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朱徳は国民党を組織したり小新聞を出したりするかたわら、ドイツの労働者の集会に出て発言したり、国際的なつながりを持つさまざまな会議にも顔を出すようになった。

またブルガリア革命運動弾圧のテロに抗議する会合に出たために2回も逮捕されるという経験もした。

最初に捕まったときは、中国領事館の要求によって釈放されたが、2回目のときは2日間牢獄に入れられた。

釈放後は、「植民地係」の刑事から自由になることはなかった。


1925年5月北京政府は中ソ新条約を結んだのだが、すべての外国の帝国主義者たちは、中ソ親善を妨げようとして横暴な行動を取ったとき、朱徳たちはベルリンで中国人大会を召集した。


その頃、朱徳の記憶では、一部のイギリス人やアメリカ人が黄禍論を騒ぎ立てて反中国運動を起こし、中国の自由と独立を主張したためにソ連を「白人世界の垣根の中の敵」と非難し、広東の革命政府を「過激派的なアナーキストの集団」と主張していた。


やがて孫逸仙博士の、北京におけるいたましい死が、1925年3月12日におとずれ、憂愁の気が世界のいたるところの、中国革命派の人々をつつんだ。


ベルリンでは朱徳たちは追悼会を開き、中国の解放に捧げた孫逸仙の40年の悲劇的闘争を紹介した中国語とドイツ語の特集パンフレットを出した。


外国の帝国主義者だけでなく、多くの中国人までが孫逸仙の死を喜んだ。

しかしベルリンの追悼会に集ったものはみな泣いたと朱徳は重々しい声で回想した。

長きに渡って中国革命を導いた孫逸仙の死によって、慕う人々は孤児のような寂しい境遇にとり残されたように感じた。

孫逸仙が偉大すぎて彼の地位を継げる人物はいなかった。

それどころか彼の死後、国民党内にもいくつもの徒党ができて、孫逸仙の革命への道を歪曲し破壊しようとするものが出てきた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-01-12 09:10 | 朱徳の半生

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上海に戻った朱徳と友人孫炳文は当時フランス租界に夫人とともに住んでいた孫逸仙の家ですごした。

朱徳が雲南省から脱走した時の仲間の金漢鼎将軍もいっしょだった。


朱将軍は、深い感動とともに、この偉大なる民族指導者との、最初にして最後の会見について回想する。


その時56歳だった孫逸仙は37年間を革命運動のなかで過ごしてきていた。

動作は機敏できびきびしていて、敗北につぐ敗北を経験していたのに、未来に対しては楽観視していた。


「謙遜な非常に誠実な人だった」朱将軍はいった。


孫逸仙は部下の一人の将軍に裏切られて広東から追われていたのだが、その広東を奪回してふたたび共和派政権を樹立しようと計画していた。

そために広西省にいる雲南軍に朱徳たちが戻り、再編成して援助してほしいと願った。

そのための準備金として10万ドルを渡せるといった。

金漢鼎将軍は申し出を了承したが、朱徳と孫は断った。


「孫博士は、われわれの拒絶の理由を、注意ふかくきいた。


朱徳たちは孫逸仙や国民党のこれまでの戦術をもう信用しなくなっていた。


「われわれは、孫博士に向って、われわれは外国留学の決心をしており、ふたたび中国の国事に入る前に、共産主義者に会い、共産主義を研究するであろう、といった。

香港の大ストライキの勝利、また全国の労働運動の勃興を見れば、共産主義者たちが、われわれの必要とするところの何ものかを持っていることは明白だった。


孫逸仙は共産党に対してはまったく偏見を持っていなかった。

そして外国へ行くなら進歩的な制度があるアメリカの方がいいのではと提案してきた。

それに対して、朱徳たちはアメリカに長期に滞在する十分なお金がないことと、社会主義者が最も強いのはヨーロッパだから選んだと答えた。

さらに孫逸仙に「アメリカはあなたの共和主義への闘争を少しも助けてくれなかったではないか」と注意を促した。

孫逸仙は長い革命運動の間、終始アメリカに援助を求めていたからだった。

ヨーロッパ諸国も同じだったが、新しい社会的勢力がある分、頼もしかった。


「孫博士は同意した。

国民党の新政策を制定したいといった。

しかしそれが果してどういうものであるかは、その時は聴くことができなかった。

それが明かになるまでには、二年を要した。

その時に彼は、広東革命政府とソヴェット連邦との同盟を結んだ」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-24 09:00 | 朱徳の半生

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1911年の辛亥革命の時期に起こった出来事は、朱徳の心に深い印象をきざみ、その後の彼の思想を形成する力になった。

朱徳はそのことを次のように語った。


1911年12月、共和党の各省代表者会議が南京でひらかれ、孫逸仙博士が、最初の共和国臨時大総統に選ばれた。
委員会がつくられて、民主的な憲法を起草したが、それは中国の歴史上はじめて民衆に民権をみとめるものであった。


但しその時孫逸仙(孫文)はワシントン、ロンドン、パリとの間をかけめぐっていた。

当時北京政権を牛耳っていた袁世凱に国際借款団が与えようとしていた幣制借款を止めようとしていたのである。

孫逸仙は中国の主権をこれ以上侵害しない条件で、この借款が新共和国の方に与えられることを願ってはかない努力をしていた。

しかし外国政府と借款団は「承認された政府」つまり北京政府のみを相手にすると孫逸仙にいい渡した。

それにもかかわらず孫逸仙は、新共和国は多くの点で欧米に見習って築いた国なのだから歓迎してくれるだろうと楽観的に考えて急いで帰国した。

1911年12月末、帰国して数日後に中国の最初の臨時大総統に就任する宣誓をした。


孫逸仙は新中国は立憲共和制をとるべきだが、資本主義は認めていなかった。

欧米社会の貧富の差を知っていたので、資本主義は清朝よりもはるかに恐ろしい専制を招くだろうと思っていた。

だから、わが中国も社会革命をもつのでなければ、人民は喜びも幸福も奪われれるだろうと考えていた。


ところが南京にいた孫逸仙の仲間の多くはそのようには考えなかった。

彼らは外国帝国主義者たちの真似すらして、孫逸仙のことを「非実際的な夢想家」と呼ぶのであった。

そして1913年の英仏独露日による2500万ポンドに及ぶ善後借款についても、共和国政権としての無残な妥協すら主張するにいたった。


列強と国際借款団は、共和国を承認してもいいと口にしたが、それには条件がついた。

つまり孫逸仙が辞任して、自由主義の大政治家で中国を統一する力をもつ唯一の人と見ていたお気に入りの袁世凱にその地位を譲るという条件だった。


朱将軍は、何度も繰りかえして、在中国アメリカ公使こそが、1911年革命に対しての外国の軍事干渉を要求した筆頭の一人だった、といった。
中国がその悲劇からまぬがれたのは、列強が中国の独立と保全とを尊重したからではなく、ただヨーロッパの諸列強がアフリカの植民地について争い、戦争の危険すらあったからだ。
アメリカと日本とだけが中国に干渉することができたが、イギリスその他の帝国主義者が、それを好まなかった。


しかし、西洋列強とその銀行家たちは、軍事干渉に劣らないような残酷な手段をとり、新共和国はその罠にかかってしまった。

孫逸仙は、外国の強要によって総統の地位を袁世凱に譲るために辞任した。

袁世凱はただちに少年皇帝を廃止して、自分に共和政体を組織する権限を与えられるという命を出した。

これは、明らかに主権が中国人民ではなく王朝にあるということを意味していたが、共和派はその侮辱を呑み込んだ。


孫博士は総統を辞したが、それは袁を総統にしておいた方が操縦しやすい、と信じたからであり、また平和を好んだからである。
彼は、まさか袁も、借款団が命ずるような条件で善後借款を引受けはしないだろう、とも信じていた。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-03 11:36 | 朱徳の半生

孫文と孫文記念館

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日本では孫文として知られているが、中国や台湾では孫中山、欧米では広東語のローマ字表記であるSun Yat-sen(孫逸山)として知られている。一旦定着したものを変えるのはむずかしいかも知れないが、孫中山で揃えた方がいいように思うが。


孫文記念館には3回ほど行ったが、料金は200円だったと記憶している。中国語を話す観光客が来てるときや中国語の講座もあるそうだが、普段はガラガラで必ずしもおもしろい場所とはいえない。イベントをするには小さすぎる空間だが、孫文を扱った珍しい映画などをときどき見せてくれたらいいのに。そうしたら、私は多分常連になりそうだ。


孫文については、私の好きな人物である朱徳は実際会っていてすごく誠実な人間だったとアグネス・スメドレーに語っているし、ハン・スーインはあの動乱の時代にあって誠実すぎたと捉えていた。


アジアの中の一員としての自分を発見する方法は人によっていろいろだが、私は教科書でしか知らなかった孫文を再認識することだった。


                                        2010-09-22 公開

アジア図書館を運営している団体「アジアセンター21」の代表をなさっていた方が、関西大学教授の山口一郎先生だった。辛亥革命の父と仰がれた孫文の研究家として知られていた。

兵庫県神戸市垂水区の明石海峡大橋の近くの舞子公園内にある孫文記念館の初代館長もなさっていた。この建物は八角形の中国式楼閣で「移情閣」と呼ばれていて、もともとは華僑の貿易商の別荘であったが、現在は国の重要文化財に指定されるにまでにいたっている。
山口先生を初めとする関係者の働きかけがあったからである。
私も一度だけ訪れたことがあるが、とてもかわいらしい建物で、海岸は目の前だった。

何度かアジアを囲む会という小さな講演会で孫文について講演していただいたが、私にはむずかしかった。孫文についてはほとんど知らなかったし、まして辛亥革命の歴史的意義ももう一つわかっていなかったからだった。

山口先生が参加者にできるだけわかりやすく語るその穏やかな口調を、スタッフとしての作業をしながら耳にしてきて、とても功績のあるえらい人なんだとは感じてきた。

大学生が「こんな初歩的な質問していいですか」と恥ずかしそうに前置きして、
「孫文って結局、右ですか左ですか?」
と質問してくれたとき、私が聞きたいことを聞いてくれた感じがした。
先生は「右でも左でもない」ということをていねいに説明されていて、ちょっと孫文に近づけた感じがした。

孫文は私は幕末の吉田松陰と高杉晋作を足して2で割ったような人物と考えているが、的外れかな。

アジア図書館を辞めてから、山口先生が学会出席のためにいた中国で亡くなられたことを知った。山口先生を思い出すと、そこでの仕事は孫文の理念の実践でもあったことを思う。



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by far-east2040 | 2016-07-12 13:08 | 生き方