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日本兵の死体のポケットから反戦ビラが発見される以前から、八路軍政治部は敵に対する宣伝工作をやっていた。

しかし「対敵工作部」はここに至って一段と工作を進め、部隊に日本語を教えるように命令された。

この活動は最後には八路軍と新四軍全部に普及した。

日本の兵隊について話すとき、朱将軍は冷ややかな憎悪をこめていいだすのだった。


「日本兵は捕虜になるより死をえらぶが、彼らの死にものぐるいの戦闘ぶりは、単純に勇敢さのせいとはいえない。
それは罪の意識と恐怖となのだ。
ひじょうに多くのわが人民を殺し、婦女に暴行を加えた。
だからわれわれに捕まるのを怖れているのだ。
彼らは公然と『虐殺戦』を自慢している。
そして彼らが捕えた中国兵をなぶり殺しにしているように、われわれも彼らをなぶり殺すものと考えている。
今後は日本兵の捕虜をつかまえることに特別の注意をはらおう」


こんな話のあった翌日、朱将軍はただちに正太線に向かって南下するよう命令を受けた。この戦線を突破した日本軍が太原府に向かって進んでいたのである。


その夜彼の司令部には夜通し明かりがつき、夜明けには、われわれは山西省東部の渇き切った無人の山脈を越えて南方に行軍していた。
賀竜の師団は山西省北部に残った。

また八路軍の卓越した行政家の一人である聶栄臻も、第115師団の二個大隊と共に五台山にとどまって、結局ここを敵の背後の強力な晋察冀(現在の山西省、河北省、遼寧省、内モンゴル自治区にまたがる地域)基地に仕立てあげた。

残りの軍は朱徳の司令部と共に移動し、日本軍第二十師団が飛行機を先導に東方からなだれこむ寸前、正太線を横断したのであった。


11月始めの3日間、八路軍の第115師団は当面の敵に損害を与えたばかりの第129師団といっしょになって、この進撃中の敵師団に対して、双方移動しながらの闘争を開始した。

この戦闘ではじめて、二人の無傷の捕虜を捕らえたが、ひとりは無電兵でもうひとりは歩兵大尉だった。

また食糧、薬品、弾薬、冬外套、その他各種の軍需品を満載した四百頭以上の駄馬からなる輸送隊を奪取した。

この馬の世話に徴用されていた30人の満州出身の農民も捕虜にした。


しかしそうした作戦も日本軍の11月13日の太原府占領を妨げることはできなかった。

そのあと朱将軍は、日本が権力をかためるのを妨害するため、第129師団を鉄道沿線に残しておいて、自分は総司令部と第115師団を率いて山西省内を南下した。

凍りつくような雨や吹雪に難行しながら、途中の町や村で民衆大会を開いた。

そして省内を中国の抵抗基地に変えるため、いたるところに組織者を残しておいた。


ある町での出来事だった。

民衆大会で二人の日本人捕虜に話をさせようとしたら、ものすごい騒動になって「鬼を殺せ!」という殺気立った叫びがあがった。

八路軍の代表者たちは群衆を鎮めようと必死になっていた。

そこへ「朱徳だ、朱徳だ」という声が聞こえた。

朱徳は大股で演壇に上った。

議長をしていた町長が進み出て群衆にいった。

「われわれはみな、何年も前から朱徳という名を聞いていた。

その彼がいま現にここにいる! 

いまさら私から紹介することはない」


朱将軍は、はじめに抵抗戦争における人民の役割について語った。

その後で、日本の兵隊たちは日本の軍閥や財閥のために徴兵されて中国に送られた労働者や農民であるということを知ってもらいたいと述べた。

そして続けた。
日本の人民がこの戦争を始めたのではない。

日本の多数の反ファシストたちが戦争に反対して、投獄されたり殺されたりしている。

八路軍は日本兵をとらえて教育し訓練し、彼ら自身の貪欲な支配階級と戦い、中国の勝利を助けるようにさせるつもりだ。


この地方の人々がこんな考えを聞くのはこれが初めてだった。

日本人捕虜の一人の無線兵が演壇の前に進み出て話した。


「私は兵隊だが、労働者でもある。

日本の軍閥はこの戦争を望んでいるが、日本の人民は望んでいない。

私は強制的に徴兵されて、この国に送られてきたが、捕虜になるまでは、中国の人民がこんなに親切だとは知らなかった。

今後は私は中国の人民と肩を組んでゆくつもりでいる」


のちに朱将軍は私(スメドレー)に、捕虜になってからの日本人大尉の横柄な態度のことを話してくれた。

ある時林彪がこの捕虜のいる家に入ってゆくと、彼は座ったまま林に鶏や卵や米を持ってくるよう命じた。

林は冷ややかに落ち着いた声で答えた。

「われわれが君を親切に扱うのを誤解してはいけない。
われわれが君の目下のものという意味ではまったくない。
われわれは粟を食べてるが、君には米をやっている。
君は君を見に来た農民を殴ったというではないか。
このため君を殺そうとは思わないが、今後中国人をなぐったら、公衆の面前で鞭打つことにする」


この話をしながら、朱将軍は唇を噛み、じっと目を見据えるのであった。


「今まであの男は徒歩だった」彼はいった。
「今日あいつに私の馬をやって乗らせた。
捕獲した日本煙草の一箱もやった。
とまどったようだが、うけ取った。
あの男もわかってくるだろう」

                              紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-05-27 09:56 | 朱徳の半生

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朱徳が八路軍の戦略について話している途中に彭徳懐が入ってきた。

普段は厳格なしぶい人だが、敵の背後の広大な地域で起こった数々の小さな勝利を報告する彼は実に楽しそうだった。

朱将軍は、色あせた赤い星のついたみすぼらしい軍帽を刈りたての頭の後の方へずらしたまま目を細めて聞いていた。


「あなたは、われわれの大衆動員と大衆訓練の方法を視察した方がいい」彭将軍は楽しそうに手を振りながら大声でいった。

「人民は海で、われわれはその中を泳ぐ魚のようなものだ。

これは民族革命戦争だ。

勝利はわが部隊の勇気と自信と戦闘力と、指揮官と戦闘員の親密な関係、われわれと他の中国の軍隊との緊密な協力、そうしたものにかかっている。

われわれは兵隊や民衆の間で、猛烈な政治工作をやっている。

民衆は男も女も子どもも、ひとり残らずわれわれのまわりに結集している」


彭将軍は両手をテーブルにつっぱって続けた。


「もちろん、あなたは力強いスローガンやポスターをたくさん見られるだろう。

しかしもっと大切なことは、わが部隊や遊撃隊や民衆を教育することだ。われわれの目標は深い民族意識を発達させることであり、敵の状況ともくろみについて、わが部隊と民衆を啓蒙することだ。

勝利はただでは得られないことを、みなが認識しなければならない。

戦争はいま始まったばかりだ!」


朱将軍は目を細めたままだったが、じっと一点に目をこらす様子で答えた。


「そのとおりだ! 
だが国民党軍ももっともっと変らなければならない。
国民党の将校は、いまでも兵隊をどなりつけたり殴ったりしてーー不合理な服従を強制している。
あれは封建的なやり方だ。
あれをやめて、友情、相互の尊敬、信頼と助け合いでゆくべきだ。
悲惨も幸福も、全部のものがわけ合わねばならない。
将校と兵隊の生活状態も大体同じようにして、みなが心から戦場に立てるようにしなければならない」


「そんなことできますか」と私(スメドレー)が懐疑的にたずねると、いつも楽天的な朱徳は答えた。


「それには時間がかかる。
わが軍は模範にならなければならない。
戦争がつづくあいだに、国民党軍を改革してゆく必要があり、それでなければ敗北するだろう。ところであんなに多くの中国人の傀儡どもが日本軍の側で戦っているのは、なぜだろうか? 
中国人によって中国を征服する、と日本人が自慢するのは、なぜだろうか? 
その理由は、国民党が、国内の封建的諸条件や軍隊内の封建的やり方を一掃するための努力を、何一つしなかったからだ。
われわれは国民党に、その非をさとらせて、また傀儡軍をわれわれの方に引きつけなければならない」


朱と彭は、林彪の師団が平荊関で日本の一個旅団を全滅させた話をしてくれた。

そしてその他の戦闘でも、日本人は負傷した場合でなければ、決して降伏しないという話もした。

負傷者さえ死んだふりをしているということだった。

八路軍の担架兵が彼らの上にかがむと、いきなり飛び起きてきて兵を殺した。

賀竜の部隊が敵の輸送隊を潰滅させたときなど、日本兵がトラックにしがみついて、斬りおとすまで離れなかった。

賀竜の部隊は、日本兵の死体のポケットから日本共産党や日本反ファシスト連盟の署名のある反戦ビラ多数を見つけた。

朱将軍はこのビラのことを話しだすと昂奮してきた。


「おそらくわれわれは、われわれの同志たちを殺していることだろう!」と彼はさけんだ。
「だが、仕方がない。
これからは、わが軍の兵隊も、日本兵にむかってわれわれは捕虜を殺さない、とさけぶだけの日本語をおぼえねばならない。
敵の兵隊は将校から、紅軍は捕虜をすべてなぶり殺しにするとおしえられているのだ」


朱将軍は中国語に訳されたビラのひとつをわれわれの前に置いた。

その一部分をあげるとーー


「満州事変前後を通じて死んだ、あわれな二十万の兄弟たち!
いったい誰のため、何のために死んだのか?
軍国主義者たちのためだーーわれら自身の国の軍国主義者たちの野心と貪欲のためなのだ! ふたたび奴らの手におどらされていいだろうか?
親愛なる陣中の同志諸君!
軍国主義者どもに、われわれの兄弟の生命をかえせと要求しよう。
われわれはたちあがって、われわれの真の敵――軍閥と財閥とに銃をむけなければならない。
彼らを打倒してはじめて、われわれは、極東永遠の真の平和を成就することができるのだ」


                               紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-25 21:07 | 朱徳の半生

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私(スメドレー)が1937年10月末に山西省東北部にある五台山の朱徳将軍の司令部に着いた当時、日本軍は山岳地帯を越えて北方と石家荘から深い渓谷をぬって太原府に通ずる鉄道支線に沿う東方の二方面から省都太原府に迫っていた。

国民党と山西省の軍隊は北の戦線で日本軍をくいとめていて、東北軍その他の国民党師団は八路軍の第129師団といっしょに東の戦線で支えていた。

八路軍の残りの二個師団は敵の後方で機動と遊撃戦を展開していた。


賀竜の第120師団は山西省北部一帯を広く暴れまわっていた。

一方林彪の第115師団の各連隊は山西省東北部から河北省東部(西部の誤りか)にかけて作戦を展開していた。

そして敵に占領された県城のいくつかを奪い返していて、京漢鉄道の爆撃さえ敢行していた。


旧軍閥の山西省政府閻錫山は、国民党の要人と同じように、敵の占領地域以外では民衆の組織と武装を許そうとしなかった。

そこで、敵の占領地域で作戦する八路軍は、内戦の数年間華南で非常な力を発揮したのと同じやり方で、人民を組織し、訓練し、武装した。

農民、労働者、商人、婦人、青年、少年などの組織が作られた。

村や町の成人は地区自衛隊に組織された。

屈強な青年たちは抗日遊撃分隊を作って八路軍を補助して戦った。

捕獲した小銃で武装したこれらの分隊は八路軍の損傷を補充する貯水池であった。


五台山の朱将軍の司令部は以前は地主の邸宅だった大きな白い建物であった。

私が二人の中国人新聞記者といっしょにそこを訪ねると、彼は腰掛けにすわって散髪してもらっているところだった。

手を振って大きな声で「よくこられた」といった。

散髪がすむと、床から天井まで大きな軍用地図のかかった部屋へ私たちを連れて行った。

日本軍と中国軍の位置を指し示してから、八路軍の戦略と戦術を説明してくれた。


「戦略的にいえば、われわれは、持久戦、それから敵の戦闘力と補給との消耗をねらっている。

戦術的には掃滅的な電撃戦をたたかっている。

われわれは軍事的に敵より弱いから、いつも陣地戦を避けて機動戦と遊撃戦とを併用する。

敵の決定的な兵力の破壊をねらうと同時に、遊撃戦によって敵を混乱、滅損、分散、消耗せしめる。

われわれの遊撃戦が敵を非常な困難においこむので、正規軍は有利な状況のもとに機動戦を展開することができる」


彼は将来の計画についても説明した。


「われわれの計画は、華北と西北一帯との敵の背後に、多くの地区山間基地を設けることだ。――たとえば敵の機械化部隊が作戦できない五台山のここのようなのがそれだ。

正規軍はそうした基地に帰って、休息や補充や再教育を行うことができるし、その中で遊撃隊や大衆を訓練することができ、また小規模な兵器廠、学校、病院、合作社や地区行政機関をそこに集中する。

われわれはそういう基地から出ていって、日本軍の兵営、防塁、戦略地点、弾薬集積地、通信線、鉄道などを攻撃することができる。


目的を達すると部隊は姿をかくし、他の方面をおそう。

それらの基地をかため、それを利用して、われわれの作戦領域をひろげてゆけば、ついに防禦戦略から戦略敵攻勢への転換が可能になる。

蒋介石もこの計画に賛成した。

この五台地区基地は彼の許可を得て作られたのだ」


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-25 14:25 | 朱徳の半生

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日本帝国主義は1937年7月7日、北京付近で二十九路軍を攻撃し、前から計画していた中国征服を開始したが、統一戦線はこの時まだまとまっていなかったし、蒋介石も戦う決心を固めていなかった。

しかし、特別行政辺区と延安辺区はただちに戦争体制に入り、24時間以内に抗大で勉強していた指揮者たちはそれぞれの部隊に帰るため南に向かって出発し、一方数百人の者が部隊を離れて延安に向かってきた。


日本の侵撃が始まって10日後、やっと蒋介石は声明を発表して、国民に抵抗を訴え「もはや退くことはできない」と述べた。

その時までに、日本は河北省を占領し、西北に殺到しつつあった。

8月13日には日本軍が揚子江流域で戦端を開き、上海占領から12月の南京占領へと拡大していった。


蒋介石の軍隊が真剣に戦いだしたのは上海戦からであり、南京が危うくなって初めて紅軍との積極的な協力に同意したのであった。

朱徳将軍と周恩来は、8月9日、紅軍と共産党の代表団を連れて南京に飛び、国防参議会の会議に出席した。


9月6日、紅軍の三個師団が朱徳将軍を総司令、彭徳懐を副司令とする国民革命第八路軍に改編された。

この三個師団(第115師団、第120師団、第129師団)には一挺の新しい銃器も補給されず、供給された医療品も結晶ヨード3ポンドとアスピリン錠2ポンドだけだった。

だが三個師団分の弾薬と金は供給された。

この選りすぐりの四万五千で編成された三個師団は、ただちに山西省の前線に向かって出発した。

彼らはまだもとの紅軍の制服と軍帽をつけていた。

毛布一枚交付はされなかった。

蒋介石軍のひとりの中尉があとで皮肉まじりに私(スメドレー)にいったものだ。


「赤の連中は、これまで鉄砲もその他の給与もすべてわれわれ国民党軍から取ってきたと自慢していた。こんどは同じように日本軍から取ったらいいだろう」


私(スメドレー)は八路軍が前線に出発してから1ヶ月後に、五台山で朱徳将軍の司令部に加わった。

山西省の東北部にある五台山は当時日本軍の後方になっていた。

9月25日と26日、林彪の指揮する第115師団は長城の平荊関で日本軍と戦って、中国最初の勝利を勝ち取った。


一方この間、南京の共産党側は、紅軍主力が長征に出た後に江西や福建に残った紅軍遊撃隊の集結を蒋介石に承認させようと交渉を続けていた。

しかし南京が陥落し、二十万の市民や捕虜が虐殺された後になって、やっと軍政部長は命令を出して、紅軍遊撃隊に揚子江下流地域に集結して新四軍を編成せよといった。


紅軍遊撃隊のやせ細ったぼろぼろの農民たちが元のソビエト地区の山を出て行軍してゆくと、地主や民団がいたるところで待ち伏せして狙撃したり殺したりした。

指揮官の頂英と陳毅は歯をくいしばって、部下に一発も射ち返すなと命令し、夜間行軍で危険な地域を通りぬけた。


1万1千の新四軍は1938年4月安徽省南部に集結を完了し、葉挺将軍の指揮下に置かれ、頂英は副司令となった。

陳毅は師長になり、南京地区に浸透するためすみやかに行動を起こした。
新四軍は揚子江に沿う幅約50マイル、長さ150マイルの戦闘区域を割り当てられた。

軍政部はあざやかな計画をしたものだ。

新四軍は日本軍に対する機動作戦の場合でも、その区域から出ることを禁止された。

一方背後の南京地区には、かつてソビエト地区の掃討に使われた上海南京ギャングの配下の部隊が配置されていた。

国民党秘密警察の親玉の載笠将軍を最高司令に頂くこのギャングの部隊は装備も給与も格段によかった。

彼らの任務は新四軍を閉じ込めておいて、進出してくる日本軍の矛先に直接追い込むことであった。


事情に通じた中国人や外国人から見ると、国民党がこれまで出来なかった八路軍と新四軍のせん滅を日本軍にやらせようと期待していたことは疑いなかった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-25 09:53 | 朱徳の半生

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国民党軍事使節団の延安訪問の後、私(スメドレー)は紅軍の兵隊は統一戦線をどう思っているでしょうかと朱将軍に尋ねたことがあるが、彼は非常に率直に答えてくれた。


「わが軍の兵隊は、労働者と農民となのだ。
彼らは知識人や文化人ではない。
そのイデオロギイは、紅軍イデオロギイだ。
農民や労働者として、心から地主や軍閥を憎んできた。
だから、以前にはどうやるかということがよくわかっていた。
ところが今になって、日本帝国主義と戦う意思をもつすべての人といっしょにやれ、といわれても、なかなか難しい。
そこで、彼らを再訓練するため、数百人の幹部を延安に召集して、抗大(紅軍大学)で、統一戦線の原理と戦術とに関する特別の訓練課程を受けさせている。
この課程をおわると、彼らは部隊に帰って、ほかのものを訓練することになる。
わが軍は、統一戦線実行の模範にならなければならない。


「これまでは『われわれは労働者農民の子、労働者農民の利害はわれわれの利害』というのが、主な紅軍規律だった。
これからは『われわれは中国国民の子、国民の利害はわれわれの利害』といわなければならない。
われわれは、もし中国が日本の植民地になったならば、国民党も共産党もなく、奴隷のような国民が残るだけだということを、兵隊にわかるように教えなければならない。
たえず最後の目標に眼をむけて、右翼または小児病的左翼からの誘惑や敵意に迷わされないようにしなければならない」


まもなく延安は、全国いたるところからたえず流れ込んでくる数千人の青年でいっぱいになった。

彼らを収容するために、新しい学校を作らなければならなかった。

陝北大学、魯迅芸術学院、西安に近い紅軍前線の特殊学校が創設された。

毛沢東と朱徳は、他の指導員と同じように何とか時間を作って、新設の学校で講義をしたが、朱将軍はやはり抗大の講義に一番多く時間をささげた。


延安はもともと小さな町で、これほど大勢の人間は収容しきれなかった。
住居不足を解決するため、谷に沿った黄土の崖を掘り始めた。

これまで肉体労働をやったことのない学生たちが、つるはしやシャベルを取り、兵隊と協力して、この地域全体を洞窟住民の小都市に変えていった。

戦争が始まった後には、延安は人口五万の小都市に発展した。


反動の堅い殻にもあちこちひびが入りだした。

4月には、上海の印刷技術者の一団が新しい印刷機を携えて、西安から紅軍のトラックで乗り込んで来た。

これまで貧弱な印刷だった『新華日報』が面目を一新し、4月20日には共産党の中央機関紙『解放日報』が創刊された。


この新しい『解放日報』の巻頭論文はスペイン内乱に関するものだった。

それは朱徳が書いたもので、彼の主な論文と同じように歴史的な意義のあるものだった。

はじめに民主主義のためのスペインの長い闘争について述べ、それに続いて、


「今日のスペインでは、十万のイタリアとドイツとのファシストたちが戦っている。
……スペインは自身の独立のため戦っているばかりでなく、西欧がドイツとイタリアの手中に落ちるのを防ぐためにも戦っているのだ。
……スペイン人民は、国際民主主義部隊――アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ポーランド、ロシア、その他の義勇軍――に支持されている。
……中国でもスペインのような内戦になると考える人も多いが、中国には対日戦争のための統一戦線があるから、スペインのような内戦はない。
中国で内戦をかき立てようとするものは、日本人を手助けするものである」


中国では、もとソビエト地区が改編されてできた特別行政辺区だけがスペイン共和派に対する支持を声明した。

その後しばらくして、スペイン共和国政府から送られたポスターが陝西省の町や村の壁に貼り出された。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-05-24 22:18 | 朱徳の半生

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朱将軍や毛沢東と二人の幕僚たちは延安でほとんど絶え間なしに会議を開いた。

周恩来を長とする共産党代表団が南京に出向いていた1937年2月に、朱徳と毛沢東はそれぞれ共産党と紅軍を代表して、南京で開会中の国民党の国民党中央員会に長文の電報を送った。

民族統一戦線の結成を訴え、国民党が国内の民主的改革を行うならば、大きな譲歩をしてもいいと呼びかけたのである。

もし統一戦線が作られ、紅軍が国民党軍と同じ待遇を与えられるならば、紅軍は名前を変えて、中央軍人委員会の全般的指揮の下に入るというのであった。

さらに国内のあらゆる人材を抗日闘争に引き込むため、地主所有地の没収を中止し、西北のソビエト地区を共産主義者が管理するが中央政府の指揮下におく特別行政区に変えることも申し出た。

そしてこの地区では孫逸仙の綱領と政策を完全に実行するつもりであると声明した。


共産党と紅軍はこれらの譲歩と引きかえに国民党を督促して、大衆の市民的自由を回復させ、命をかけて戦う値打ちのあるものを大衆に与えさせようとした。

また彼らはすべての政治犯を釈放し、抗日闘争のための組織と武装を人民に与えなければならないと主張した。


しかし、統一戦線が具体的な形をとりはじめたのは数ヶ月たってからだった。

国民党は共産主義者の申し出を降伏と解釈し、この機会をうまく利用して紅軍をつぶそうと企てた。

国民党は紅軍の七個師団のうち四個師団を解体して、残りの三個師団を国民党将校を入れた新たな軍隊に再編成することを要求した。

共産主義者は彼らの軍隊の解体には絶対に反対し、そのかわり国民党軍と紅軍との間で将校を友情の証として交換することを提案した。

この提案に動揺した国民党はひどく熱い焼酎をつかんだ時のように、あわててこの問題を取り下げた。


こうした国民党の策動について私(スメドレー)と話をしていたとき、朱将軍ははっきりいった。


「もし国民党の提案を承認したならば、わが軍はつぶされるだろうし、日本に対する抵抗は問題にならなかったろう。

蒋とその一派は、日本と戦うことなど本気で望んでいない。

だが、戦わなければ、紅軍その他の抗日軍隊や中国民衆の手で、おのれが歴史の舞台から一掃されることを、蒋は知っている。

わが軍は三個師団分の補助金や弾薬で我慢しなければならないかも知れないが、あとの四個師団を解体しようとは思わない。

というのは、まもなく日本との戦争が勃発することははっきりしているし、そうなれば、国内のあらゆる人力と資源とを勝利のために動員しなければならないことは明かだ。

国民党は、口径の如何をとわず、新しい銃器の供給を拒絶した。

また衣料や毛布や薬品も拒絶した。

われわれが与えられるのは三個師団の金と弾薬とがせいぜいだろう。

「しかし、戦争がはじまれば、わが軍の部隊は全部前線にゆく。

われわれは、いつもそうしてきたように、人民のなかに根をはやして、彼らを動員し、訓練し、武装し、教育する。

われわれは生きのびて戦うのだ」


この会話をしてまもない頃、国民党の軍事使節団が紅軍を視察するため西北に到着し延安を訪ねた。

私(スメドレー)も胡宗南が西安を接収したときに逃れて延安に入っていた。


国民党軍事使節団は延安に一週間滞在していたが、私(スメドレー)は、そのあいだ朱将軍が十年間も彼に戦争を仕掛けた将軍たちや大佐たちの接待を務めるのを見ていた。

そういう時の彼は私がこれまでに知っていたぶっきらぼうで単純な兵隊ではなく、旧い社会秩序の上品さがすっかり板についていて、しかもまわりくどさやお世辞の伴わない人柄にみえた。

その上品さの底には威厳と重厚さと自信のきびしいものが流れていた。
私も列席した国民党の将校たちを迎えた最初の朝食会の席で、彼は次のような飾り気のない言葉で歓迎の挨拶をした。


「本席は、幾百万のわが国最良の子弟が死んだ、血で血を洗う兄弟殺しの十年が、いま終ったことをしめす歴史的な時点であります。

この民族統一戦線が、数年前に成立していたとするならば、中国の人力や天然資源は濫費されなかったでありましょうし、領土を失うこともなかったでありましょうし、今日われわれは日本と対等に戦えるほど強くなっていたでありましょう。


「中国は弱くて日本と戦えない、という人がいまでもあります。

そうではありません。

われわれは、戦闘のまっただ中で、わが国の人民を動員し、訓練し、武装することができるのです。

紅軍の歴史がこのことを証明しております。

われわれは、中国の人民をおそれていません。

中国の人民は善良なひとびとです。

ただ抵抗戦争の原因と目的とを説明してやり、生活問題の解決を助けてやりさえすれば、よいのです」

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-05-24 13:16 | 朱徳の半生

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「西安事変」の詳細はまだまとめられていない。

後に蒋介石夫妻の名で1937年に刊行された『西安回顧録』も事実を語っていない。

蒋介石は否定しているが、西安事変によってすでに実現していた内戦停止と抗日民族統一戦線の結成について共産党と交渉を始めることに同意していた。


蒋の抑留は全世界の反動たちの活動を促した。

満州と華北の日本の将軍たちはただちに天津に集まって秘密軍事会議を開いた。

全面的中国占領の時機が来たかどうかを決めるためだったことは疑いない。

夫が前駐華大使だったムッソリーニの娘は狂気のように青年元帥に打電して、蒋の釈放を求めた。

アメリカ、イギリス、フランスなどの外交官も本国との情報連絡に狂奔していた。

中国にあるアメリカや国民党の放送局は、朱徳将軍が西安に乗り込んだとか、城壁に赤旗がひるがえっていたとか、紅軍が西安の北部で掠奪、虐殺、かよわい女たちの強姦をほしいままにし始めたという内容の放送をした。


ナチのドイツではもっと手のこんだ陰気な事件が起こっていた。

南京政府の前行政院長汪精衛は何年か前に十九路軍を裏切った時に青年将校に狙撃されて受けた傷の治療のためにドイツに来ていた。

蒋介石逮捕のニュースを耳にするとすぐ汪はベルリンに急行して、ヒトラーと相談した。

ヒトラーは蒋が西安で処刑されるだろうと予想し、汪に南京政府の実権をとらせて、中国を枢軸陣営に引き入れようと彼を飛行機に乗せて本国に送りとどけた。


中国を枢軸側に引きずり込もうとするこうした国際的な動きがあったことが、当時モスクワの新聞社説で蒋の逮捕を「日本の陰謀」と決めつけた理由を説明することができる唯一の事情ではないかと思われる。

このモスクワの非難は東北軍のあいだに大きな反感を生んだ。

しかしまた、この非難は、この際蒋に危害を加えることはファシストを援助することになる点をモスクワが危惧しているということを共産主義者にはっきりわからせたのだった。


蒋が釈放されたのは、日本帝国主義にたいして中国の救国に努力することを誓ったからであった。


12月25日、青年元帥は自分の「誠実」を証明するため蒋を釈放し、同じ飛行機で南京に飛んだ。

青年元帥はそこで裁判にかけられ禁錮の判決を下されたが、すぐ特赦で釈放された。

身に受けた侮辱を犯罪視する蒋介石は、「青年元帥」をとらえて浙江省の彼の郷里の家に監禁した。

この時以来青年元帥は蒋介石の個人的な囚人になってしまったのである。

蒋の釈放とともに、民族統一戦線結成のための長い苦悩に満ちた闘争が始まった。

青年元帥を失って志気沮喪した東北軍は、まもなく蒋によって解体されて全国にばらまかれたが、いくつかの師団は後に紅軍に加わった。

1月半ばに極右翼の胡宗南将軍が西安を接収し、愛国者たちは四方に散り、ある者は紅軍に加わり、ある者は華北の元の場所に帰って闘争を続けた。


延安は全国の抗日運動の中心地になった。

労働者、学生、学者、文化指導者などが次から次へと陝西省北部に流れ込んだ。

彼らは、この当時でも「日本は皮膚病だが共産主義者は心臓の病気だ」と敵意を公言していた国民党軍隊を避けるため、大迂回してやってくるのであった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-05-23 18:01 | 朱徳の半生

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蒋介石と彼の幕僚は軍事会議を開くため、1936年12月7日西安に到着した。

蒋は郊外の硫黄泉臨潼に入り、参謀たちは城内の西安招待所で宿泊した。
情勢は「政治的に絶好」と朱徳がいいそうなものになっていた。


蒋としては、もう一度大規模な掃共戦をやるには、まず日本としか戦わないと決意している東北軍を抑える必要があった。

この「破壊的な」傾向を変えるには、総統はまず西北における彼の副司令である「青年元帥」張学良を処置すべきであろう。

以前から張学良は、民主主義という「危険思想」を抱いたり、日本を中国から追い出す必要を説く青年たちに取り巻かれていた。


青年元帥と彼の幕僚も腹を決めて蒋を迎えた。

彼らは、内戦を続行せずにすべての中国軍隊の抗日統一戦線を作る計画を起草していた。

その十項目〈八項目?〉の綱領では、中国人民に市民的権利を与えること、抗日運動に対する一切の法律や制限を撤廃すること、政治犯を釈放すること、孫逸仙の遺志を実行すること、各党各派をふくむ救国政府を樹立することなどを要求していた。


蒋総統はそうした計画を討議する全体会議を召集せず、東北軍最高幹部を一人ひとり呼びつけて、青年元帥を廃して掃共戦に出動するように地位と金を餌にして誘惑した。


だが、蒋の勧誘に乗ったのはたった一人だった。

しかもその一人の将軍もまもなく若い東北軍の将校に暗殺された。

他の者はみな、日本が彼らの故郷を占領し家族を殺したこと、東北軍が望むことは同胞との戦いではなく、日本との戦いであることを総統に強く告げるのであった。

しかし蒋は頑として意を翻さなかった。


そこで12月11日の明け方、張学良の部隊は行動を起こした。

蒋介石が連れて来た秘密警察と国民党のそれぞれの本拠と、蒋の任命した陝西省政府主席邵力子の邸宅を襲って、全員を逮捕した。

蒋の参謀たちの泊まっている西安招待所を襲った一団は、将校たちをベッドからたたき起こし、自動車に詰めこんで、青年元帥の司令部に連行した。


西安で機関銃や小銃の音がする頃、若い東北軍将校が部隊を連れて臨潼に急行した。

そこで全国で最も憎まれていたファシストの一人であった蒋介石の甥と彼の護衛を射殺した。

蒋介石は寝衣のまま逃げたが、捕らえられて、西安の張学良元帥と楊将軍の所へ運ばれた。

蒋介石総統は西北の抗日軍隊の要求を相談するために抑留すると言い渡された。


西北各地の東北軍は、蒋が内戦のために持ち込んできた弾薬、食糧、衣料など一切の物資を差し押さえた。

同時に紅軍は西安から数マイルのところまで進出し、省を横切って歩哨線を敷く一方、朱徳と毛沢東は北方の延安を占領して本拠をそこに移した。


国民党や外国人は蒋介石の抑留を「誘拐」と呼んだのだが、それから三日後に西安に新たに軍事委員会がもうけられ、紅軍を含むすべての抗日軍隊は代表者を送るように勧誘された。

掃共戦のため西安飛行場に集められた二十五機の爆撃機や戦闘機を捕獲した青年元帥は、その一機を送って、紅軍代表を軍事会議に連れてきた。

紅軍代表団主席の周恩来は、蒋がしぶしぶ引き受けていた会談に新たに参加することになった。



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by far-east2040 | 2017-05-22 20:28 | 朱徳の半生

長征の終幕 長征④ー7

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以上のようにして、江西省寛田を出てから満2年1ヶ月と19日で、長征という一大叙事詩の幕がおりた。

再集結した紅軍の実勢力は8万で、1934年10月に江西を出発したときの中央軍の戦闘力とほぼ同じだった

西北の山野に集まったこの勢力は、歴史的に類のない独自の勢力だった。


紅軍の本拠は1937年1月から延安に移ったが、そこで張国燾は党中央委員会の審判にかけられた。

党の創立に力のあった彼自身が党の基本綱領と政策に造反したのだ。
張と彼の配下の少数の将校は、部下の将兵や彼が捕虜にした朱徳や劉伯承や他の参謀などの証言に対抗して自分たちを弁護した。


この審判で朱将軍は、彼自身が張からどのように扱われたかということには少しも触れず、張が紅軍と党との綱領や政策を犯した点だけを問題にした。

張は愛想よくしかも狡猾に朱徳に対する態度を陳謝し、誤りが矯正されるまで学習するという審判の決定に服した。


1938年の夏に抗日戦が始まった時、国民党軍事使節の一行が延安を訪れたが、彼らは帰るときひそかに張国燾を漢口に連れ去った。

張はそこで恐るべき秘密警察・藍衣社の首領載笠将軍の幕僚に加わったのである。


朱将軍とこの事件の話をしていた時、私(スメドレー)は何千という中国人が日本の中国征服を積極的に手伝っていることや、共産党創立者の一人さえも秘密警察に加わって、中国の進歩主義者を狩り立てる結果になったことを嘆いた。


朱将軍はこんなふうに答えた。

中国は百年のあいだ帝国主義列強の半植民地であった半封建の国である。

この一世紀の間、中国の政府は西欧帝国主義の卑しい道具だった。

北京や南京や上海は国の利益を最高入札者に売りわたそうとする反逆的陰謀の後方基地だった。


確かに中国には革命途上のほかの国より多くの反逆者がいると彼は認めたが、それは中国の領土や人口が大きいからだというのである。


アメリカも革命戦争の時には多数の反逆者を出したことを私(スメドレー)は思い出した。


「そのことは学校では教えないだろうが、あなたの国の解放戦争では、大勢のアメリカ人が、イギリスの暴君に積極的に奉仕した。
スペインをヒトラーとムッソリーニとに売りわたしているフランコやその手下どものことを考えるといい。
資本主義列強に身売りして、十月革命のあいだ自国の人民と戦った白系ロシア人のことも考えるといい。
インドや朝鮮の状態をみるといい。
世界中を見わたしてみなさい。
権力と金のために、いつでも自国民を裏切る連中が、どこにもいることがわかるだろう。


「われわれの党も反逆者を出した。
中国の革命は長距離をゆく列車のようなものだ。
途中で降りるものもあり乗り込んでくるものもある。
だが大部分のものは終着駅まで乗ってゆく。
張国燾は右翼機会主義者の政策について行って、わが軍に重大な損害をもたらした。
しかし、わが党の正しい指導と、わが軍隊の政治的自覚と忠誠とが、結局彼の政策を匡正し、軍と党とを強化したのであった。
張のような人間が、さらに多くの人々を殺すかも知れないが、歴史の流れを変えることはできない。
わが党とわが軍とは、革命の勝利を実現するであろうし、それはあらゆる植民地の抑圧された民衆に、いや全世界の民衆に影響を及ぼすであろう」

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋




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by far-east2040 | 2017-05-22 15:19 | 朱徳の半生

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1937年10月26日シャオ・ホ・チェンで、この地方にいる全紅軍の大集会がもたれた。

林彪やその他の指導者が立って、西北の情勢、紅軍と白軍の配置、日本軍の綏遠侵入などについて詳しく報告した。

蒋介石は、胡宗南と王均が率いる十個師団を甘粛省に送って紅軍と戦っていた。


紅軍は数ヶ月前にこれらの師団に向かって抗日戦線の統一を呼びかけていた。

「青年元帥」張学良は、蒋介石の厳命によって、引き続き部下の東北軍に紅軍との戦闘を命じていたが、逆に紅軍に加わる部隊も多くあった。
紅軍には全員元東北軍騎兵から編成された騎兵師団さえあった。


毛沢東は、すでに10月20日には命令を出して、自衛のためやむを得ない場合のほかは国民党部隊との戦闘をやめ、もっぱら宣伝を強化するように紅軍に伝えていた。

また、東北軍を紅軍に編入することもこれ以上やらないように命じた。
10月27日には、紅軍はいたるところに統一戦線のビラを貼ったうえで、敵軍の前面から撤退し始めた。

胡宗南将軍はこれに対して兵力を増強して押していった。

アメリカ人医師ジョージ・ヘイテムの日記は、それに続く事態の経過をありありと伝えている。


「10月29日。

胡宗南軍の四個師団がわれわれを包囲しようとしているというニュース。

われわれは敵の正確な位置と計画を知っている。

本日胡宗南騎兵指揮官の一人がわが司令部に来て『明朝11時基地で紅軍を攻撃せよ』という命令を受けたと伝えた。

胡将軍は飛行機に搭乗して白軍を監視するので、『私自身も見せかけの戦闘をせねばならない』と彼はいい、攻撃開始五時間前の午前六時にわれわれが彼の地区を通過するようにと助言した。

このためわれわれは計画を変更して、日中の急行軍を開始した。

敵機がわれわれを発見して爆撃を始め、多くの小さな集落を破壊した。


「10月30日。

紅軍士官学校での朱徳の第一回目の講演を聴く。

明快にきびきびと語った。

熱情的で、将来に確信を持っている。

学生たちに来るべき抗日戦において中国の当面する偉大な任務に応ずるため、日夜学習するよう訓示した。

賀竜も話をした。

何と張り切って話しをする人だろう。

声量のある明瞭な声で身振り手振りいっぱいで話す。

そして意気阻喪した者や虚脱した者の戦闘精神を呼び覚ます。


「11月1日。

党西北局にゆく。

……そこで10月3日付の天津『大公報』を見ると、毛沢東の率いる紅軍が徽県で惨敗したと書いてある。

徽県では朱徳の軍が戦闘なしに集結したのだ。

そのとき毛沢東は千三百里離れた保安にいた。


「11月3日。

空襲があって、部隊と共に最近紅軍に移ってきた東北軍二個連隊の指揮官たちと洞穴に退避した。

空襲の間、3時間も彼らと話をした。

彼らと彼らの部隊は抗日民族統一戦線を望んでいる。

後でその部隊と話をした。

統一戦線綱領を普及するため、紅軍が彼らを元の東北軍に送り返すことを決めたので、彼らは悲観して意気消沈している。

その両連隊を丘の斜面に集めて朱徳が話すのを聴いた。

朱は、彼らが元の隊に帰って、同僚を抗日統一戦線に転向させることがいかに緊急事であるかを説いた。

朱は芝居気がなく、きわめて真面目で、説得力のある話し手である。

考えを注意深くまとめ、教師のようにたびたび繰り返しながら、ゆっくりと明快に述べてゆく。

思いあまった悲しげな面持ちの兵隊たちがその後で彼のまわりに集まった。

朱徳は慈父のようだ。

すべての兵隊を愛している……


「11月9日、10日、11日。

第一、第二、第四各方面軍司令官が連日朱徳や参謀と会合。

蒋の軍隊は依然として集中しつつあるが、われわれはもう後退しない。
戦闘を前にした息詰まるような数日、方々で紅軍戦士の集会が開かれ、なぜわれわれが広い地域から撤退してきたかが説明される。

それは抗日戦に向けてあらゆる部隊を出来るだけ傷つけたくなかったためであり、敵を統一戦線側に獲得するためでもあった。

王均将軍が飛行機の墜落事故で死んだ。

われわれがその死体を見つけた。

朱徳は四川にいた頃、この男を見て知っていた。


「11月23日、24日。

紅軍は爆撃機の来ない夜明けに攻撃を行った。

寧夏大平原からくる身を切るような寒風が吹き通していた。

手指は凍えて、引き金を引くのも手榴弾の蓋を取るのも、思うようにならなかった。

そこで銃剣突撃を敢行した。

敵兵をひっつかんで武装解除した者も多かったし、すりこぎ状の柄のついた手榴弾を棍棒がわりに使って敵兵を頭からたたきふせた者もいた。
紅軍騎兵(元東北軍)は支離滅裂になって逃げる白軍の連隊を追撃した。

敵兵の死体が数マイルに渡って路上に散らばっていた。

私はある谷のはずれで百五十の敵兵の死体が重なっているのを見た。

その他の場所でも数百の死体を見た。

また数百人の敵兵が渓谷や空井戸に落ちて死んだ。

われわれは綱で死体を引き上げるのに一日かかった。


「捕虜と話をした。

彼らは湖南から鉄道で連れて来られたが、日本と戦うために綏遠に送るといって連れ出されたのだという。

紅軍と戦うために列車から降ろされた時には、俸給を二倍やるといわれたけれども、もらったことはない。

ファシストが部隊中に入り込んでいて、紅軍の残虐行為を吹き込んで、兵士たちをかりたてているという。

捕虜たちは今では大事に扱われ、毎日講義や芝居を見聞したり、わが軍の兵士と接触したりして啓蒙されている。

胡宗南将軍は陣営の立てなおしをやっている。


「12月3日。

私はソビエト政府と紅軍の本拠である保安に帰っている。

朱将軍や毛沢東や参謀たちは会合して長時間討議した。

人々が張国燾を『口先のうまい男』と噂しているのをきく」

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by far-east2040 | 2017-05-22 10:51 | 朱徳の半生