止となっていると思う。今は違うのかしら?

実際マレー系の男性と結婚するために、イスラム教徒になるための学習プロセスを経て無事に結婚した日本人女性を知っている。

で、話を戻すと、あくまでも傾向としていうのだが、日本料理にはとうがらしの「辛味」がないということで、アジア全般を見渡して特長になっているようには感じる。

にんにくも伝統食の中で日本ほど使われない国はアジアでは珍しい。

あくまでも食文化の違いであって、優劣を語っているのではない。


私は今野菜を栽培する生活を持っているが、周りを見渡すとにんにくはたいていの人が栽培しているし、ホームセンターでも種球はシーズンになるとたくさん売られている。

にんにくは日本では避けられていた野菜の1つだったと記憶しているのだが、いつから普及してきたのかなと思っている。

中華料理の普及? それともイタリア料理のブームがあったらしいので、そのイタリア料理の受容からかな?


ネットでよくマレーシアなど東南アジアの庶民的な料理が紹介されているのを見ていると、どれも美味しそうだなと思う。

麺やご飯、チキンの上にかかる辛そうなタレがたまらない感じ。

その料理は日本以外のアジアのどこの国の伝統食にでも入っていけるというか、馴染んでいける親和性というものを感じる。

つまり、日本以外はみな似てる感じがする。

でも、タイのナンプラー、ベトナムのニョクマム、東北地方の魚醤は似ているらしいので、いろいろ例外がありそうだけど、日本の伝統食のアジアの中での独自性は際立っていると思う。

韓国にいる親族で日本でたびたび日本料理を食べた叔母がいるのだが、「日本料理は味がない」ということを不思議そうに語るのを何度か聞いた。

さらに「お皿にちょっとしか載ってない」と指先で「ちょっと」を表現するしぐさがおかしかった。
私にもう少し韓国語能力があれば、日本料理が持つ美学を多少は語ることができたのだが。


確かに韓国料理は辛味たっぷりで、お皿にしっかり盛られることが多いように感じる。

ドラマ『チャングムの誓い』を観ていたとき、宮廷料理として出される一人前の量が多すぎるので、残り物の行方をあれこれ考えたことがある。

人間の食べる量はさほど変わらないはず。

祭祀の際、あっさりして見た目もかわいいチジミを見たことがあるが、そのままでは食べず、やはりこってりした辛味タレをつけて食べていた。
韓国料理を色で表現すれば、とうがらしの色で、日本料理はおすましのようなうすいしょうゆ色かな。素材そのものの色合いを大事にしている感じがする。

私自身は韓国料理を味わう舌を持ち合わせていないので、日本のどこにも根がない、こってりしたしょうゆ味が好きになり、加齢とともにますます和食が好きになってきた。

JAPANESEKOREANの庶民の食生活の違いの1つは、KOREANは牛肉のおいしい食べ方を伝統的に知っていることだと思う。

最近、その肉食文化はモンゴル帝国が高麗という国を一時支配していた時に伝わっただろうという事実を知った。合っているように思う。

だから体格についていえば、肉食の伝統があるKOREANの方が骨格がしっかりしているように感じている。もちろん一般論として。


在日文化としてホルモン焼きとか焼肉はよく知られている。

これは生活の貧しさから日本社会から見向きもされず捨てるような部位を見つけて生み出した料理と思っていた時期があったが、そうではない。

KOREANは母から娘に牛肉のすべての部位を美味しく食べる方法が伝えられていたからだ。


伝統的な日本料理は繊細な美意識を表現する巧みさがなければ、外国で正確に語るのはむずかしいように思う。



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by far-east2040 | 2016-09-07 19:21 | 文化

父系の血縁集団を表す姓

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6年前はまだ新聞を購読していたので、その年のノーベル平和賞に中国の作家で服役中の劉暁波氏に決まったことを大きな活字で知った。

ノーベル平和賞に関心を持つ世界中の人は「劉暁波氏って誰?」って思ったんじゃないかな。
初めて聞く名前だったし、服役している理由や受賞理由を改めて知ってもほとんど理解できなかった。

政治にあまり関心を持てないからなのかも知れない。

中国側の言い分も、受賞を支持する側の言い分も、私には同じ距離があるというのが正直なところだった。

私が気になったのは、劉暁波氏の奥さんの名前がやはり劉氏であることだった。
劉氏と劉氏が結婚していることになる。

ひょっとしたら、名前を変えている可能性もあるかも知れないが。封建社会の中国だったら、成立してない婚姻ではないかとちょっと思った。


最近中華人民共和国成立の功労者の一人である朱徳の娘が生んだ孫が現在の中華人民解放軍の幹部にいると知った。

当然生れたときは朱以外の姓だけど、朱姓に変えたとどこかで読んだのだが、多分合っていると思う。軍部にいるので、朱徳との血の繋がりを表現するためだと誰でも考えてしまう。


韓国でも離婚再婚が増えてきているので、離婚後再婚した女性が前夫の姓を名乗る子どもたちの姓を現在の夫の姓に変えることは法的に可能だと知った。

姓は父系の血縁集団を表現しているので、いかなる状況でも不変だと思っていたので、姓を変えることができる事実に時代の変化を感じた。

父系の血縁集団という本来の意味が崩れてきている。

朝鮮民族や漢民族、ベトナム民族の姓は血縁集団を表していて、女性は婚姻しても姓を変えることはない。これはよく知られている。

朝鮮民族は、過去において同じ本貫(氏族集団の発祥の地)通しは婚姻できない法規制と慣習があったが、現在は北朝鮮でも韓国でも法的に婚姻は可能という。しかし北朝鮮はわからないけれど、韓国では根強い慣習として続いているはず。


金や李などのように数種類の本貫を持つ姓もあるが、たいていは1つである。だから違う姓同士なら、たいてい本貫が違うので婚姻可能。もちろん同じ姓でも本貫が違うなら婚姻可能だが、違う姓でもたまたま本貫が同じ場合は不可能だったと理解している。

この慣習は、非科学的であることは間違いないが、傍で想像するほど窮屈なものではないかも知れない。選択の幅はあるし、双方にとってフェアな忌避感情であるし、婚姻相手を選ぶ際のたしなみのようなものと理解しているが。

ただ、積極的に残していく遺産とは思えない。
 
かつて中国人の留学生に直接訊いたことがあるが、同姓との婚姻は避ける慣習はないと聞いた。地方に行けば、状況は少し違うかも知れない。


ベトナム人の名前のグエン、ファン、フィン、ホー……もみなかつては漢字一文字の姓である。
もと留学生で日本の大学でベトナム語を教えておられた在日ベトナム人男性に、こういう慣習があるのか訊いたことがある。南ベトナムで仏教に縁がある家庭のご出身だった。

私の質問に即答しなかった。首をかしげてしばらく考えて、
「年寄りはいやがる……しかし若い人は結婚するよ」
と答えられた。
 

こうなるとかつて儒教文化圏と呼ばれる地域に存在したこの慣習は、台湾の情報がわからないけれど、韓国において色濃く残されていることになる。

現在の韓国においては、法的には日本と同じように医学的見地から近親結婚を禁止している部分を除いて、いかなる制約もないことになっている。


が、実際は韓国内にいるとどうかな。

若い世代の人たちは親の世代に比べるとはるかに変化してきているのは間違いないが、同じ姓や本貫同士、慶尚道出身者と済州島を含めた全羅道出身者との結婚忌避は現実問題として水面下では存在しているように思う。



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by far-east2040 | 2016-09-02 17:03 | 名前