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動画の中の肥田舜太郎氏は94歳だから、現在99歳!

放射能に対する感受性は個人差があることは知っていたが、この方は実際広島で被ばくされたのに、この歳までしっかり生きてきておられる。どうしてかしら。

あとこの映画「純愛物語」に出てくるような悲劇はこれから増えそうな気がする。 
社会の不安定さも戦後まもない頃と豊かさを除いたら、似ていなくもないし。



                         2011-05-14  公開

前回エントリーで紹介した福島から避難してきた女性の前に講演された方が、広島で自らも被ばくした医師である肥田舜太郎氏であった。この方は94歳であるにもかかわらず杖だけでずっと立ちっぱなしで講演された。しかも背筋がまっすぐで矍鑠としていた。

「内部被ばく」や当事のアメリカがこれらの症状が明るみに出されることを避けたという政治的事情について学ぶことが多い。原爆に落とされた後に広島・長崎に入って被ばくするという「入市被ばく」とか、身体がだるくなって傍から見ればぶらぶらして怠けているように見える「ぶらぶら病」についても、直接医師として見聞きしておられるので説得力がある。

見終わってから、30数年前に観たある邦画を思い出したので紹介したい。
「純愛物語」という一見恋愛映画のようなタイトル。しかし広島の原爆も扱っていて薄幸のヒロインのけなげさが際立ち、今観たら泣けると思う。冷静に考えたら、反戦・反原発映画として秀逸のものに思えるのだが、何らかの規制があったのか、古くさいのだろうか。


Wiki
によると概要は以下のとおり。

広島の原爆で被爆した少女を描いた作品だが、舞台は東京。遠い広島のことを連想させるシーンは作品の中盤まで一切ない。いわゆる不良少年と不良少女の恋愛物語としてストーリーは展開していく。原子爆弾被爆者の医療等に関する法律が制定された1957年に作られた映画だけに、被爆者の問診風景では主人公の少女の他に、胎内被爆と思われる少年などが描かれるなど、シナリオを書いた水木洋子の鋭い視線が光る作品となっている。水木は、1955年から原爆関係の新聞記事のスクラップをつくっていたという。


不良少年と不良少女は江原真二郎と中原ひとみが演じていて、多分このお二人はこの映画の共演が縁で後に結婚されたのではないかと思わせるほど、お似合いのカップルだ。

Wikiによるあらすじは以下。

スリ集団の制裁から孤児のミツ子を救い出す同じ孤児という境遇の貫太郎。ミツ子はスリから足を洗う決意をするが、ふたりは共謀して再びスリに及ぶ。刑事に摘発されたふたりはそれぞれ更生施設に送られる。やがてミツ子の身体に異変が起こりはじめる。病変は、ミツ子が広島で育ったことと関係があるのだった


中原ひとみさんが演じるミツ子が更正施設でだんだん疲れやすくなって不調を訴え始める。周囲からは怠けているといじめられる。女性教官の計らいで外の医師の診断を受けるのだが、幼いころにおばあちゃんの背中におぶわれて広島に両親を探すために入ったことを初めて語る。
それからだんだんいわゆる白血病の初期症状が現れ始めて、施設を出て貫太郎と貧しいながらもいっしょに生きていこうとする中で亡くなるので、涙腺がみるみる緩む。


「直接被ばくしていないのに、こんなふうになるのか」という消化しきれていなかった問いへの答えを肥田氏からもらったような感じがする。
シナリオを書いた水木さんも新聞報道を通じて「入市被ばく」で亡くなるケースの存在を知っていたのだ。

良質の動画を見たとき、現在のネット環境をありがたく思う。


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by far-east2040 | 2016-07-01 21:21 | 被爆

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著者が社会人で大学に入り直して朝鮮語を学ぶ動機の一つが被害者から通訳なしに直接ヒアリングしたいためというのをどこかで読んだ。

子どもを保育園に預けながら、大学生活を続けるなんて、よほど強い信念がなければできなかったと思う。

この本を読んだとき、「そうかな?」と思うところもあったけれど、全体的には私にはとても貴重な本だった。



                          2010-07-16公開

副題はー「韓国の広島」はなぜ生まれたのかーである。
「韓国の原爆被爆者を救援する市民の会」の会長をなさっている市場淳子さんの著作である。1998年に前会長松井義子さんが亡くなられたので、その後を継がれたのだと理解している。

著者紹介から抜粋する。
「1956年、広島県生まれ。大阪府在住。1979年1月に初めて韓国を訪れ、在韓被爆者の実態に接して以来、「韓国の原爆被爆者を救援する市民の会」の活動にたずさわり、現在会長。大阪外国語大学、神戸女学院大学朝鮮語講師」

松井さんに講演していただいたときに、後継者としてこの方の名前を聞いていた。当時市場さんはまだ手のかかる子どもさんがいるのに大学に籍を置いて朝鮮語を学ばれ,と同時に「市民の会」の活動もなされていたということで、松井さんが評価されていたことが記憶に残っている。

その市場さんのこれまでの活動の報告と、「韓国の広島」と呼ばれている韓国慶尚南道陜川郡の歴史的・社会的研究をまとめられたのがこの本である。この本を通じて、いっそう原爆の使用に対して強い怒りを持つようになった。

私が在韓被爆者に関心を持ち始めた理由は個人的なものである。父方の一家の戦前戦中戦後の歩みを検証したいと思ったとき、祖父や祖母は亡くなり、父の世代も高齢になってきたり亡くなったりと、直接話しを聞く機会がなくなっていたからである。

故郷はどんなところか、日本に渡るとき、また帰国したときどういうふうに、どんな手段でと想像するものの、具体的にイメージできないことを残念に思っていた。

だから祖父の故郷が「韓国の広島」と呼ばれていることを知ったときは、在韓被爆者と祖父は何が違っていたのか、どうして祖父は広島を選ばなかったのかという疑問から資料を探すようになった。そういう理由で在韓被爆者の資料の一つとして、この本に出会った。この本は韓国語の文献からの引用もあり、参考になることが多い。

広島・長崎の原爆の被害への憤りを持つとき、私は日本人だけでなく朝鮮半島出身者も視野に入る。




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by far-east2040 | 2016-06-27 16:00 | 被爆

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こういう方に直接お会いできたこと今でもよかったと思っている。


祖国が解放された頃、亡父はふるさとに戻っていたので、広島から帰国してきた原爆被害者から直接原爆の恐ろしさを陜川(ハプチョン)郡のどこかで聞いている。

「電車が舞い上がった」と。

日本育ちの亡父は生々しい証言を聞いて、

「ああ、自分を育ててくれた日本がもうめちゃくちゃになったんだ」という感慨で胸がつぶれそうだったと。

機会があれば、知る人はもう誰もいないふるさとに一度訪ねてみたいと思っている。



                                      2010-07-16公開

在韓被爆者の救済に中心的役割を果たした「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の代表をなさっていた方である。

スタッフとして働いていたアジア図書館で企画した「アジアを囲む会」という集まりでお話しをしていただいたことがある。もう20年ほど前になる。テーマが硬いとやはり人の集まりは望めなく、この日もごく内輪の人の集まりになってしまった。

当時は「アジアブーム」といわれていた頃なので、テーマ次第では椅子が足りなくなるぐらい人が集まったので、裏方として申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし松井さんはほとんど気になさらず、それまでの活動のあらましに始まり、当時何が問題になっていたのかを講演してくださった。
* 
講演後は車で来ておられたので、スタッフと近所の喫茶店でお茶をご一緒した。
ちょうど真向かいにすわることができたので、
「ふるさとは陜川(ハプチョン)郡なんです」
と普段口にしない故郷の名前を出すと、
「韓国の広島といわれているところですね」
と即座に返してくださったのだが、会話がとぎれてしまった。

私もふるさとが「韓国の広島」と呼ばれていることは知っていて、
「そうであったかも知れないけれど、そうではなかったという立場」をどう表現すればいいのか、どうしても運がよかったということになりそうな気がして、ことばが続かず失礼してしまった。ただ活動に対して敬服していることを一言いいたかったのだが。

1998年12月に70歳で亡くなられたことを新聞の小さな死亡欄の記事で知った。確か葬儀もなさらなかったと記憶している。偶然参加していた集会で司会をされていた、きりっとした痩身の姿を思い浮かべて、あの方らしい生き方でしめくくられたという印象を持った。
* 
現在でも、密かにこういうふうに生きたいと思っている方のお一人である。
* 
後日、植民地だった「満州」の大連で生まれ、戦後無教会派のキリスト者として活動をなされた経歴を知った。著作も多いので紹介させていただく。

 『台所の聖書』 (聖燈社 1976
 『わすれなぐさ』 (キリスト教図書出版社 1985) 
 『平和のパン種』 (東方出版 1993
 『死ひとつひとつ』 (松井昌次・松井義子追悼文集)(松井謙介編
                            番紅花舎(さふらんしゃ) 2003




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by far-east2040 | 2016-06-26 09:29 | 被爆