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国家的偉業をなした人物の伝記はたくさん出版されてきている。

『偉大なる道』で描かれている朱徳についても中国では国家的事業としてたくさんの伝記が出版されてきているはずだ。

ただし、偉大なことは教育を通じて認識しているけれど、もう過去の人物として普段の生活では忘れられた存在だろう。このあたりの実感はよくわからない。

毛沢東や周恩来など他の革命の指導者の伝記もそうだと思う。


朱徳の最後の夫人だった康克清は革命に参加するまでは文盲で地主の畑の農作業に従事していた人なので、中国で伝記が出版されていることがネットでわかったときは読んでみたいとは思った。

中国語がわからないので無理な話だけど。


朱徳たちが生きた時代からみたら信じられないぐらい豊かな大国にのし上がってきている中国では、こういう革命世代の伝記なんて「もう古いもの」としてほとんど読まれていないと想像する。

実際古い話だ。
古い異国の人物にこだわる私はつくづくはぐれ者だと思う。


国家的事業で書かれた政治家の伝記は読む気がしない。
どうしても実際よりも美化したり、悪い面はトーンダウンしていい面を強調しているように勘ぐってしまうからだ。。

だいたいこの種の伝記は出版はされても、さほど読まれないと思うのだが。

政治家とくに旧共産主義国の功労者としての政治家や宗教団体の教祖の伝記モノとか。


司馬遼太郎は膨大な資料の読み込みと行動で独特の作品群を産みだした作家で、紀行文は好きで親しんだ時期があった。

坂本龍馬を扱ったフィクションは残された資料に基づくこの作家の知性による創作人物であり、娯楽として楽しむ以上のものは期待できないと思っている。


『偉大なる道』を司馬遼太郎の作品と比べるのも無理な話だけど、あの時期に革命途上にある人物から直接または周辺から参考になる話を聞いて、自分のジャーナリストとしての見識を動員して編集したという点で重ね重ねすごく希少価値があると思うのだが。


アグネス・スメドレーは1892年生まれで、中国人の農民を描いた『大地』の作家パール・バックと奇しくも同年齢でしかも女性ということも共通している。

生い立ちはかなり違うが、中国を愛しているという点でもどちらも引けをとらない。

バックは1931年から1935年に出版された『大地』の三部作が評価され、1938年にノーベル文学賞を受賞している。

ぱっと出て、さっと賞をもらったという感じ。


スメドレーはこの『大地』を読んでいたかどうかわからないけれど、これだけ有名になっていたので、中国の農民の生活をきめ細かく描いた作品ということは知っていただろう。

バックは両親がキリスト教の宣教師で幼い頃から中国で育ち、英語と中国語のバイリンガルで、中国の名前を持ち自分は中国人と思っていたぐらい中国社会に溶け込んでいた人だった。


私は中学生ぐらいの頃に彼女の三部作は読んでいて好きな作品だったので、『偉大なる道』を読んでいるときこの『大地』を想い出すことが何度もあった。

フィクションだけれど、バックが描く中国の貧しい農民、そこからのし上がっていく一族の個々の姿が『偉大なる道』に出てくる人物たちと重なって、中国人でない作家がここまで創作して描けれることに感心しながら振り返れたものだった。


スメドレーの『偉大なる道』はフィクションではない。

実在の人物からいい話も答えにくい話も時には沈黙という形で直接聞きとりしているだけに迫力やためらいなどが伝わり、ノンフィクションならではの読み応えがある。


スメドレーが朱徳に聞き取りを申し出た理由の1つは中国の農民がかつて外部の世界に向かって口を開いたことがないという確信だった。

フィクションではなくて、直接の聞き取りを活字にして発信したかったのだと思う。
だから女性ならではの衣食住にわたる生活の細かいことも聞き取りできている。

このあたりバックの『大地』を少し意識していたように感じる。


エドガー・スノウというジャーナリストが同時期に延安で毛沢東に直接聞き取りをした『中国の赤い星』という本も一時期有名だったらしい。

もちろん最盛期のアジア図書館で一覧できる中国コーナーには何気なく並んでいた。


残念ながらこの本を手に取る機会がなかった。
スノウが女性だったら、読んでいた可能性は高い。

『偉大なる道』よりも、イデオロギーが強く出た作品になっているらしいとどこかで読んだことがある。

中国共産党を全世界とくにアメリカに広く好意的に紹介したことで有名な作品らしい。


スメドレーの『偉大なる道』をアメリカで出版できるように骨折ってくれたのもスノウだった。この本の価値がわかっていたのだ。

彼女は全米でマッカーシズムが吹き荒れる最中に遭遇したので、出版どころか住む家を見つけるのも困難な情況に追い込まれ、結局イギリスに向かった。


彼女が日本で出版されることを知ることなくイギリスで1950年に亡くなり、その骨は中国に埋められていることはよく知られている。
その墓石の文字は朱徳自らの揮毫によるものだ。


なおスメドレーは共産主義に共感を持っていたことは行動と主張から事実である。

経済的な援助を含めて当時のソ連の機関とある程度の接触があったと考えても不思議ではない。


有名なゾルゲ事件の関係者で戦中に死刑になった日本人ジャーナリスト尾崎秀実とは中国で愛人関係だったとどこかで読んだことがある。

尾崎秀実は日本に妻子がいる身だった。

元は兄嫁だった妻と娘に獄中から書いた手紙が『愛情はふる星のごとく』という題で出版され多くの人に読まれたらしい。

情熱的な人だ。

愛人関係か事実上夫婦だったかどうか事実は知らないが、どちらも異国で共感するものを持つジャーナリストであったことを考えると、十分ありえると個人的には思った。

スメドレーもゾルゲ事件の関連からだろうか、当然スパイ扱いされたらしく、そのことでも戦ってきた。
政府からの嫌がらせはひどかったらしい。
ゾルゲ事件については現在定説になっていることもほんとうの所はどうだろうかと私は思っている。
すっきりし過ぎている感じがする。


で、スメドレーがあの当時どんな主義を持つ人だったかなんてあまりこだわりがない。

『偉大なる道』を残した事実と彼女の見識、良心、勇気にただ感服している。



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by far-east2040 | 2017-06-19 17:22 | 朱徳の半生


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アジア図書館の貸し出し業務をする傍ら、手が空いたときは、B6サイズのぺらぺらの登録カードに書かれた古本の情報を、パソコンに入力していく作業をしていた。

この作業は現在もボランティアの人たちに助けられて続いているはず。


登録カードに題名、著者、編者、出版社、どの国や地域のどういうジャンルの内容かを把握して分類コードを記入していく作業で手書きだった。雑誌なども特集記事内容で分類していたので、記事名を題名にして登録していた。


市民から持ち込まれた雑多な古本の登録なので、どうしてもこういう手作業が必要になってくる。これを私が一枚一枚パソコン画面に入力していた。


パソコンの環境設定は詳しいボランティアの人がやってくれていたが、OSはまだウインドウズではなくてMS-DOSだった記憶がある。そういえば、日本語変換プログラムももっぱら一太郎を使っていた。

若いからこつこつやれたことで、辞めてから頚椎を傷めていることがわかり治療に時間もかかったので、この作業を思い出すとちょっと複雑な思いを持ってしまう。


当時この登録カードを主に作成して下さっていたのがAさんというボランティアの方だった。
私の父親ぐらいの年齢の方で、ご自分の会社経営は他の方にまかせて、冷暖房設備はなくて、夏は扇風機で涼を取り、冬は石油ストーブで暖を取る倉庫のような作業場で、平日は毎日登録カードを作成しておられた。歴とした老舗の会社の「社長さん」であり、アルコールも相当好きな方だったと聞いていた。

会社には居場所をちゃんと教えていたので、たまに会社から電話がかかってきて「社長」の顔になっていたとのこと。こんなことが陰で話題になるぐらい、社長という別の顔を持っている人には見えなかった。

作業場への「通勤」には長年使ってきたよれよれの風呂敷を使い、中は読みかけの文庫本や自作の短歌や俳句を書いたメモ類や大学ノートだったと記憶している。
 
ほとんど感情を出されない方だった。飄々として疲れたら好きな本を読んだり、たばこをふかしたり、ぶらっと外に出て気分転換されていた。マイペースでちょっと「浮世離れ」した方だった。同じ空間にいても別世界にいるような感じもした。今思い出すとおかしさがこみ上げてくる。

Aさんの書いた登録カードの字が読みづらいものだった。直接はいえないので、事務局長を通じてもう少しわかりやすく書いてほしいと頼んだような記憶もあるが、あいかわらずだったような気がする。
昼間からアルコールが入るときもあったのだから、仕方がなかった面もある。ときどきデータ入力作業を中断して、カードとにらめっこしていたのがなつかしい。 

こちらが読み取ろうとする集中力を少しでも失えば、とたんに読めなくなる字というしかない。つまり達筆なのである。訊いて教えてもらって初めて「ああ、そうか」と思わず言いたくなる字。わかってしまえば、それまで波打っていた字が意味のある文字に見えてくるから不思議。
 
私が納得した顔を返すと、そばでAさんはにこっと笑っていたものだった。ご自身をひけらかすタイプではなかったのだが、出版物に関しては相当な知識を持っていたように思う。そういう知識がなければ、やれない作業でもあった。


作業場の最寄り駅は大阪の下町で商店や住宅が密集した地域にあり、新幹線の高架下。作業中に新幹線が通過するたびにゴーという音が鳴った。風呂敷包みをぶら下げて、ちょっとアルコールが入ったような足取りで歩くAさんの姿は目立つようで案外目立たなかったかも知れない。
 
もうお亡くなりになっているが、アジア図書館にいた頃の私の思い出の中で音を立てずに静かに存在している。



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by far-east2040 | 2016-07-21 10:00 | アジア図書館