f0364260_14155323.jpg

中国が多言語国家であることに気づくまで、日本は日本語を母語にする人々の国であり、韓国は韓国語を母語にし、中国は中国語を母語にする人たちの国だと漠然と捉えていたように思う。


ところがアジアのことをいろいろ知るようになって、学校教育を受けた中国人は中国語とは別の地域ごとの言語を母語にしているバイリンガルであることを知って、英語コンプレックスを持っていたこともあって驚いたものだった。

他国では単なる方言にすぎないものを言語といってるのかな。

それと地域ごとの言語がどれほどの違いがあるのだろうか。

これは未だによくわからないままだ。


「日本語と沖縄の言葉を話せます」
「日本語と大阪の言葉がわかります。あと京都の言葉も少し」なんていう日本人はほとんどいないと思うので、単なる方言ではないことは理解している。

実際に中国で母語で話している人たちの会話は母語が違う人にはまったくわからないことは見聞で知っている。

やはり「日本語と英語が話せます」に等しい能力かな。


むかし接した中国人は中国語とは別にモンゴル語、朝鮮語、客家語、広東語、台湾語などを母語にしていた。

話したことのある中国系フィリピン人はフィリピン語とは別に福建語がわかるといっていた。
さすがに中国語は習得する機会はなかったと思うが、英語はできたはずだ。

インドも中国に似たような言語情況がある。


多少の違いはあっても同じアルファベットを使っているヨーロッパで考えてみれば、例えばドイツ人とスペイン人は互いの母語はまったくわからない。
フランス語と英語は別言語だ。

ヨーロッパと中国の領土はあまり変わらないように見えるので、中国で北方の言語と広東などの南方の言語が別言語と言われたら納得できそうだ。

中国は建国後本格的に中国語という標準語を教育を通じて普及させたので、中国人どうしの意思疎通は困らない。

ヨーロッパでもかつてのエスペラントという人工言語を普及させる運動があったけれど、無理な話でもなかったのかなとちょっと思う。


話を戻すと、日本と韓国のような少数の国を除けば、アジアで少なくとも大学教育を受けた人たちは言語に関しては複数の言語理解者だ。

英語を「ご主人さまの言語」と捉える時代はもうとっくに終わっている。


日本人が日本国内でバイリンガルになるのはほんとむずかしい。

因みに日本でバイリンガルを育てている教育機関はKoreanChineseの民族学校だと思う。

あとInternational Schoolも?

好き嫌いがあると思うが、言語習得の面だけを考えたら、ユニークな教育環境にある。


『偉大なる道』では朱徳は自らの言語環境についても語っていて、そこが多言語社会に生きる中国人らしいと思う。

朱徳の一族は何代も前に南部の広東から移住してきた人たちで客家だった。1886年生まれの朱徳は自分たちの親の世代までは広東で使っていた客家語を使っていたが、朱徳の世代になって客家語と四川の言葉を両方あやつれるようになったという。


1916年生まれの作家ハン・スーインも四川生まれだが、伝記の中で客家語は自分たちの親の世代あたりで使われなくなったと書いていた。
こういうことを語るところがなんとも中国らしい。


太平天国の乱の指導者や兵士たちは客家が多かったので、彼らの母語は客家語だった。

広東出身の孫逸仙や四川省出身の朱徳を始めとするトウ小平や陳毅など有名無名の建国の功労者たちの多くは客家語を母語とする人たちだった。

当然のことだが、湖南省出身の毛沢東は客家語で話されている会話はまったくわからなかったはずだ。

なお現在客家語の推定使用者は5500万人ほどらしく、客家を自称する人たちのおおよそ半分ぐらいになる。

広東など中国南部や台湾、海外の華僑たちの住む地域で残されていることが多いらしい。

あと香港で話されることが多い広東語も独特の世界観を持っている。


アジアの言語のことを考えていると、迷路にはまったような感じになるのでここで終える。


この本では、朱徳の言語に関して言文一致運動の影響についても少しふれている。
朱徳は科挙に合格した知識人として、中国の古典語である「文理」の読み書きができた。

1910年代あたりでこの「文理」を排除する言文一致運動が起こり、当時知識人であった若者の多くはこの影響を受けて、型にはまらないやさしい話し言葉を習得していった。


朱徳は四川省で挫折の日々をおくっていて、この流れに加わることができず、ずっと後になって「文理」に代わる新たな言語を努力して獲得したと書いてある。

このことは朱徳のコンプレックスの一つになっていたようだ。


一般的に中国人は異なる言語が混在する環境に慣れているような気がする。



[PR]
by far-east2040 | 2017-08-12 14:23 | 朱徳の半生

f0364260_13594795.png


数年前にハリウッドの女優アンジェリーナ・ジョリーの離婚に関するニュースの中で、彼女が実子以外にアジアの子どもを養子にしている事実を知ってちょっと驚いた。


もう数十年もむかし外国の空港の待合コーナーで、たまたまとなり合わせになったやさしそうな年配のご夫婦と雑談の後、一枚の写真を見せられたことがある。

アメリカの白人夫婦を取り囲むように子どもたちが立っていて、その中に明かに顔つきの違う子どもがひとり混じっていた。

その子を指差して、夫婦が韓国から迎えた養子だと自慢していたことを覚えている。

私の養子への感想を聞いて、ご夫人の方が悲しげな顔をして日本でも韓国でも外国の子どもを養子にすることがほとんどないと語っていたことが印象に残っている。


同じく数十年前に韓国に長く滞在していたカナダ人の宣教師夫妻と知り合いになり、実子以外に韓国から養子を迎えていることを知り、当時は奇異に感じたものだった。


養子であることの家族内の葛藤を描いたアメリカ映画を観たことがあるので、すべてうまくいくとは限らないだろうが、経済的な余裕だけで語れない、キリスト教に根ざした懐の深い文化の違いを強烈に感じてきた。


儒教文化圏だった東アジアでは養子に関する意識は違ってくる。


朱徳も養子であった。

朱徳の家は祖父母と息子たち夫婦とその子どもたちで構成されていた。


「すべての農民家族と同じく、朱家とは、飢餓からまぬがれるためのきびしい重労働を目的として組織された経済的単位であった。」


家長である祖父のしっかり者の妻が家の内外の労働の割り振り、経済的管理すべての采配を奮って一家をまとめていた。

儒教社会での女性の地位の低さがよく語られるが、働き者の息子をたくさん産み育て、いいところへ嫁にやれる娘を育てた女性はやがて家族から敬意を持って扱われることは、一昔前の韓国社会を垣間見て感じてきた。


一方で子を産めなかった女は儒教社会では生きづらかったことは想像できる。
必ずしも女側の原因ではないが、何年も妊娠しなかった場合、一方的に女のせいにして婚姻を破棄されることが多い社会だった。

ただし、子が産めない女の不幸は聖書にも出てくるし、西洋社会でも似たよなものだったと思う。


朱徳の伯父は長男で将来家長になると期待されていたが、子がいなかった。彼はそのことで妻を虐待することも追い払うこともしなかった。

そこで朱徳の両親である弟夫婦から三男である朱徳を固めの式によって養子にした。


「……一族は同じ屋根の下に住んでいるのだから、その新関係はすこしの変化ももたらさなかった。この養子縁組のおかげで、朱家の全息子のうちで彼ばかりが選ばれて、家を税吏その他の役人から守るために、教育を受けることになった。」


当時の社会ではこういう養子縁組は珍しいことではなかったはず。

むかし父方の一族の韓国の族譜(家系図のようなもの)を眺めていたとき、李氏朝鮮時代以前にこういう養子縁組の記載がよくあった。
不妊夫婦は3親等の甥から養子にしたようだ。


儒教社会で男系男子で一族を維持していこうと思えば、最後の切り札としてこういう身内の養子縁組で問題を解決することが必要だったということだ。

この場合も必ず一族からの養子であり、たとえば朱家にどこか別の○家からの男子を養子にすることは当時は考えられないことだったと思う。

姓が男系血縁集団を表現しているからだ。


韓国では再婚した女性の前夫の子が姓を変えることは可能らしいが、今でも子がない夫婦がまったくの他人を養子をすることは極めて珍しいというかほとんどないと思う。

封建社会を否定した現在の中国はどうかわからない。


朝鮮戦争後発生した多くの孤児が海外の養父母に送られたのも、韓国社会に経済的余裕がなかっただけでは説明できない。


日本は中国や韓国とはまた違っている。

家制度を守るために、息子がいない場合は婿養子という制度を利用して世代を繋ぐことがあって、これは日本独特だと思う。

血縁に拘らないから家長の男子は誰でもいいことになる。

ただし例外もある。

江戸時代の徳川家の家系図を見ると、正妻+αの女性のおかげで一応男系男子で繋いできている。天皇家もそうだ。婿養子を認めてきていないところが共通している。


あまり詳しくないし、話が混乱してきたので、朱徳の時代に戻る。

周恩来は革命途上で夫人が流産して以降、実子がなかった。

二人は孤児を何人か養子にして慰みを得てきたようだが、その一人は朱徳の雲南軍時代の親友でいっしょにフランス留学した孫炳文の娘だった。

孫は革命途上で国民党軍に捕まり殺されるまで、周恩来の近くにいた人だった。
周恩来の養女になったこの女性は女優志望というだけあって、目鼻立ちが整った美人でひときわ目立つ人だ。
ところがどんな理由があったのかわからないが、文化大革命時代に悲惨な境遇で若くして亡くなっている。


ハン・スーインも子を産まなかったので、国民党軍の将校と結婚していたときに身寄りのない女の子を養女にした。


男系男子の血縁にこだわる慣習(Y染色体への信仰)は確実に少なくなってきている。



[PR]
by far-east2040 | 2017-07-28 14:10 | 朱徳の半生

f0364260_12070802.jpg

この本は朱徳が、どのような時代背景の中で問題意識を持ち、なおかつ挫折を繰り返しながら共産主義者になっていったかが描かれている点が一番の特徴だと思っている。


朱徳のファンだからといって個人的に、「共産主義万歳」「人類を救うのは私有財産制度を否定した共産主義以外ない」「資本主義の否定」「だから中国人はすばらしい!」「中国は偉大」などなどよくわかっていないことを声高に述べようと考えているわけではない。

強いていえば、中国革命をもたらした人々の情熱、友情に魅力を感じているということだ。


朱徳たち紅軍や中国共産党が江西省から出発し1万2500キロを徒歩で行軍し、北部にある延安にたどりつくまでの長征が完了したとき、作家の魯迅は中国共産党が無事に生き延びたことを喜び「中国の未来はあなた方に託す」という内容を打電したという。


1916年生まれの作家ハン・スーインは革命前の中国で、皮と骨だけの痩せて丸くなった苦力(クーリー)の背中、壁際に捨てられた新聞紙に包まれた赤ん坊の死体、工場で目が見えなくなるまで酷使された挙句に戸口に捨てられた少年の姿などそれまでに見てきた悲惨な情況を語り、「あの時代の中国を救えるのは中国共産党しかなかった」と率直に語っていた。

因みに彼女は日本軍による重慶爆撃も現地で体験し、悲惨な情況を本に書き残している。
日本では映画『慕情』の主人公としてだけあまりにも有名になりすぎた感じがする。


革命の最中ハン・スーインの妹やベルギー出身の母親(この女性は結婚時にベルギーで中国国籍に変更している)は海外へ逃れたが、義和団の乱後にベルギーで鉄道技術を学び、帰国後は鉄道技師として働いてきた父親は中国に残った。


朱徳のもとで指揮官として活躍し、建国後は外務大臣までやった陳毅が四川省にいた父親を訪問し、留まって技術者として建国に協力してほしいと要請したという。

そういうわけで、彼女自身は建国後の中国に住むことはなかったが、何度も父親のもとを行き来し、文芸活動を通じて亡くなるまで中国を支援していた。


もし私があの時代を生きる人間として生まれていたら、魯迅やハン・スーインや多くの大衆のように共産主義の方が人間らしい国家を目指していると判断できるそういう人間でありたいとは思っている。


蒋介石を代表とする国民党支持者たちは、中国の特権階級は古来悲惨な情況の人間の大多数の犠牲のもとで成り立ってきたので、今更変えようがない仕方がないと考えていたようだ。

だから圧倒的多数の自国民の犠牲で成り立つ近代国家を目指した。

朱徳たちは国民の80パーセントを占める農民や労働者を圧迫してきた封建制を否定し、彼らを納得させる国家理念を提示することなしに中国は外国勢力を排除した独立国家になりえないと捉えて、粘り強く戦ってきたのだ。

それが当時は西洋から導入された共産主義やマルクス・レーニン主義だったというわけで、それが別のXイデオロギーだったとしてかまわなかったように見える。


『偉大なる道』では、19世紀に起こった太平天国の乱をブルジョア民主主義革命の起点と捉えて、それから64年後になって朱徳や毛沢東が創建した紅軍がこの太平革命を熱心に研究して、法や戦術を多く学び、同じ過失を繰り返さないことを決意したことが一貫して語られている。

そして文字を知らない農民たちを含めて民衆は、負けた英雄たちの物語を記憶するまで心の中に刻んできた。


一方ハン・スーインも自伝の中で太平天国の乱を勝者の側から詳しく語っている。

彼女の父方の祖母は太平天国の乱を制圧した清朝側についた有名な曽国藩の幕下で親友だった人の娘だった。

自伝を書くために集めた文字で書かれた祖先の英雄伝は多数あり、太平天国の指揮官や兵士は謀反を起こした犯罪者として描かれていた。

そこで彼女は自分の先祖は間違った選択をしたとしみじみ振り返る。


私は太平天国の乱は世界史で言葉を知ったぐらいであまり知らなかったので、中国ではすごく大事な出来事だったと感慨深いものがあった。

学校でよくわからないまま記憶してきた歴史用語に実態をともなった感じだった。
歴史を学ぶためには時間がかかる。


太平天国の乱が中国の国土を耕し、そこへ孫逸仙が同志とともに種をまき、苗を踏まれても諦めずにまき続け、やがて朱徳たち紅軍も種をまきながら、こぼれ種から育った苗を含めて大きく育てていき、ついに独立国家を建設したというふうに考えると私の頭の中はかなりすっきりしてくる。


朱徳は中国共産党は数千年の歴史をもつ中国文化の最良の伝統、つまり勤勉と忍耐と学問に対する尊敬を受け継いだと語っている。

さらに大革命と土地革命と抗日戦争の経験を積み重ね内容的に成長していく中で、共産党はマルクス・レーニン主義を中国化し、われわれの歴史的遺産を中国社会の当面の必要に適合させたと述べていた。


中国革命の勝因と強さはこの朱徳の言葉で言い尽くされていると思う。


建国後の中国の政治のことはあまり詳しくないが、国土がヨーロッパ全土ぐらいあり、香港、台湾や少数民族の問題、都市と農村部との格差など中国を治めていくことのむずかしさを外野から眺めて感じている。

政治は綺麗事ではないので、裏側は想像以上にどろどろしているのだろう。

中国は領土も人口も桁違いの国なので、問題がそんなに簡単に解決されるはずがない。


ただ何世紀も続いた封建主義を取り払い、外国勢力に侵略されない独立国家を苦難の歴史を経て一旦は創ったという経験が、今流行りの言葉でいえば「凄い」と思っている。



[PR]
by far-east2040 | 2017-07-08 12:17 | 朱徳の半生

f0364260_23135831.jpg

客家(ハッカ)いう言葉はアジア図書館に勤めていた頃初めて聞いた。
それ以来何だろうとずっと気にはなっていた。
どうやら中国の歴史において被差別者集団として扱われた時期があったらしいと知ってなおさらだった。


台湾人の女性留学生が「私も客家です」といっていたのが耳に残っていて、こういう風に表現するんだわなんて思ったものだ。

このいい方から、彼女は台湾人だけれども、実は大陸にルーツがあり客家語が母語かも知れないことがわかる。


四川省で生まれた作家ハン・スーインの一族も客家だった。

彼女は読書人階級だったおかげで文字で残されていた一族の膨大な資料を読み込んで、客家とはどういう集団であるかを自伝の中でかなりのページを割いて説明していた。

こういう試みは彼女だけではなくて、アジア図書館には客家について書かれた日本語中国語の本が一つのコーナーができるぐらい数多く所蔵されていた。


同じ漢民族ではあるが、集団で中国国内を大移動してきた人たちといわれている。

中原呼ばれた古代王朝の中心地である黄河中流周辺地域から、自然災害や戦乱に追われて南方に移ったと伝えられ、主に広東、福建、江西省の境界の山岳地に住んだといわれている。

中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類されていて、最初が秦の時代といわれているので紀元前となる。

ハン・スーインの自伝では、確かイングランドかスコットランドぐらいの土地の面積からの人口移動になるという。

中国らしいスケールの大きさを感じる。

しかも現在客家を自称する人は1億を越えるだろうというから、一つの国と考えてもよさそうだ。


客家の人々はその土地においてよそ者なので、当然周辺に住む他の集団とは異なり、山間部に好んでというか仕方なく居住することが多く、独特の言語・文化を保ってきた。

客家の典型的な住居は何家族も一緒に住む丸い家で観光地になっていることがある。

なぜ丸いかといえば、外部から攻撃してくる者の侵入を防ぎやすいからだ。


さらに何世紀も経て広東、福建、江西省にいったん定着した集団から内陸部の四川省に移動する人たちが出てきた。

ハン・スーインの一族で最初に四川省に来た先祖は貧しい塩の行商人だったが、世代を重ねていく間に富を蓄え学問を身につけていって、やがて読書人階級を形成するまでになったという。

四川省出身の政治家トウ小平や朱徳の配下にいた陳毅も似たような階級形成の歴史を持つ一族と思われる。


朱徳の一族も広東省に本家がある客家なので、次のように『偉大なる道』には書かれている。


「……彼らは他地方から移住してきたのであり、まだ八代と経ってはおらず、従ってはえぬきの人または郷土創建の家系ーーと見られる権利は獲得していなかった。朱の族の最初の一団は、白蓮教の大叛乱の直後、つまり18世紀の末から19世紀の初めかに、はるか南の広東省からやってきた。その叛乱と満州朝による制圧とが、この地方の人口を稀薄にしたので、広東や広西の貧農たちが流れこんできて……」


朱徳の家族は80年も四川に住んでいたが、まだ広東語を使い、広東の習俗を保っていて、朱徳の代になって広東と四川の二つの方言を話せるようになったという。
朱徳はここでは広東語といっているが、これは厳密にいえば客家語のことだと思っている。


先祖がかつて移動してきてよそ者として苦労した経験から外の世界に目を向ける子孫が生まれたと考えるのは自然なことで、華僑の中で客家が占める割合が多いのもうなづける。

世の中の不正義に対して敏感であることや勤勉であることも客家の特質として語られる。

海外で商いで成功した者が出てくるのも当然だ。


有名な太平天国の乱の洪秀全や石達開など指導者や兵士にも客家が多かった。

孫逸仙もそうだし、朱徳の参謀長だった葉剣英も広東の豪商出身で客家だった。

その他中国革命に関わった有名無名の客家出身の人材はたくさんいて、毛沢東も客家について論文を書いている。

革命途上で客家の特異性について考察せざるを得ない情況を見てきたのだと思う。

客家の歴史への興味は尽きない。



[PR]
by far-east2040 | 2017-06-30 23:34 | 朱徳の半生

f0364260_07553008.jpg

この本は朱徳の波乱万丈の半生記だけでなく、封建社会での農民の暮らしが細かい所まで書かれている。

作家ハン・スーインは朱徳と同じ四川省の生まれだが、何代も前から読書人階級として暮らしてきた名門出身なので、自伝では特権階級の暮らしぶりが書かれている所が興味深かった。

それに比べると、朱徳の生まれた家の暮らしのつつましさには驚くことが多かった。


この本は中国だけでなく東アジアの封建社会での民衆の習俗を考える材料も提供してくれた感じがする。


たとえば、男子の名前について考えてみると……。


現在の韓国では、一族の男子の世代ごとに行列字を設定して名前の一字に使い、どの世代に属する人間かわかるようにする慣習を残していることが少なくない。


韓国の前大統領朴槿恵氏の父親の元大統領朴正煕の名前は煕という漢字が行列字だと思っている。
朴正煕の同じ派に属する一族で従兄弟を含めた横広がりの同世代の男子は朴○煕という名前になっていることがほとんどというか多いはずだ。

これは現在名目上だけになっているかも知れないし、必ずしも保持されている一族が日本語の「名門」と考えるものではないと思っている。


作家ハン・スーインの生まれた家は何代も前から商売に成功し、息子たちは学問を身に付け、一族のものは労働をする必要がなかった。

使用人をたくさん雇い、女たちも日中から集まって麻雀をするなど家事労働を一切しなくても生活はまわっていく家だった。


この作家の自伝を読んでいたときに、韓国の行列字に相当するものが書かれている箇所があり感動した覚えがある。

韓国での行列字に相当するものを中国では輩字と呼ぶらしい。別の呼び方もあるかも知れない。

当然これは中国大陸から朝鮮半島に伝わったものだろう。

ハン・スーインは一族を語るときに、曽祖父の世代から父親の世代の輩字について必要な情報として何のてらいもなく紹介していた。


個人的に韓国の行列字は身近に感じて調べたことがあるので、「あ、一緒だわ」なんて思いながらこのあたりはすーっと入っていけた。

ハン・スーインの家が特権階級なので、輩字や行列字を保持してきた一族は名門であることの条件の一つかなと密かに思ったものだった。


ところが、『偉大なる道』では朱徳も祖父や父や自分の輩字を名前に関する必要な情報としてさりげなく語っていた。

具体的には朱徳の長兄の名前はタイ・リーで、次兄はタイ・フォンそして朱徳はタイ・チェンで、タイが輩字で従兄弟たちも同じようにタイがつくはずだ。

ただ朱徳の家は貧農で、字が読めた人は一族にいなかったので、この輩字の情報は音と意味だけで伝承されてきたと思われる。


何代にもわたって重労働の農作業を繰り返してきて、誰ひとり文字も読めなかった朱徳の一族にも先祖代々輩字が伝わっていることが意外だった。


私の見識では、こういう慣習は日本にはまったくない。
男系の血縁集団を表す姓と家の名前になる苗字との違いも関連してるのかな。他の東アジアのように姓が一般に普及しなかったのが不思議だし、日本の独自性だと思う。


現在の中国では輩字を使用する慣習はまったくないはず。

『偉大なる道』に書かれているように、封建社会を一変させる大嵐のような出来事がすべてをひっくり返したからだ。

朱徳も息子の名前を名付けるときまったく輩字から自由だったように読み取れた。


北朝鮮についてはわからないが、韓国ではまだこの行列字を保持する集団は存在する。少子化、男女同権意識、キリスト教思想の普及などの外因で薄れてきてはいると思うが、社会の根底から払拭しようという動機がなかったからだと思う。


別に行列字があっても不都合はないし、一族にあっては優雅で誇り高い気分をもたらしてくれるものだが、女性は排除されているので、遅かれ早かれ時代の遺物になっていくことは間違いない。

おそらく発祥の地であった中国ではほとんど廃れたものが、韓国社会ではまだ生きているという構造になっている。


それと、建国前の中国では、姓は男系を表しているので神聖なもので不変だが、名前に関してはそうではないようだ。

幼い時の名前とは別に、学校に入学したときとか科挙に合格したときなど、人生の節目に心機一転を期して名前を変えてきたような記述が目に付く。
日本でいう戸籍名のような「本当の名前」という意識はあったのかな? 
実際、朱徳という名前も軍官学校に入学したときに自分でつけた名前だ!

科挙に合格したときは恩師につけてもらっている。


孫文も孫逸仙とか孫中山とかいろいろあって、私から見ればややこしい。


そういう伝統があるから、香港を始め、中国の都市部に住む若者が西洋の名前も持つことが多いし抵抗もないのかな。

日本でいうニックネームやネット上のハンドルネームとは違う独特の格式を持っている感じがする。


見識不足で断定できないが、こういう節目に名前を変えることも封建社会の名残なので、現代の中国にはないと思っている。韓国にもないと思う。

過去を清算したいという動機以外、現代社会で名前を変えることに利点はないと思う。


でも、ひょっとしたら、生涯にわたって本名は一字たりとも不変と捉えていることは世界的には少数かも知れないとも思ったりしている。
混乱してきた。




[PR]
by far-east2040 | 2017-06-28 08:10 | 朱徳の半生

f0364260_15020296.jpg

この本には敵味方いろいろな人物が登場してくるので、読んでいて楽しかった。

朱徳が対峙してきたのは地主などの特権階級から始まって、清朝の西太后、袁世凱や蒋介石とその周辺の軍人政治家たち、外国の帝国主義者たち。


朱徳が語っているように国が外国に侵略されるときは必ず自国内に買収された協力者がいて、彼らの存在は中国固有の問題ではない。

ただ中国は領土も人口も桁違いに大きいので、その分反逆者の数は多いし、殺された民衆や知識人、将兵たちの血も川のように流れてきたという。


一方で、封建的な制度のもとで圧迫されてきた民衆を解放するために、また外国に侵略されようとする国を救うために同じ志のもとに集まってきた若者たちは反逆者の数に劣らないほど多く存在したことに感動する。

こういう人物たちの友情がこの本の魅力だ。


朱徳を軸にした展開なので、毛沢東や周恩来をはじめとする著名な指導者たちは脇役になって登場する。

彼ら一人ひとりも一冊の本になるぐらい波乱万丈の半生をおくってきた。

反逆者も多いけれど、その真逆の立場に立った人物も数多く存在することが中国らしいスケールの大きさと層の厚さを感じる。

現代も傾向は同じだと思う。


印象に残っている人たちを振り返ってみると……。


朱徳の母親

旅芸人の娘として生まれ、農婦として死ぬまで働き続けた女性。
80歳ぐらいまで長生きをしたので、自分の生んだ息子の名前を人々が敬愛をこめて口にするのを知っていたはず。
朱徳とは長く会えなかったけれど、革命事業の話を聞いていて応援していたらしい。


朱徳の養父

貧農の三男だった朱徳が教育を受ける機会を得たのは叔父である養父の野心からだった。


機織りじいさん

朱徳の家に毎年定期的に機織りの賃仕事をするために来た職人。
実は太平天国の乱で有名な首領石達開の配下の生き残りの兵士でもあった。
太平天国の乱や国内外の政治情勢のことなど外部の世界の情報を朱徳の家に伝えるという役割を担ってきたことになる。


シ先生

朱徳が弟子入りした家塾の老先生。
科挙には合格していなかったが、それ相当の尊敬を周囲から受けていた人で、朱徳はこの先生のもとで科挙の準備をした。
朱徳はここで洋学信者になり、国の将来を考えるきっかけになる薫陶を受けてきた。


蔡鍔将軍

この本を読むまでこの人のことを私は知らなかった。
スメドレーはこの人がいなかったら歴史は違った展開になっていただろうと語っていた。

雲南軍官学校の教員で朱徳よりわずか4つ年上。
年少の頃から梁啓超の弟子で日本の士官学校で学んだ人。

辛亥革命での功労者の一人だったが、30代で結核のために革命途上で亡くなる。

青年時代の朱徳の師であり親友でもあった。


孫逸仙(孫文)

朱徳はフランス留学の前に上海で会見している。
孫逸仙に実際に会えた人は珍しい。
第一次国共合作はその会見での朱徳の助言が何らかの影響を与えたような感じがする。


周恩来

ドイツベルリンで会い共産党に入党する。
この本では少ししか登場しないが、ハン・スーインが建国後聞き取りをした周恩来の半生記『長兄』には逆に朱徳は少ししか登場しない。
中国革命の裾野の広さと奥行を感じる。


陳毅

朱徳の配下にいた指揮官で、長征には参加せず残された部隊をまとめた人。
代々学者を輩出する家柄の出身。
敵側の学生部隊を「奴隷なるよりも今中国で怖いことがあるだろうか」という内容で説得して味方に引き入れた。

この人の半生も1冊の本になるだろう。


賀竜

貧農出身で文盲だったけれど、農民パルチザンを指導した中国革命の功労者の一人。
この人の名前を聞いただけで地主は荷物をまとめてさっと逃げたらしいが、仲間うちではおもしろい人物だったようだ。
私もそう思う。
残された写真はみな愛嬌たっぷりの顔をしている。

ページにこの人の名前が出てくると、ワクワクしていた。


彭徳懐

この人は軍人としては朱徳につぐ功労者だったと思う。
敵側に追われて避難した時、部隊を率いて毛沢東と朱徳を探したが見つからなかったのでもう死んだと思い、自分が紅軍を作るぐらいの気概を持っていた。

詳しい事情はわからないが、建国後の文化大革命中に牢獄で非情な扱いを受けて亡くなった。
検索すればひどい写真も出てきて、この本で彼の功労を評価する者としてはつらい。
名誉回復を受けているらしいが、中国の激動の政治の怖さを知る。


呉玉蘭

朱徳の3番目の夫人。婦人作家で集会で演説することもあり、彼が一番惚れていたような感じがする。
敵側との戦いの中で捕まり、拷問を受けて見せしめのために故郷の町でさらし首にされている。このように身内が敵に殺される体験は紅軍の指導者や兵士はほとんど持っている。


毛沢東

蔡鍔将軍とのつらい別れのシーンを知っているので、信頼できる同じ農民出身の毛と出会えたときの朱徳の歓びはわかる気がする。

作家ハン・スーインは周恩来同様に毛沢東の伝記も書いているが、後年毛沢東への評価が変わり後悔していたらしい。

私は建国後の大躍進とか文化大革命については詳しく知らないので、歳をとった毛沢東に何かあったぐらいで思考が止まっている。

ただし、建国までの毛沢東の強い指導力と革命の最中に培ってきた知性には感服している。


康克清

朱徳の最後の夫人。自ら決心して紅軍に参加するまで、文盲で地主の畑で農業労働をしていた女性なのだが、残された写真を見ると地味で丈夫な身体の持ち主だったことがわかる。

朱徳との結婚話は歳の差以前に身分違いという理由で最初は断わったらしい。

長征にも参加した数少ない女性の一人だが、彼女自身は長征中にさほど苦労したという話はしなかった。

もうひとり同年齢の女性がいて、行軍中は彼女とのおしゃべりも楽しかったらしい。
歩けないほど疲労しきった兵士の銃を替わりに担いで歩いた時もあった。

周恩来夫人は病気で時には担架で運ばれて長征を乗り切ったことを考えると、朱徳は若くて自分と同じような頑丈な身体を持つ行動力のある女性をうまく選んだなと思う。

晩年のこの女性と面識があったハン・スーインはすばらしい女性と評価していて、西洋であまり紹介されていないことを残念がっていた。

私もこの女性に興味がありネットで調べたが、中国語なのでかろうじて伝記が出版されたぐらいしかわからない。


蒋介石

朱徳とほぼ同年齢でずっと憎き敵として互いに意識し合ってきた感じがする。
ねばり強いというかアクが強いというかどれだけ民衆を圧迫してきたか。
共産主義を潔癖なほど嫌い、完全に排除するまでなんでもした感じがする。

社交家で英語がネイティヴのように話せて資産家の娘でもある宋美齡と結婚したのが見事な戦略だったと思う。

孫逸仙夫人宋慶齡は妹と結婚したからまだあの程度ですんでいると語るほどの問題ありの人物だった。

太平洋戦争は自分が仕掛けたようなことを発言しているところが衝撃だった。
確かに蒋介石にとって太平洋戦争は好都合だったように思える。


あと孫炳文、袁世凱、林彪、劉伯承、宋慶齡、彭湃、葉挺などまだまだいる。
中国の建国苦労話に登場する人物たちは敵も味方も多彩だ。



[PR]
by far-east2040 | 2017-06-22 15:09 | 朱徳の半生

f0364260_17120274.jpg


国家的偉業をなした人物の伝記はたくさん出版されてきている。

『偉大なる道』で描かれている朱徳についても中国では国家的事業としてたくさんの伝記が出版されてきているはずだ。

ただし、偉大なことは教育を通じて認識しているけれど、もう過去の人物として普段の生活では忘れられた存在だろう。このあたりの実感はよくわからない。

毛沢東や周恩来など他の革命の指導者の伝記もそうだと思う。


朱徳の最後の夫人だった康克清は革命に参加するまでは文盲で地主の畑の農作業に従事していた人なので、中国で伝記が出版されていることがネットでわかったときは読んでみたいとは思った。

中国語がわからないので無理な話だけど。


朱徳たちが生きた時代からみたら信じられないぐらい豊かな大国にのし上がってきている中国では、こういう革命世代の伝記なんて「もう古いもの」としてほとんど読まれていないと想像する。

実際古い話だ。
古い異国の人物にこだわる私はつくづくはぐれ者だと思う。


国家的事業で書かれた政治家の伝記は読む気がしない。
どうしても実際よりも美化したり、悪い面はトーンダウンしていい面を強調しているように勘ぐってしまうからだ。。

だいたいこの種の伝記は出版はされても、さほど読まれないと思うのだが。

政治家とくに旧共産主義国の功労者としての政治家や宗教団体の教祖の伝記モノとか。


司馬遼太郎は膨大な資料の読み込みと行動で独特の作品群を産みだした作家で、紀行文は好きで親しんだ時期があった。

坂本龍馬を扱ったフィクションは残された資料に基づくこの作家の知性による創作人物であり、娯楽として楽しむ以上のものは期待できないと思っている。


『偉大なる道』を司馬遼太郎の作品と比べるのも無理な話だけど、あの時期に革命途上にある人物から直接または周辺から参考になる話を聞いて、自分のジャーナリストとしての見識を動員して編集したという点で重ね重ねすごく希少価値があると思うのだが。


アグネス・スメドレーは1892年生まれで、中国人の農民を描いた『大地』の作家パール・バックと奇しくも同年齢でしかも女性ということも共通している。

生い立ちはかなり違うが、中国を愛しているという点でもどちらも引けをとらない。

バックは1931年から1935年に出版された『大地』の三部作が評価され、1938年にノーベル文学賞を受賞している。

ぱっと出て、さっと賞をもらったという感じ。


スメドレーはこの『大地』を読んでいたかどうかわからないけれど、これだけ有名になっていたので、中国の農民の生活をきめ細かく描いた作品ということは知っていただろう。

バックは両親がキリスト教の宣教師で幼い頃から中国で育ち、英語と中国語のバイリンガルで、中国の名前を持ち自分は中国人と思っていたぐらい中国社会に溶け込んでいた人だった。


私は中学生ぐらいの頃に彼女の三部作は読んでいて好きな作品だったので、『偉大なる道』を読んでいるときこの『大地』を想い出すことが何度もあった。

フィクションだけれど、バックが描く中国の貧しい農民、そこからのし上がっていく一族の個々の姿が『偉大なる道』に出てくる人物たちと重なって、中国人でない作家がここまで創作して描けれることに感心しながら振り返れたものだった。


スメドレーの『偉大なる道』はフィクションではない。

実在の人物からいい話も答えにくい話も時には沈黙という形で直接聞きとりしているだけに迫力やためらいなどが伝わり、ノンフィクションならではの読み応えがある。


スメドレーが朱徳に聞き取りを申し出た理由の1つは中国の農民がかつて外部の世界に向かって口を開いたことがないという確信だった。

フィクションではなくて、直接の聞き取りを活字にして発信したかったのだと思う。
だから女性ならではの衣食住にわたる生活の細かいことも聞き取りできている。

このあたりバックの『大地』を少し意識していたように感じる。


エドガー・スノウというジャーナリストが同時期に延安で毛沢東に直接聞き取りをした『中国の赤い星』という本も一時期有名だったらしい。

もちろん最盛期のアジア図書館で一覧できる中国コーナーには何気なく並んでいた。


残念ながらこの本を手に取る機会がなかった。
スノウが女性だったら、読んでいた可能性は高い。

『偉大なる道』よりも、イデオロギーが強く出た作品になっているらしいとどこかで読んだことがある。

中国共産党を全世界とくにアメリカに広く好意的に紹介したことで有名な作品らしい。


スメドレーの『偉大なる道』をアメリカで出版できるように骨折ってくれたのもスノウだった。この本の価値がわかっていたのだ。

彼女は全米でマッカーシズムが吹き荒れる最中に遭遇したので、出版どころか住む家を見つけるのも困難な情況に追い込まれ、結局イギリスに向かった。


彼女が日本で出版されることを知ることなくイギリスで1950年に亡くなり、その骨は中国に埋められていることはよく知られている。
その墓石の文字は朱徳自らの揮毫によるものだ。


なおスメドレーは共産主義に共感を持っていたことは行動と主張から事実である。

経済的な援助を含めて当時のソ連の機関とある程度の接触があったと考えても不思議ではない。


有名なゾルゲ事件の関係者で戦中に死刑になった日本人ジャーナリスト尾崎秀実とは中国で愛人関係だったとどこかで読んだことがある。

尾崎秀実は日本に妻子がいる身だった。

元は兄嫁だった妻と娘に獄中から書いた手紙が『愛情はふる星のごとく』という題で出版され多くの人に読まれたらしい。

情熱的な人だ。

愛人関係か事実上夫婦だったかどうか事実は知らないが、どちらも異国で共感するものを持つジャーナリストであったことを考えると、十分ありえると個人的には思った。

スメドレーもゾルゲ事件の関連からだろうか、当然スパイ扱いされたらしく、そのことでも戦ってきた。
政府からの嫌がらせはひどかったらしい。
ゾルゲ事件については現在定説になっていることもほんとうの所はどうだろうかと私は思っている。
すっきりし過ぎている感じがする。


で、スメドレーがあの当時どんな主義を持つ人だったかなんてあまりこだわりがない。

『偉大なる道』を残した事実と彼女の見識、良心、勇気にただ感服している。



[PR]
by far-east2040 | 2017-06-19 17:22 | 朱徳の半生

朱徳の半生記を読んで

f0364260_08511308.png

ブログの過去記事を見ると、昨年10月からアメリカ人女性アグネス・スメドレーが聞き取り編集した朱徳の半生記『偉大なる道』を丁寧に読み始めたことになる。


こんなに本の中の登場人物に愛着を持って読みすすめたことも珍しい。
勢いで読んだ一回目、少し余裕を持って読んだ2回目よりもはるかに多くの知識、発見、再認識を得たし、現代の国内情勢を考える目も少し養われた感じがする。
とくにアメリカの対アジア政策のことは考えさせられた。


ブログに載せていくために中国独特の漢字を調べるために漢和辞典はよくお世話になった。

Wikipediaは中身は問題があると思っているが、歴史上の人物の名前、生年没年や土地名を調べたりするにはとても便利だった。


9ヶ月間、想起しては消えていった数々のことを全て書くことは多すぎて不可能だ。


印象に残っているシーンは延安で初めてスメドレーが伝説の人物朱徳と会ったときに始まってたくさんあり、その都度の感動の余韻がこんな作業を続けさせたのだと思っている。


貧農の三男だった朱徳が一族の期待を背負って辮髪姿で家塾に通い始めたところ。


青年に達して、祖国を救うために軍人を目指した朱徳が四川省を脱出して危険な河をくだり雲南省へ入ったところ。


蔡鍔将軍との出会いと別れ、そしてまるで忠臣蔵を思わせるような辛亥革命でのクライマックスシーン。


敬愛する人たちの死や挫折などによって阿片を吸い始め、気が向けば女をそばにおくという生活から決意して、フランス留学を実現させていくところ。


上海での孫逸仙との会談。


ベルリンで周恩来と出会い、共産党入党を果たしたところ。


南昌蜂起の準備のための秘密会議に参加。

名前だけしか知らなかった毛沢東を薄暗い部屋で眺めたこと。


南昌蜂起の後、敗北主義を乗り越えて毛沢東の軍隊と合流し紅軍を結成したこと。


長征中、少数民族との同盟を結んだり、太平天国の乱の兵士が全滅した揚子江の同じ場所を渡ることに成功したところ。


紅軍を結成した後は、司令官として扇の要となって指導力を発揮していったところ。


気は優しくて力持ちで、喧嘩をすれば誰にも負けない。楽天家で勉強家、読書家。真面目にコツコツ物事を進めていくタイプ。何より行動の人。農民出身なので、農民の中に自然に溶け込んでいき農民の言葉を話せて、農民からの絶対的な信頼を得ていた。

スメドレーは何度も足のつま先から頭のてっぺんまで男性的だったと表現していた。


西洋のアレキサンダー大王やカエサルやシーザーとかもっと現代に近いナポレオンなど英雄伝説は多いが、彼らの半生と同様にこの日本で知る価値のあるアジア圏の人物だと思う。

中国人で共産主義者で抗日戦争の司令官だったという三重の障壁で、もったいないほど親しむ機会を失ってきている感じがする。
朱徳は封建主義や帝国主義を否定し戦ってきたのであって、その国の人民とではない。


好き嫌いは別にして、戦前の日本もかなり絡んでいる隣国の建国苦労話でアメリカがどうしても出版させたくなかったこの本は貴重な本だと思っている。

かつてアジア図書館設立運動に関わったものとして、一般市民が東アジアの近代現代の政治的構造を知る1冊としてこの本を強く勧める。


ブログの文章はあくまでもラフスケッチのつもりで、2024年の1月に著作権が切れたら、堂々とネットにもう少しまともな文章に仕上げて残していきたい。

自分が感動した本は必ずしも他人にとってはそうとは限らないことは知っている。

でも、ひょっとしたら私のような時代のはぐれ者が出てきて、この本の魅力に気づいてくれる人が出てくるかも知れない。


なんとかその時まで健康で生きていたいと願っている。



[PR]
by far-east2040 | 2017-06-12 09:00 | 朱徳の半生


f0364260_14584538.jpg

四川省の貧農の子だった朱徳将軍はいま六十歳になった。

11月30日、戦闘の真っ最中に、華北の人民と部隊は彼を祝福して愛情と激励の言葉を贈った。

はるかな満州の戦地から林彪の幕僚が打電してきた。


「貴下の六十歳の誕生日を祝うため、われわれは一つの新しい勝利を贈る。ただいま国民党の一個連隊、わが方に投降せり」


上海で出ている雑誌『群衆』の編集局が誕生日に間に合うように手紙を送ってきた。


「敬愛する先輩。

貴下は中国人民を敵の鉄蹄から救い出されました。

貴下は中国人民を指導して、千年の奴隷状態から自らを解放させ、衣食の道を得ることを助けました。

貴下は侵入者を中国人民の田園から追っ払う。

貴下は中国民族の偉大なる子であり、中国人民の再生の親であります……今日、貴下の六十回誕辰にあたり、われわれの胸のうちに、感謝の情は香華のごとくに燃え立ちます」


延安の朱将軍の司令部には、11月30日の朝から晩までたえまない人の流れが寄せてきた。

ひとりの女を混じえた4人の農民の一団は、彼に誕生祝いの果実入りの菓子、二本の酒、一かごの誕生祝いの麺を贈るため、20マイルも歩いてきた。

延安守備隊の兵隊たちは彼のためにサンダルと靴を作って贈り、そして司令部の前で革命家を歌いヤンコを踊った。


だが、おそらく朱徳がもっとも貴重と感じた贈り物は、共産党中央委員会からの彼の勲功を数え記した巻物ではないだろうか。

清朝の全滅、袁世凱の打倒、大革命における役割、毛沢東との協力による中国紅軍の創設、長征中の軍の指揮、そして抗日戦争における偉大な業績。この文書はこう結んであった。


「貴下は過去六十年における中国人民の偉大な解放闘争を象徴している。

貴下は抑圧された中国人民のよき子、よき兄弟である……


「国民党反動がアメリカ帝国主義とともに対日戦勝利の果実を中国人民から奪い去ろうと企てている今日、貴下と同志毛沢東はわが国とわが人民の利益をまもる闘争の先頭に立つ」


朱将軍は六十歳の誕生日に一文を発表した。

それは流浪する旅芸人の娘で名前さえないほど目立たない女だった彼の母が、八十歳で亡くなるまで農婦として働きとおした物語である。


この六十歳の誕生日の2週間後には、朱将軍はふたたび中国の山野の道を歩いていた。

胡宗南が率いる蒋介石の封鎖部隊が延安に殺到しつつあった。

敵が進出してきたときにはこの小さな街は空になっていて、敵が寸土を取るごとに血を流すことを強いられる部隊だけがあとに残っていた。


悲しげな顔で別れをいいにきた農民たちに向かって朱将軍はつげた。

「ほかへ行っているのもそう長いあいだじゃないよ」


朱将軍はそばを歩いてゆく53歳の毛沢東に話しかけた。


「私は六十年生きてきた。これからの一年一年はそれだけ儲けものだ」


こうして彼は、人類解放の偉大な道を進んでいく。

今度は、3年後に蒋介石を突きくずし世界の反動をふるえあがらせる勝利に向かって、祖国と人民を導くために。
  
                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋

f0364260_14573515.jpg

                                               (完)


[PR]
by far-east2040 | 2017-06-10 15:04 | 朱徳の半生

f0364260_14572601.jpg


マーシャル将軍がアメリカへ帰って報告書を出したのは、国民党が攻撃を開始した7月22日から6ヶ月の後だったが、彼は内戦について国共双方を非難しながらも、誠実に次のようにのべていた。


「国民党反動グループは、彼らの封建的な中国支配の保持に熱心であり、……彼らが何をしてもアメリカは支持してくれると計算している」


朱将軍は後になって、マーシャルの失敗の原因はマーシャル自身というよりもアメリカ政府の政策にあったと語っていた。


アメリカの記者団が延安に飛んだ10月ごろには、蒋介石は兵力の80パーセント、253個師団のうち193個師団を内戦に動員していた。
朱将軍が記者たちに語った話しによると、1月の停戦協定がやぶれた根本の理由は、「独裁を続けようとする国民党の決意と、アメリカの蒋に対する激励と援助」であった。

国民党はヒトラー、フランコ、ヒロヒトのような専制政治を樹立しようと望んでいて、共産主義者と人民はそれをやっつけようと決意しているのだ。


国民党がふりまいている米ソ戦という風説のことにふれて、朱将軍はいった。


「そうした戦争を製造しているアメリカの反動の一団があるし、中国の反動どもは、それがすぐ起るのを望んでいる」


「だが、彼らの野心が実現されるとは思わない」と彼はつけ加えた。

「もしそうした戦争がはじまった場合には、われわれの態度は、中国人民に対する両方の側の態度いかんにかかっている……


「アメリカがとりうる、ふたつの異った政策がある。

ひとつは、中国をソヴェト同盟との友好のかけ橋にする政策であり、もうひとつは、中国を対ソ攻撃の戦場にする政策である。

前の政策はヘンリー・ウォーレス氏が主張するものであり、後の政策はアメリカの反動たちが主張するものだ。

われわれはそうした戦争の発生を阻止するであろう! 

そうしたおそるべき大惨害を心にえがくにつけて、われわれは何としても平和のために努力せざるを得ないのだ」


ところで、あの強大な国民党軍に対して人民解放軍はどれだけ持ちこたえることができるか。

この質問に朱将軍は冷ややかに微笑した。


「それは全くアメリカ反動勢力にかかっている、というのは、彼らは中国の反動を通じて、われわれに武器や弾薬を供給してくれるからだ……」


「わが国の人民や兵隊は、これが中国とアメリカの反動勢力とのはじめた戦争だということを、また、もしわれわれが負ければ、これまでに得たもののいっさいを失うことや、何百万人のものが絶滅されることを、知っている。

だから対日戦のときと同じく、全人民がわれわれを支持している……蒋に従属するものの多くも、内戦を欲していない。

だが、彼らはその命令にしたがうか、それでなければ彼と関係を断つしかない。

しかし、現在のような服従の時期はそう長くはつづかないだろう。

われわれは過去2ヶ月半のあいだに国民党の25個師団を全滅させたが、国民党は、わが軍の1個連隊さえ、全滅させることができなかった」


もし提供されたとすれば、ソビエト同盟の援助を受けるかという質問に対しては、朱将軍はこう答えた。


「今日われわれがもっとも求めている援助は、アメリカ人民からのものだ。

われわれは、アメリカの人民がその政府の不名誉な政策をやめさせることを、望んでいる。

私は衷心からいうが、われわれは、中国の独立と平和と民主主義とに同情するすべての人民、すべての国家に深く感謝するものであり、わが国の国内問題に干渉し内部闘争をかき立てるあらゆる反動勢力に反対するものである……」


その2週間後に、ひとりのアメリカ人記者が延安に飛んで、朱将軍にぶしつけな会見を申し込んだが、朱将軍もまたぶしつけな返答をした。


「わが国をアメリカに売ることによって設けている国民党の官吏や将軍や寄生虫だけが、この内戦を欲している!」


「アメリカ帝国主義は、日本帝国主義と同様に憎むべきものだ!」

彼はにがにがしげに断言した。

「アメリカ政府は、反動政府だ。

その反動勢力が、これまでに蒋介石につぎこんだ援助は30億米ドルをこえる。

これだけの金が、役人や軍閥がくすねた一部をのぞいて、すべて中国人を殺すために使われているのだ。

一年前にはトルーマン大統領の声明やマーシャル将軍の派遣に歓喜した中国人で、アメリカの兵器の犠牲にされたものが何万人といるのだ。マーシャルが和平をかたっていたあいだに、国民党とアメリカ政府とは、戦争準備をしていた」


1946年が終わりに近づくころには、華北と満州は中国人民の鮮血で彩られたが、もしひとりが前線で倒れれば、多くのものが彼に代わるというありさまだった。

人民解放軍は敵の勢力をけずり消耗させるため、大都市をすてて農村部に退いた。

国民党の士気はますます低下してゆき、いくつもの師団がそれぞれ師団ごと共産側に移りはじめるまでになった。


何千回の闘争できたえた鉄の規律をもち、死のみが絶つことのできる不屈の確信の装甲を身につけた人民解放軍は、いまや急速に最良のアメリカ兵器で武装しつつあり、彼らが遊撃戦と移動戦から正規の戦争へとすすむ時期は近づいてきている。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



[PR]
by far-east2040 | 2017-06-10 13:44 | 朱徳の半生