f0364260_07523935.jpg

うろ覚えだけれど、政治哲学者ハンナ・アーレントの「個人にいったん身についた観念を取りのぞくことはむずかしい」という内容の文章を読んで、静かな納得を得たことがある。


『偉大なる道』は、儒教精神でつちかわれた封建社会から脱皮して、新しい社会を築くために大きな社会変革をおこしながら苦闘した、朱徳と仲間たちの物語ともよめる。

反対勢力との血なまぐさい闘争をへて、この難事業を成功させることができたのは、封建社会で虐げられてきた民衆の共感と支持を得ることができたからだ。

しかし、新しい社会が無信仰・無宗教に根ざしたものなので、その後も問題や弊害が続いていると解釈している。
竹をすぱっと割るようにことは運ばないということ。


朱徳個人に焦点をあてると、旧から新の社会をまたいでいくひとりの男の姿を詳しく記録したものになり、珍しい作品になっている。

こんな本ほかにあるかな。


あらためて儒教とは何かをネットで調べてみたが、「孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える

とあり、自分の認識とだいたい合う。


「仁、義、礼、智、信」は、一昔前の儒教文化圏ではとくに好まれる漢字で、人物の名前によく使われてきたことからも影響力がうかがわれる。


領土を治める支配者側や、一族にあっては家長、家庭の中では男にとって都合のいい思想体系であったのだろう。だからこんな何世紀にわたって維持できたのかなと思う。

辛亥革命後の混乱時期に、孫逸仙から政権をゆずりうけた悪名高い袁世凱は、儒教を国教にして復活させようとまでした。


魯迅が「死んだ人間のために、いま生きる人間が犠牲になっている」という内容で、儒教批判していた文章を読んで感動したことがある。


建国後、儒教を否定している中国でも、日本や台湾や北朝鮮などでもそれなりに残されている。

しかし、現在、儒教がいちばん根強く残っているのは韓国だ。
これは国自体が認めているし、美点として語られてもいる。


偶然、外野で育ったものから見れば、韓国は儒教精神が形式化されて、徹底されている社会に見えるし、日本の天皇制に似ているようにも感じてきた。

近代天皇家の婚姻をふくむさまざまな儀式のスタイルは、英国の王室のスタイルと儒教精神のミックスチャアに見える。

一方、韓国社会の弊害の原因をつきつめていけば、儒教精神にぶつかるのではないかと考えている。


韓国はキリスト教も盛んで、とくにカトリック信者は日本より多いはず。

個人としてクリスチャンになって儒教から多少自由になっても、一族から完全に距離はおけないせいか、ほのかに儒教の香りがするように感じる。


むかし若いマレーシアからきた女性留学生とよく話しをする機会があったけれど、宗教に関しては日本社会のなんでもありで、ゆるゆるの環境がうらやましいと言われたことがある。

マレー系のマレーシア人はイスラム教から完全に解放されることはないからだった。
イスラム教への疑問を日本でもったのだろうか、髪の毛を隠すスカーフもつけてなかった。


韓国人の儒教の関係もこれとよく似ていると思った。

ただ、韓国人は移動や結婚も信教の自由もあるので、異文化に出会うことで変化していっている感じはする。

儒教の弊害のひとつをあげるとすれば、異常な教育熱ではないか。


個人的には、儒教は博物館の展示物と考えていて、眺めるものとわりきっている。

特異な事情が重なって、ルーツがKoreaにあるにもかかわらず、自覚するかぎり儒教が身についていないし、好きになれないし、それどころか儒教批判する文章に強い共感をおぼえるようでは、どの集団にも帰属感がもてないのはあまりに当然。


『偉大なる道』に話を戻すと、儒教社会を否定することは、政権のトップから末端の民衆の男にとって、伝統的にうけついだ既得権益の半分を女にゆずりわたすことでもあるから、それはそれは大変な変革事業だった。

こういうことは綺麗事ではできなかったはずだと思う。


儒教からとりあえず解放された立ち位置から、ひとり静かに痛みをうけいれる瞬間が好きだ。

今までなんどもしてきたことだ。



[PR]
by far-east2040 | 2017-11-29 08:07 | 朱徳の半生

f0364260_11281563.jpg


最近、元力士と綺麗な顔立ちのアナウンサーを両親にもつ息子が、靴職人というユニークな職業についたという話題を知って、「いい仕事えらんだな」と感心したり、顔立ちや雰囲気が両親に微妙に似ていて、DNAがもたらす不思議さを感じた。


いくつあるかわからないけれど、子が展開していく心身+その後のαは、両親から受けついだものにかなり強く左右されるという確信をもっている。

身辺や、子育てを通じて見えた景色や、見たり聞いたり読んだりを通じて、そう考えるようになってきた。


一昔前は「氏より育ち」という言葉があったが、今は「環境よりDNA」だと思っている。

たまたま両親のどちらかから受けついだDNAの方が、環境よりその人物の人生にあたえる影響力は大きいと思う。

ある人物の秀でた面を考えるとき、どういう両親でどういう環境で育ったかは興味ある情報だ。


「こんなこと当たり前じゃない」と思うのだが、歴史的に根強い差別のもとで、数代続いてきた劣悪な環境を、急ピッチで改善していこうとする運動を近くでながめて以来、懸案事項として頭に残ってきたが確信がもてずにきた。


この運動は、教育環境の改善のために、行政の協力のもとに相当な予算をつぎ込んできた。

行政から予算を合法的かつ持続的に取り込んでいくための理屈として、急速に環境を変えたら問題は解決されると考えていたようにも見えた。

もちろんひとりひとりの学習への動機付けもしていたけれど、限界が感じられるし、当時日本全国どこでもなされていたように、予算をとるために非効率的なお金の使い方をしていたなと振り返られる。

過ぎ去った過去の悪い具体例なんて枚挙にいとまがない。

こういう場では「環境よりDNA」とはいえない雰囲気があった。


それと遺伝に関しては、長男は母親、長女は父親に容貌、雰囲気、「好きなもの、好きなこと」が似ていている傾向が強くて、次男次女はその逆、三男三女以降については情報不足でなんともいえないという自論をもっている。


これを否定する人いるかな? 個人的には8割、9割であたっていると思っている。


『偉大なる道』で朱徳の人生を味わっていると、この遺伝について考えざるを得ない事例を発見することが何度かあった。

朱徳は、何代もつづく農民一族の出身という環境から考えて珍しいほど音楽がそれなりにわかる人だった。

スメドレーもこの件については、母方の影響を考えていた。


「朱家の子たちは、民謡をうたったり、手に入るものならどんな楽器でも鳴らしたりして生長して行ったが、それについては、おそらくチュン家の血が物をいっているのだろう。」


朱徳の母親は旅芸人の娘で、やさしい性格の持ち主でもあり、三男の朱徳は「母親似」と客観的に自分を語っている。

父親はすごく乱暴でむごい人で、朱徳は儒教社会の習いで形式的には敬意をはらっていたが、内心は嫌っていた。
後年は、父親の乱暴さは多くの人民と同じく、封建社会の貧苦のなかで形成されたものと理解し同情していた。


長男は笛や胡琴を上手に演奏できて、記憶力が優れていたので、塾では要領よく勉強して、残りの時間は短い歌を習いおぼえては笛で吹いたりした。

次男は乱暴者で小鳥を殺しては喜んでいるような子で、朱徳を悲しませた。

家族の決断ははやい。


「まったく頭が悪かったので、彼の家ではすぐに彼を退校させ、畑ではたらかせることにした」
という。


三男朱徳は塾で熱心に勉強し、長男の楽器の演奏をききながら、自分でも演奏できるようになった。


朱徳はまじめな人間だ。

その後科挙受験の勉強をしたり、家族への仕送りのために体育の先生になったり、儒教社会の規範の一つ「親への孝行」を「国への孝行」にシフトさせて、軍人になり、辛亥革命で活躍する。

革命後の挫折の日々に、再婚した女性とつかのまの安らぎをえる。


「ユ・チェンは琴を弾じ、朱は笛を吹き胡琴をかなで、後には他の楽器類を買いもとめて修得したが、その中にはオルガンもあった。」


軍人であり、写真を見る限りどこまでも農民らしい粗野な朱徳が、オルガンをひけたなんて想像しにくい。


その後フランスをへてドイツに留学する。

彼の友人たちにとって退屈であるか、大きな音を鳴らす騒音でしかなかった歌劇や演奏会に熱心にかよい、ベートベンが好きになったという。


「朱徳にとっても、演奏会や歌劇は、はじめは、一個のでかい騒音だったが、まずメロディーやモティーフをとらえることができると、やがて全体を貫流する創造的な想像力の調子をとらえることができた。それでも、夜の眠りに入ろうとするときなど、夢うつつの中を、創造の朝とか軍隊の行進とか人間の必死の奮闘、そうしたものを思わせる雄大なもののひびきが流れるのであった。」


ドイツで政治活動を続ける朱徳は3回警察につかまり、2回は領事館が介入してすぐに釈放された。
3回目のときも楽観して拘禁生活を楽しんで睡眠不足をとりもどした。


「……毎朝、守衛が私の小さな房に入ってきて、うすいコーヒーの入ったブリキ缶と黒パンの一かたまりを置いた。私はそれを平らげると、運動をやり、しばらく歌をうたって暇つぶしをし、それからまた寝た。……」


ちょっとしたミュージカルを思わせる。

『偉大なる道』での名シーンのひとつととらえている。


土地革命を実施していくなか、ある地方では、貧苦のため男たちが海外に出稼ぎに出て、残された女たちは男の仕事をしながら、たくさんの「恋慕の歌」をつくった。
なかでも「いとしい人」という言葉ではじまる歌を聞いた兵士は、自らの境遇を重ねてすすり泣いたらしい。


「朱将軍はたちあがって、私の部屋の小さいオルガンのそばにゆき、この民謡をうたいはじめたーー」


朱徳はなんと弾き語りができた! 両手で弾けたのかな。

朱徳とスメドレーと通訳の3人と音楽が流れる名シーンだ。


やがて、毛沢東の軍と合流し、井岡山を拠点にして紅軍を結成したのだが、忙しいあいまをぬって、朱徳ならではのことをしている。


「井岡山にいるあいだに、朱将軍は、紅軍がつかっていた歌をあつめ、それをふやすのに一生けんめいになりはじめた。1937年には、これらの歌は、彼の上着のポケットに、たやすくすべりこませることができるくらいの大きさの、およそ2百ページの小さな本になっていた。この本は、ページのすみが、めちゃくちゃに折れ、手あかでよごれ、あるページは、ほとんど読めなくなっていた。」


朱徳のこのノートはいまどこで保管されているのかな。

この本には当時のことだから、とうぜん『インターナショナル』も入っている。

中国映画『黄色い大地』で若い紅軍の兵士が地方の寒村にやってきたのは、貴重な歌を収集するためだったはず。
朱将軍もすすめているという内容のセリフがあったと記憶している。

すべてがつながってゆく。


「インキのしみだらけの色あせた赤い布の表紙をし、粗末なとじ方をした、この小さな歌の本を、やさしくなでまわしながら、朱将軍は、井岡山のあらあらしい岩山や、青々とした緑の谷、竹の林や、もみの森、潅木とかぐわしいさまざまな花、ほとんど一年中、山々をつつんでいる白い雲などを、じっと思いうかべていた。」


民俗学者のようなことをしている!


当時は人民が歌をうたうということはほとんどなかったらしい。


「……まさに革命こそが、人民のエネルギーを解き放ち、ありとあらゆる歌を生み出せた。

……人民に合唱することを教えたのは、紅軍であった。

……」


こういうことは朱徳だけの功績ではないが、ずっと見てくると、朱徳の母親の影響はゼロとはいえない。

「環境よりDNA」の影響の方が強いと思っているが、それだけで人生は決まらないこともわかっているので悲観することもない。

ただ震災以降、このDNAが外部から攻撃を受ける時代になったということで、より複雑になってきている感じがして気分は暗い。



[PR]
by far-east2040 | 2017-11-04 11:42 | 朱徳の半生

f0364260_20585678.png


先日、2017年のノーベル文学賞にイギリス人のカズオ・イシグロ氏が選ばれたことを知ったが、いつだったか『日の名残り』を読んで感銘を受けことを思い出した。
イギリス上流階級での執事という裏方の職業にすごく興味をいだかせてくれたし、こういうイギリス伝統社会を、5歳からイギリスに住み始めた人が描けることに驚いた。


中学生のころ好きだった本の一つ『大地』の作者パール・バックもノーベル賞を受賞している。彼女もイシグロ氏と似た立場で、中国の農民一家の姿を描いていている。
どちらも、両親や生まれた環境を考えると、書けそうには思えない世界を対象にしている感じがした。


今から書こうとしている軍閥というキーワードは、実は『大地』三部作ではじめて知って、よくわからない言葉でもあった。
貧農の主人公がのし上がっていき、息子たちは富裕な人生を歩むなか、末の息子は家を飛び出して軍閥になった。
この軍閥になった息子は自分の息子に跡をつがせようとするが、この息子は争いを好まず、親に反抗して、つつましい農民であった祖父の人生にひかれてゆく。

なんかこんな話だったと記憶している。


語るにはむずかしい軍閥だが、『偉大なる道』を読むと具体的になってほんの少し見えてくる。


財閥、学閥、閨閥、軍閥と閥がつくことばはいい意味では使われない。排他的な集団になる。


1937年にスメドレーは朱徳に聞き取りをしていたのだが、軍閥時代については、彼女ですらややこしいと思ったので、早く終わらせようとして、始まりと終わりの時期だけをきこうとした。


「それは袁世凱とともに始まったが、今日もなお終了してはいない」と彼は答えた。


軍閥を私なりにまとめると、1920年代ごろ、帝国主義諸国から金銭や武器供給の後押しを受けて、おのれの名誉欲、出世欲、金銭欲をみたすために一定の地盤を支配下において、民衆から税金という名目で金をしぼりとる。地盤を維持していくために、他の軍閥と同盟を結んだり、裏切られたりして、血なまぐさい抗争はつづく。


孫逸仙の民族革命に同調し国民党員になっていた軍人も、彼が亡くなると、軍閥への誘惑に勝てず、革命を捨て軍閥の権力争いに加わる。


結局外国勢力と銀行家に支えられた蒋介石と仲間の軍閥によって、孫逸仙がきずいてきた民族主義者の側は敗北ばかりする。

地方ごとに勢力をのばして支配している地方軍閥は、必ず外国の勢力によって支えられている。北京を含む北部は日本帝国主義によって支えられていて、南部はヨーロッパの諸勢力のようだ。

みんな金で買収されたということだ。


表面的な同盟や義理、友情でつながってはいるが、最後はみな裏切られる感じがする。


日本をふくむイギリス、フランス、ドイツなどの帝国主義諸国がからんでいるところが軍閥理解のためのキーポイントだと思う。


朱徳も出世欲、名誉欲、権力欲などの誘惑は大きかったと語る。

相手が差し出すジャラジャラ鳴る洋銀の魅力に打ち勝つのはむずかしかったようだ。


朱徳でも挫折の日々に、甥を自分の軍隊内の士官学校にいかせてゆくゆくはと配慮したことがあって、スメドレーは「軍閥めいたこと」と表現している。


スメドレーは、革命途上の朱徳が他の指導者にない謙虚さをもっていたのは、彼の経歴に四川省で軍閥闘争にまきこまれ、自身もそれに近いような生活をおくっていたことが、コンプレックスの一つになっていたからだろうと推測している。


日本帝国主義と関係が深い軍閥は多いが、有名なのは中国東北部を支配していた張作霖で、結局日本の軍部によって爆破されて亡くなった。

この爆破事件に協力した父の配下の将校を、息子の張学良はすぐに殺した。
やがて内戦なんかしてるときじゃないと、協力して日本と戦うために西安事件で蒋介石を監禁し、国共合作へと歴史をすすめていく。


軍閥のトップになる人は一族意識の強い当時の中国にあって、何らかの理由でその集団からはみ出したものが多いように思う。
理由のほとんどは貧困からの脱出だろう。

軍閥のトップになると、その人より上の世代のつながりは薄くなり、自分が家系図でいえば起点になる感じもする。

だから必ず自分の息子もしくは身内に跡を継がせようとする。


軍閥を理解するための2つ目のキーポイントは、身内で固めていこうとするところではないか。


現在の大国中国は問題山積みの国で、軍事的にも周辺国にとっては信用できないところがあるけれど、国のトップは建国以来世襲は一切ない。
「反軍閥」は中国革命の看板のひとつだ。
外国からの干渉を極度に避けているように、世襲は国として否定する共産主義国家としての常識はふまえている感じがする。


では現在の北朝鮮はどうかといえば、これは旧き時代の軍閥の慣習を引き継いでいる。
身内以外信用できないので、自分の地盤を自分の息子に引き継がせる。
この本に出てくる軍閥のやり方そのものだ。

一代目の金日成はソ連の後押しのもと登場してきて、それ以来世襲。

東北満州地域の軍閥張作霖と似たようなもので、北朝鮮は軍閥政治をしていて、国とはいえない感じがする。


朱徳は戦前戦中の帝国主義国としての日本のことも「日本軍閥」と表現している箇所があり、意外だった。トップは当然「ヒロヒト」だ。

そういえば、明治維新も諸外国が悪役としてではなく、からんでいる。

日本の近代史はあまり詳しく知らないけれど、軍閥という言葉を意識しながら見ていくと、また違ったふうに解釈できそうな感じがする。


外国からの干渉を切れず、周辺国とは秘密裏に同盟をむすんだり、裏切ったりして関係がころころ変わり、トップが世襲の国は軍閥政権の延長と考えていいのではないか。



[PR]
by far-east2040 | 2017-10-12 21:14 | 朱徳の半生

f0364260_12415598.jpg


建国をになった中国共産党の中心人物に留学経験者が多いことは気づいていた。
ちょっと気になる人物が出てくると、ネットで調べてみたりするが、その中で「いわゆる勤工倹学でフランスへ」なんていう文面を読むことがあり、「勤工倹学」とは何だろと思ってきた。


1922年ぐらいにフランスへ向かった朱徳は、周恩来という青年が中国共産党の支部をつくったといううわさを耳にする。


「……この周恩来と、その同志たる陳毅、聶栄臻(じょうえいしん)、李立三、李富春とその夫人蔡暢らは、後日中国の歴史をつくったのである……」
とスメドレーは書いている。


彼らは「勤工倹学」で留学していた若者のあくまでも一部である。

この本では鄧小平は出てこないが、やはりこのころにフランスに「勤工倹学」で留学していた。


ちなみに、朱徳は雲南で高級軍人としていい給料をもらっていたときの蓄えを使って、自分のお金で留学した。36歳という当時の中国では中年と呼ばれる年齢での決断だった。


共通しているのは、国費でもないし、かといって一族の豊かな資産を持ち出しての優雅な留学組でもないということ。

国内の学校や大学へ息子をなんとか行かせることはできても、海外へ留学させるだけの余裕はない層の出身になる。
80パーセントの農民層と数%(?)の特権階層のあいだに位置する富農、小地主、商人、知識人などの進歩的な階層と考えたらいいのかなと考えている。

岩波新書の古い『フランス勤工倹学の回想』という本を読んだが、いろいろなことがわかってくる。
「勤工倹学」の定義やいつ始まったかを説明することはむずかしい。

ただ建国にいたる中国共産党を理解するためのキーワードのひとつであることは確かだ。


清朝末期、政府は日本の日清・日露戦争勝利の影響もあって近代化をいそいだ。


「当時の政府も、かなりの留学生を派遣し、主として日本にやって軍事を学ばせたが、えらばれて派遣される人の大半は、官僚か貴族の子弟であった」


朱徳の雲南時代の師であり親友であった、辛亥革命で重要な働きをした蔡鍔(さいがく)将軍も日本の士官学校で軍事学を勉強した人だった。

魯迅もこの時期の国費留学生のひとりとして日本で医学を学んだ。


新しい思想に目覚めた青年は自費で日本留学を実現させ、ピークは3千人ぐらいいただろうという。
この人たちは生活費をきりつめて苦学したらしいので、あくまでもこれは「倹学」。
こういう日本留学組から辛亥革命で活躍する人たちを多く輩出している。


朱徳が1909年ごろ入った雲南軍官学校は、日本の士官学校などを手本にしてつくられ、教官も日本留学組が多く、その中に同盟会員がいた。
こういう留学組は国内の清朝打倒が目標だったし、このころは日本軍の大陸での行為もあまり目立たず、日本は進んだ国としてあこがれとともにまあまあ印象もよかったように思う。

それがどこでどうなったのか。


「勤工倹学」に話しを戻すと、中国建国の功労者たちは、軍事畑出身以外はほとんどヨーロッパへの留学を経験しているように見える。
唯一の例外と考えられるのは毛沢東となるから面白い。


「第一次世界大戦が勃発して、フランスの男子はほとんどみな戦場にでていき、工場では労働力の欠乏をきたした。フランス政府は中国の人口がおおいことに目をつけて、中国へいって労働者を募集しよう、と考えた」


これは両政府にとって利害が一致して、各地に労働者募集所ができて、素朴な農村の若者や職人などがフランスに労働者として渡ったらしい。

こういうことを商売にする人も出てきたり、信じる主義や思惑はいろいろあってややこしいが、「勤工倹学という方法によって、志ある貧困青年をあつめてフランスに留学させよう」という「一種独特の思想運動であり、救国運動でもあった」となる。


「これはいいことだ」とこの情報を得た人たちが、北京で留仏勤工倹学運動を起こすのだが、なんと若き毛沢東もその運動の中心メンバーのひとりで、積極的に動いて青年を送りだしていた。


フランスまでの旅費の用意が大変だった。
東南アジアで一日一食で働いてお金をためようかとかそんなことも考えていたらしい。

なんとかフランスに着くと、とりあえず3通りの方法で勉強したことになる。
昼間勉強して夜労働するか、はじめの半年か3ヵ月は働いてお金をためて、それから学校に入って数ヵ月勉強するか、あるいは少しだけお金はあるので、ひとまず勉強し、そのうえで労働する。

官費留学生や裕福な自費留学生ではない彼らは、ひとりひとり違う苦労話があったし、共産党に加入するなどの政治意識の高揚もあったと思う。

フランスで共産党に加入した青年も多かったのではないだろうか。

ロシア革命後まもないころだった。


では、なぜ毛沢東は関わっていたのにフランスに行かなかったのか。

毛沢東の聞き取りを出版したエドガー・スノウがそのへんのことを聞いている。

毛沢東は「自分の国についてまだ十分に知っていないし、中国に暮らすほうがいっそう有益だと感じた」と答えている。

毛沢東は行動もとる人だけれど、何より読書家でもある。
この人らしい理由だと思った。


毛沢東は北京大学の図書館で司書の助手のようなことをしていた人なので、そこで相当読書をしただろうなと個人的に思ってきた。
時間と灯りが保証されたら、いくらでも読書できるという恵まれた環境にいたことになる。

彼の頭の中には読みたい本がリストアップされていたのではないかな。

図書館で働いていたということを知って、個人的にこの大物政治思想家に親しみを感じてきた。

「同じことを考えたんじゃないかな」なんて。


勤工倹学を私なりにまとめると、1920年代前後、暗黒の国内の政治情勢の中で出口をもとめて、中国の中間20%に属する青年がフランスで慣れない肉体労働をしながら苦学し、その中からのちに中国の歴史の1ページをつくるぐらいの政治意識の高い人材を輩出してきたとなる。


バブル時代のころ、豊かな国費留学生を多く見てきて、うらやましいとは思ったけれど、政府としては無駄な出費とは思わなかった。
日本に好感を持つ人材を各国につくってきたのだから。
でもそろそろ海外の国が、日本からの留学生を受ける大皿を作ってくれてもよさそうな時代になってきていると残念ながら思う。


100年たつと、物事ががらっと変わる。



[PR]
by far-east2040 | 2017-09-27 11:19 | 朱徳の半生

f0364260_17132412.jpg


中国革命に出てくる主要人物がどういう女性と結婚していたのかを知ることは、人間性を理解するうえで参考になる。


『偉大なる道』を読むかぎり、中華人民解放軍の総司令官朱徳は生涯において4人の女性と結婚したことになる。

革命途上で血なまぐさい波乱万丈の人生をおくってきた男性としては、4人という数字はうなづけると密かに思ってきた。


が、ネットで朱徳のことを調べているときに、朱徳は6人の女性と結婚したと羨望や驚嘆の感情が入り混じったような文章を数回見つけたことがある。

これは朱徳の人間性を貶めるための偽情報か、失意の日々にそばにおいていた複数の女のことを含めているのか、朱徳自身が何らかの理由であえて2人の女性をスメドレーの前で伏せたのか、あるいはスメドレーが2人の女性との関係は結婚とはいえないと判断して朱徳の諒解のもとで省略したのか。


中国で出版された伝記ではどのように記載されているのか調べようがない。

気になってじっくり調べると、写真つきで結婚した6人の女性を詳しく紹介する中国語で書かれたサイトを見つけた。

漢字の意味を頼りにおおよその内容をつかんだところでは、やはり6人の女性と「結婚」したことになるようだ。


東アジアは古い社会制度もとで早婚だった。正式な結婚適齢は男女とも二十歳前ではないかな。

今でもときどきインドで早婚の弊害を問題にする記事を見かけることがあるけれど、そのような結婚が中国や朝鮮半島でも一昔前には存在していた。

中国映画『黄色い大地』ではこの早婚の風習を描いていていい映画だった。


戦前戦中を朝鮮半島で暮らした女性史研究家森崎和江さんも、同級生で結婚している人が何人もいたと早婚の風習を語っていた。


そういう意味では一昔前の日本でも現代から見れば、信じられないぐらい若い年齢で結婚していたようだが、中国や朝鮮半島よりもやや年齢は高いように感じている。


中国に話を戻すと、毛沢東は14歳ぐらいで家どおしが決めた結婚をしている。

びっくりする話だけれど、当時の農村では普通の結婚だったと思う。
愛情とかいう感情は別問題。

その後2回結婚して、最後は有名な江青と結婚することになる。


孫中山(孫文)も19歳ぐらいで親が決めた相手と結婚している。

その後日本で亡命中に日本人女性としばらく夫婦のように暮らして、子もいたようだ。

やがて親が決めた相手とは離婚して、宋慶齢と革命事業を共にしていくことになる。


1881年生まれの作家魯迅も17歳ほど年下の女性と恋愛結婚したが、形の上では親が決めた妻がいたようだから重婚になる。

この作家も旧社会の結婚制度から自由ではなかった。


周恩来はちょっと違う。
毛沢東より5歳、朱徳よりも12歳若くて、農村出身ではなかった。
夫人ともども親が官吏のような職業で都会に近いところで学生生活をおくる知識人だった。

周恩来夫人は志を同じくする仲間であり、周恩来にとっては妹のような存在として出会ったらしい。

あの激動の時代に相思相愛でそのまま結婚し革命事業を担い、共に晩年をすごすという極めて珍しい夫婦像を作りあげている。

どこまでも周恩来と夫人は「清い」。

若い頃写した二人が寄り添う写真を見ると、信頼し合っていたことが伝わってくる。

作家ハン・スーインが周恩来の伝記を書くために晩年の夫人にインタビューしたとき、夫人は恥ずかしそうに出会った頃の思い出を語っていたらしい。


朱徳も旧社会の結婚制度から自由になりきれなかったようだ。

二十歳ぐらいのときに成都で纏足をしていない自然な足の女学生を初めて見て、金がない朱徳は遠目であこがれていて、将来結婚するときはそういう女性としたいと思っていた。


しかし、朱徳一人のための学費を捻出するために貧苦に耐え、多額の借金の返済に追われていた家族は別のことを考えていた。

学問を身につけた朱徳はやがて科挙に合格し、えらい役人になることは約束されている。


「みなが、私に嫁を持たせねばならぬと思っていることがわかった」


「私ならば、家の借金を返済できるだけの持参金を要求できると考えていた」


この本では朱徳が結婚を勧めてくる家族ともめたらしいことだけは書かれていた。

朱徳はそういう話を振り切って家を出たと思っていたが、どうやらこの時期形式的には結婚したらしい。

実際のところはわからないが、多分かなりの持参金つきで纏足をした女性を嫁にして、生涯養父母に仕えさせたのではないだろうか。

中国語の文章を読むと、朱徳の「最初の妻」は寂しい人生をおくったようなことが書かれている。


『偉大なる道』では軍人になったとき、友人の妹と初めての結婚をしたと書かれている。
しかしこの女性は息子を生んだ後病死した。

母を失った息子のことを考えて同じように別の友人の妹と結婚し、ここで幸せな結婚生活をおくった。

本の中では理知的な女性として描かれている。


その後朱徳はフランスとドイツ留学を果たす。

ドイツ留学中大いに活躍して勉強して充実した日々をおくっていたが、女性の存在なんてまったく書かれていない。

ところが写真つきの中国語のサイトによれば、その時いっしょにいた数少ない女性の留学生が朱徳と結婚していたとなるらしい。

中国語なので詳細はわからないけれど、ありえる話だと納得できた。

実際はどうなのかわからないけれど、正式な結婚ならば重婚になるし、同志としていっしょにすごした女性とするなら「不倫」になるし、いずれにせよ扱いがデリケートになる。

『偉大なる道』ではこの女性についてはまったく触れられていない。

当時としては恵まれた境遇の女性だから、どんな人生をおくったのかしら。


その後帰国して革命途上で呉玉蘭という作家であり活動家でもある女性と結婚したが、これは平和な時代であればはっきり重婚になる。

しかしこれについては朱徳は、遠く離れていて普段会えない妻も自分の活動をしていて、革命事業に忙しい夫といっしょに住むことはないと悟っていたとスメドレーに説明していた。

後にこの妻は朱徳のもとに逃避行中に、国民党の軍隊に殺されてしまった。


最後は康克清と結婚し、建国後豊かな晩年をすごした。


スメドレーはこの本の中で何度か朱徳のことを男性的だったと語っていたが、結婚生活の語りを読み返すと、男性として誠実でノーマルな人物像が浮かび上がってくる。



[PR]
by far-east2040 | 2017-09-11 17:30 | 朱徳の半生

f0364260_14155323.jpg

中国が多言語国家であることに気づくまで、日本は日本語を母語にする人々の国であり、韓国は韓国語を母語にし、中国は中国語を母語にする人たちの国だと漠然と捉えていたように思う。


ところがアジアのことをいろいろ知るようになって、学校教育を受けた中国人は中国語とは別の地域ごとの言語を母語にしているバイリンガルであることを知って、英語コンプレックスを持っていたこともあって驚いたものだった。

他国では単なる方言にすぎないものを言語といってるのかな。

それと地域ごとの言語がどれほどの違いがあるのだろうか。

これは未だによくわからないままだ。


「日本語と沖縄の言葉を話せます」
「日本語と大阪の言葉がわかります。あと京都の言葉も少し」なんていう日本人はほとんどいないと思うので、単なる方言ではないことは理解している。

実際に中国で母語で話している人たちの会話は母語が違う人にはまったくわからないことは見聞で知っている。

やはり「日本語と英語が話せます」に等しい能力かな。


むかし接した中国人は中国語とは別にモンゴル語、朝鮮語、客家語、広東語、台湾語などを母語にしていた。

話したことのある中国系フィリピン人はフィリピン語とは別に福建語がわかるといっていた。
さすがに中国語は習得する機会はなかったと思うが、英語はできたはずだ。

インドも中国に似たような言語情況がある。


多少の違いはあっても同じアルファベットを使っているヨーロッパで考えてみれば、例えばドイツ人とスペイン人は互いの母語はまったくわからない。
フランス語と英語は別言語だ。

ヨーロッパと中国の領土はあまり変わらないように見えるので、中国で北方の言語と広東などの南方の言語が別言語と言われたら納得できそうだ。

中国は建国後本格的に中国語という標準語を教育を通じて普及させたので、中国人どおしの意思疎通は困らない。

ヨーロッパでもかつてのエスペラントという人工言語を普及させる運動があったけれど、無理な話でもなかったのかなとちょっと思う。


話を戻すと、日本と韓国のような少数の国を除けば、アジアで少なくとも大学教育を受けた人たちは言語に関しては複数の言語理解者だ。

英語を「ご主人さまの言語」と捉える時代はもうとっくに終わっている。


日本人が日本国内でバイリンガルになるのはほんとむずかしい。

因みに日本でバイリンガルを育てている教育機関はKoreanChineseの民族学校だと思う。

あとInternational Schoolも?

好き嫌いがあると思うが、言語習得の面だけを考えたら、ユニークな教育環境にある。


『偉大なる道』では朱徳は自らの言語環境についても語っていて、そこが多言語社会に生きる中国人らしいと思う。

朱徳の一族は何代も前に南部の広東から移住してきた人たちで客家だった。1886年生まれの朱徳は自分たちの親の世代までは広東で使っていた客家語を使っていたが、朱徳の世代になって客家語と四川の言葉を両方あやつれるようになったという。


1916年生まれの作家ハン・スーインも四川生まれだが、伝記の中で客家語は自分たちの親の世代あたりで使われなくなったと書いていた。
こういうことを語るところがなんとも中国らしい。


太平天国の乱の指導者や兵士たちは客家が多かったので、彼らの母語は客家語だった。

広東出身の孫逸仙や四川省出身の朱徳を始めとするトウ小平や陳毅など有名無名の建国の功労者たちの多くは客家語を母語とする人たちだった。

当然のことだが、湖南省出身の毛沢東は客家語で話されている会話はまったくわからなかったはずだ。

なお現在客家語の推定使用者は5500万人ほどらしく、客家を自称する人たちのおおよそ半分ぐらいになる。

広東など中国南部や台湾、海外の華僑たちの住む地域で残されていることが多いらしい。

あと香港で話されることが多い広東語も独特の世界観を持っている。


アジアの言語のことを考えていると、迷路にはまったような感じになるのでここで終える。


この本では、朱徳の言語に関して言文一致運動の影響についても少しふれている。
朱徳は科挙に合格した知識人として、中国の古典語である「文理」の読み書きができた。

1910年代あたりでこの「文理」を排除する言文一致運動が起こり、当時知識人であった若者の多くはこの影響を受けて、型にはまらないやさしい話し言葉を習得していった。


朱徳は四川省で挫折の日々をおくっていて、この流れに加わることができず、ずっと後になって「文理」に代わる新たな言語を努力して獲得したと書いてある。

このことは朱徳のコンプレックスの一つになっていたようだ。


一般的に中国人は異なる言語が混在する環境に慣れているような気がする。



[PR]
by far-east2040 | 2017-08-12 14:23 | 朱徳の半生

f0364260_13594795.png


数年前にハリウッドの女優アンジェリーナ・ジョリーの離婚に関するニュースの中で、彼女が実子以外にアジアの子どもを養子にしている事実を知ってちょっと驚いた。


もう数十年もむかし外国の空港の待合コーナーで、たまたまとなり合わせになったやさしそうな年配のご夫婦と雑談の後、一枚の写真を見せられたことがある。

アメリカの白人夫婦を取り囲むように子どもたちが立っていて、その中に明かに顔つきの違う子どもがひとり混じっていた。

その子を指差して、夫婦が韓国から迎えた養子だと自慢していたことを覚えている。

私の養子への感想を聞いて、ご夫人の方が悲しげな顔をして日本でも韓国でも外国の子どもを養子にすることがほとんどないと語っていたことが印象に残っている。


同じく数十年前に韓国に長く滞在していたカナダ人の宣教師夫妻と知り合いになり、実子以外に韓国から養子を迎えていることを知り、当時は奇異に感じたものだった。


養子であることの家族内の葛藤を描いたアメリカ映画を観たことがあるので、すべてうまくいくとは限らないだろうが、経済的な余裕だけで語れない、キリスト教に根ざした懐の深い文化の違いを強烈に感じてきた。


儒教文化圏だった東アジアでは養子に関する意識は違ってくる。


朱徳も養子であった。

朱徳の家は祖父母と息子たち夫婦とその子どもたちで構成されていた。


「すべての農民家族と同じく、朱家とは、飢餓からまぬがれるためのきびしい重労働を目的として組織された経済的単位であった。」


家長である祖父のしっかり者の妻が家の内外の労働の割り振り、経済的管理すべての采配を奮って一家をまとめていた。

儒教社会での女性の地位の低さがよく語られるが、働き者の息子をたくさん産み育て、いいところへ嫁にやれる娘を育てた女性はやがて家族から敬意を持って扱われることは、一昔前の韓国社会を垣間見て感じてきた。


一方で子を産めなかった女は儒教社会では生きづらかったことは想像できる。
必ずしも女側の原因ではないが、何年も妊娠しなかった場合、一方的に女のせいにして婚姻を破棄されることが多い社会だった。

ただし、子が産めない女の不幸は聖書にも出てくるし、西洋社会でも似たよなものだったと思う。


朱徳の伯父は長男で将来家長になると期待されていたが、子がいなかった。彼はそのことで妻を虐待することも追い払うこともしなかった。

そこで朱徳の両親である弟夫婦から三男である朱徳を固めの式によって養子にした。


「……一族は同じ屋根の下に住んでいるのだから、その新関係はすこしの変化ももたらさなかった。この養子縁組のおかげで、朱家の全息子のうちで彼ばかりが選ばれて、家を税吏その他の役人から守るために、教育を受けることになった。」


当時の社会ではこういう養子縁組は珍しいことではなかったはず。

むかし父方の一族の韓国の族譜(家系図のようなもの)を眺めていたとき、李氏朝鮮時代以前にこういう養子縁組の記載がよくあった。
不妊夫婦は3親等の甥から養子にしたようだ。


儒教社会で男系男子で一族を維持していこうと思えば、最後の切り札としてこういう身内の養子縁組で問題を解決することが必要だったということだ。

この場合も必ず一族からの養子であり、たとえば朱家にどこか別の○家からの男子を養子にすることは当時は考えられないことだったと思う。

姓が男系血縁集団を表現しているからだ。


韓国では再婚した女性の前夫の子が姓を変えることは可能らしいが、今でも子がない夫婦がまったくの他人を養子をすることは極めて珍しいというかほとんどないと思う。

封建社会を否定した現在の中国はどうかわからない。


朝鮮戦争後発生した多くの孤児が海外の養父母に送られたのも、韓国社会に経済的余裕がなかっただけでは説明できない。


日本は中国や韓国とはまた違っている。

家制度を守るために、息子がいない場合は婿養子という制度を利用して世代を繋ぐことがあって、これは日本独特だと思う。

血縁に拘らないから家長の男子は誰でもいいことになる。

ただし例外もある。

江戸時代の徳川家の家系図を見ると、正妻+αの女性のおかげで一応男系男子で繋いできている。天皇家もそうだ。婿養子を認めてきていないところが共通している。


あまり詳しくないし、話が混乱してきたので、朱徳の時代に戻る。

周恩来は革命途上で夫人が流産して以降、実子がなかった。

二人は孤児を何人か養子にして慰みを得てきたようだが、その一人は朱徳の雲南軍時代の親友でいっしょにフランス留学した孫炳文の娘だった。

孫は革命途上で国民党軍に捕まり殺されるまで、周恩来の近くにいた人だった。
周恩来の養女になったこの女性は女優志望というだけあって、目鼻立ちが整った美人でひときわ目立つ人だ。
ところがどんな理由があったのかわからないが、文化大革命時代に悲惨な境遇で若くして亡くなっている。


ハン・スーインも子を産まなかったので、国民党軍の将校と結婚していたときに身寄りのない女の子を養女にした。


男系男子の血縁にこだわる慣習(Y染色体への信仰)は確実に少なくなってきている。



[PR]
by far-east2040 | 2017-07-28 14:10 | 朱徳の半生

f0364260_12070802.jpg

この本は朱徳が、どのような時代背景の中で問題意識をもち、かつ数多くの挫折をくりかえしながら、共産主義者になっていく姿が描かれているところが一番の特徴だと思っている。


朱徳のファンだからといって個人的に、「共産主義万歳」「人類を救うのは私有財産制度を否定した共産主義以外ない」「資本主義の否定」「だから中国人はすばらしい!」「中国は偉大」などなど、よくわかっていないことを、声高に述べようと考えているわけではない。

しいて言えば、中国革命をもたらした人々の情熱、友情に魅力を感じているということだ。


朱徳たち紅軍や中国共産党が、江西省から出発し1万2500キロを徒歩で行軍し、北部にある延安にたどりつくまでの長征が完了したとき、作家の魯迅は中国共産党が無事に生き延びたことを喜び、「中国の未来はあなた方に託す」という内容を打電したという。


1916年生まれの作家ハン・スーインは革命前の中国で、皮と骨だけのやせて丸くなった苦力(クーリー)の背中、壁際に捨てられた新聞紙に包まれた赤ん坊の死体、工場で目が見えなくなるまで酷使された挙句に戸口に捨てられた少年の姿など、それまでに見てきた悲惨な情況を語り、「あの時代の中国を救えるのは中国共産党しかなかった」と率直にかたっていた。

ちなみに彼女は日本軍による重慶爆撃も現地で体験し、悲惨な情況を本に書き残している。
日本では映画『慕情』の主人公としてだけあまりにも有名になりすぎた感じがする。


革命のさなか、ハン・スーインの妹やベルギー出身の母親(この女性は結婚時にベルギーで中国国籍に変更している)は海外へのがれたが、義和団の乱後にベルギーで鉄道技術を学び、帰国後は鉄道技師として働いてきた父親は中国にのこった。


朱徳のもとで指揮官として活躍し、建国後は外務大臣までやった陳毅が、四川省にいた父親を訪問し、とどまって技術者として建国に協力してほしいと要請したという。

そういうわけで、彼女自身は建国後の中国に住むことはなかったが、何度も父親のもとを行き来し、文芸活動を通じて亡くなるまで中国を支援していた。


もし私があの時代を生きる人間として生まれていたら、魯迅やハン・スーインや多くの大衆のように、共産主義の方が人間らしい国家を目指していると判断できるそういう人間でありたいとは思っている。


蒋介石を代表とする国民党支持者たちは、中国の特権階級は古来悲惨な情況の人間の大多数の犠牲のもとで成り立ってきたので、今さら変えようがない、仕方がないと考えていたようだ。

だから圧倒的多数の自国民の犠牲で成り立つ近代国家を目指した。

朱徳たちは、国民の80パーセントを占める農民や労働者を圧迫してきた封建制を否定し、彼らを納得させる国家理念を提示することなしに、中国は外国勢力を排除した独立国家になりえないととらえて、ねばり強くたたかってきたのだ。

それが当時は西洋から導入された共産主義やマルクス・レーニン主義だったというわけで、それが別のXイデオロギーだったとしてかまわなかったように見える。


『偉大なる道』では、19世紀に起こった太平天国の乱をブルジョア民主主義革命の起点ととらえて、それから64年後になって朱徳や毛沢東が創建した紅軍が、この太平革命を熱心に研究して、法や戦術を多く学び、同じ過失を繰り返さないことを決意したことが一貫して語られている。

そして文字を知らない農民たちを含めて民衆は、負けた英雄たちの物語を心の中にきざんできた。


一方、ハン・スーインも自伝の中で太平天国の乱を勝者の側から詳しく語っている。

彼女の父方の祖母は、太平天国の乱を制圧した清朝側についた有名な曽国藩の幕下で親友だった人の娘だった。

自伝を書くために集めた文字で書かれた祖先の英雄伝は多数あり、太平天国の指揮官や兵士は謀反を起こした犯罪者として描かれていた。

そこで彼女は自分の先祖は間違った選択をしたとしみじみ振りかえる。


私は太平天国の乱は世界史の授業で言葉を知ったぐらいだったので、中国ではすごく大事な歴史的な出来事だったと知り、感慨深いものがあった。

学校でよくわからないまま記憶してきた歴史用語に実態をともなった感じだった。
歴史を学ぶためには時間がかかる。


太平天国の乱が中国の国土を耕し、そこへ孫逸仙が同志とともに種をまき、苗を踏まれてもあきらめずにまき続け、やがて朱徳たち紅軍も種をまきながら、こぼれ種から育った苗を含めて大きく育てていき、ついに独立国家を建設したというふうに考えると私の頭の中はかなりすっきりしてくる。


朱徳は中国共産党は数千年の歴史をもつ中国文化の最良の伝統、つまり勤勉と忍耐と学問に対する尊敬を受け継いだと語っている。

さらに大革命と土地革命と抗日戦争の経験を積み重ね、内容的に成長していくなかで、共産党はマルクス・レーニン主義を中国化し、われわれの歴史的遺産を中国社会の当面の必要に適合させたと述べていた。


中国革命の勝因と強さは、この朱徳の言葉で言い尽くされていると思う。


建国後の中国の政治のことはあまり詳しくないが、国土がヨーロッパ全土ぐらいあり、香港、台湾や少数民族の問題、都市と農村部との格差など、中国を治めていくことのむずかしさを外野からながめて感じている。

政治は綺麗事ではないので、裏側は想像以上にどろどろしているのだろう。

中国は領土も人口も桁違いの国なので、問題がそんなに簡単に解決されるはずがない。


ただ、何世紀も続いた封建主義をとりはらい、外国勢力に侵略されない独立国家を苦難の歴史をへて、いったんは創ったという経験が、今流行りの言葉でいえば「すごい」と思っている。



[PR]
by far-east2040 | 2017-07-08 12:17 | 朱徳の半生

f0364260_23135831.jpg

客家(ハッカ)いう言葉はアジア図書館に勤めていた頃初めて聞いた。
それ以来何だろうとずっと気にはなっていた。
どうやら中国の歴史において被差別者集団として扱われた時期があったらしいと知ってなおさらだった。


台湾人の女性留学生が「私も客家です」といっていたのが耳に残っていて、こういう風に表現するんだわなんて思ったものだ。

このいい方から、彼女は台湾人だけれども、実は大陸にルーツがあり客家語が母語かも知れないことがわかる。


四川省で生まれた作家ハン・スーインの一族も客家だった。

彼女は読書人階級だったおかげで文字で残されていた一族の膨大な資料を読み込んで、客家とはどういう集団であるかを自伝の中でかなりのページを割いて説明していた。

こういう試みは彼女だけではなくて、アジア図書館には客家について書かれた日本語中国語の本が一つのコーナーができるぐらい数多く所蔵されていた。


同じ漢民族ではあるが、集団で中国国内を大移動してきた人たちといわれている。

中原呼ばれた古代王朝の中心地である黄河中流周辺地域から、自然災害や戦乱に追われて南方に移ったと伝えられ、主に広東、福建、江西省の境界の山岳地に住んだといわれている。

中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類されていて、最初が秦の時代といわれているので紀元前となる。

ハン・スーインの自伝では、確かイングランドかスコットランドぐらいの土地の面積からの人口移動になるという。

中国らしいスケールの大きさを感じる。

しかも現在客家を自称する人は1億を越えるだろうというから、一つの国と考えてもよさそうだ。


客家の人々はその土地においてよそ者なので、当然周辺に住む他の集団とは異なり、山間部に好んでというか仕方なく居住することが多く、独特の言語・文化を保ってきた。

客家の典型的な住居は何家族も一緒に住む丸い家で観光地になっていることがある。

なぜ丸いかといえば、外部から攻撃してくる者の侵入を防ぎやすいからだ。


さらに何世紀も経て広東、福建、江西省にいったん定着した集団から内陸部の四川省に移動する人たちが出てきた。

ハン・スーインの一族で最初に四川省に来た先祖は貧しい塩の行商人だったが、世代を重ねていく間に富を蓄え学問を身につけていって、やがて読書人階級を形成するまでになったという。

四川省出身の政治家トウ小平や朱徳の配下にいた陳毅も似たような階級形成の歴史を持つ一族と思われる。


朱徳の一族も広東省に本家がある客家なので、次のように『偉大なる道』には書かれている。


「……彼らは他地方から移住してきたのであり、まだ八代と経ってはおらず、従ってはえぬきの人または郷土創建の家系ーーと見られる権利は獲得していなかった。朱の族の最初の一団は、白蓮教の大叛乱の直後、つまり18世紀の末から19世紀の初めかに、はるか南の広東省からやってきた。その叛乱と満州朝による制圧とが、この地方の人口を稀薄にしたので、広東や広西の貧農たちが流れこんできて……」


朱徳の家族は80年も四川に住んでいたが、まだ広東語を使い、広東の習俗を保っていて、朱徳の代になって広東と四川の二つの方言を話せるようになったという。
朱徳はここでは広東語といっているが、これは厳密にいえば客家語のことだと思っている。


先祖がかつて移動してきてよそ者として苦労した経験から、外の世界に目を向ける子孫が生まれたと考えるのは自然なことで、華僑の中で客家が占める割合が多いのもうなづける。

世の中の不正義に対して敏感であることや勤勉であることも客家の特質として語られる。

海外で商いで成功した者が出てくるのも当然だ。


有名な太平天国の乱の洪秀全や石達開など指導者や兵士にも客家が多かった。

孫逸仙もそうだし、朱徳の参謀長だった葉剣英も広東の豪商出身で客家だった。

その他中国革命に関わった有名無名の客家出身の人材はたくさんいて、毛沢東も客家について論文を書いている。

革命途上で客家の特異性について考察せざるを得ない情況を見てきたのだと思う。

客家の歴史への興味は尽きない。



[PR]
by far-east2040 | 2017-06-30 23:34 | 朱徳の半生

f0364260_07553008.jpg

この本は朱徳の波乱万丈の半生記だけでなく、封建社会での農民の暮らしが細かい所まで書かれている。

作家ハン・スーインは朱徳と同じ四川省の生まれだが、何代も前から読書人階級として暮らしてきた名門出身なので、自伝では特権階級の暮らしぶりが書かれている所が興味深かった。

それに比べると、朱徳の生まれた家の暮らしのつつましさには驚くことが多かった。


この本は中国だけでなく東アジアの封建社会での民衆の習俗を考える材料も提供してくれた感じがする。


たとえば、男子の名前について考えてみると……。


現在の韓国では、一族の男子の世代ごとに行列字を設定して名前の一字に使い、どの世代に属する人間かわかるようにする慣習を残していることが少なくない。


韓国の前大統領朴槿恵氏の父親の元大統領朴正煕の名前は煕という漢字が行列字だと思っている。
朴正煕の同じ派に属する一族で従兄弟を含めた横広がりの同世代の男子は朴○煕という名前になっていることがほとんどというか多いはずだ。

これは現在名目上だけになっているかも知れないし、必ずしも保持されている一族が日本語の「名門」と考えるものではないと思っている。


作家ハン・スーインの生まれた家は何代も前から商売に成功し、息子たちは学問を身に付け、一族のものは労働をする必要がなかった。

使用人をたくさん雇い、女たちも日中から集まって麻雀をするなど家事労働を一切しなくても生活はまわっていく家だった。


この作家の自伝を読んでいたときに、韓国の行列字に相当するものが書かれている箇所があり感動した覚えがある。

韓国での行列字に相当するものを中国では輩字と呼ぶらしい。別の呼び方もあるかも知れない。

当然これは中国大陸から朝鮮半島に伝わったものだろう。

ハン・スーインは一族を語るときに、曽祖父の世代から父親の世代の輩字について必要な情報として何のてらいもなく紹介していた。


個人的に韓国の行列字は身近に感じて調べたことがあるので、「あ、一緒だわ」なんて思いながらこのあたりはすーっと入っていけた。

ハン・スーインの家が特権階級なので、輩字や行列字を保持してきた一族は名門であることの条件の一つかなと密かに思ったものだった。


ところが、『偉大なる道』では朱徳も祖父や父や自分の輩字を名前に関する必要な情報としてさりげなく語っていた。

具体的には朱徳の長兄の名前はタイ・リーで、次兄はタイ・フォンそして朱徳はタイ・チェンで、タイが輩字で従兄弟たちも同じようにタイがつくはずだ。

ただ朱徳の家は貧農で、字が読めた人は一族にいなかったので、この輩字の情報は音と意味だけで伝承されてきたと思われる。


何代にもわたって重労働の農作業を繰り返してきて、誰ひとり文字も読めなかった朱徳の一族にも先祖代々輩字が伝わっていることが意外だった。


私の見識では、こういう慣習は日本にはまったくない。
男系の血縁集団を表す姓と家の名前になる苗字との違いも関連してるのかな。他の東アジアのように姓が一般に普及しなかったのが不思議だし、日本の独自性だと思う。


現在の中国では輩字を使用する慣習はまったくないはず。

『偉大なる道』に書かれているように、封建社会を一変させる大嵐のような出来事がすべてをひっくり返したからだ。

朱徳も息子の名前を名付けるときまったく輩字から自由だったように読み取れた。


北朝鮮についてはわからないが、韓国ではまだこの行列字を保持する集団は存在する。少子化、男女同権意識、キリスト教思想の普及などの外因で薄れてきてはいると思うが、社会の根底から払拭しようという動機がなかったからだと思う。


別に行列字があっても不都合はないし、一族にあっては優雅で誇り高い気分をもたらしてくれるものだが、女性は排除されているので、遅かれ早かれ時代の遺物になっていくことは間違いない。

おそらく発祥の地であった中国ではほとんど廃れたものが、韓国社会ではまだ生きているという構造になっている。


それと、建国前の中国では、姓は男系を表しているので神聖なもので不変だが、名前に関してはそうではないようだ。

幼い時の名前とは別に、学校に入学したときとか科挙に合格したときなど、人生の節目に心機一転を期して名前を変えてきたような記述が目に付く。
日本でいう戸籍名のような「本当の名前」という意識はあったのかな? 
実際、朱徳という名前も軍官学校に入学したときに自分でつけた名前だ!

科挙に合格したときは恩師につけてもらっている。


孫文も孫逸仙とか孫中山とかいろいろあって、私から見ればややこしい。


そういう伝統があるから、香港を始め、中国の都市部に住む若者が西洋の名前も持つことが多いし抵抗もないのかな。

日本でいうニックネームやネット上のハンドルネームとは違う独特の格式を持っている感じがする。


見識不足で断定できないが、こういう節目に名前を変えることも封建社会の名残なので、現代の中国にはないと思っている。韓国にもないと思う。

過去を清算したいという動機以外、現代社会で名前を変えることに利点はないと思う。


でも、ひょっとしたら、生涯にわたって本名は一字たりとも不変と捉えていることは世界的には少数かも知れないとも思ったりしている。
混乱してきた。




[PR]
by far-east2040 | 2017-06-28 08:10 | 朱徳の半生