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この本は朱徳が、どのような時代背景の中で問題意識をもち、なおかつ挫折を繰り返しながら,
共産主義者になっていったかが描かれている点が一番の特徴だと思っている。


朱徳のファンだからといって個人的に、「共産主義万歳」「人類を救うのは私有財産制度を否定した共産主義以外ない」「資本主義の否定」「だから中国人はすばらしい!」「中国は偉大」などなどよくわかっていないことを、声高に述べようと考えているわけではない。

しいて言えば、中国革命をもたらした人々の情熱、友情に魅力を感じているということだ。


朱徳たち紅軍や中国共産党が、江西省から出発し1万2500キロを徒歩で行軍し、北部にある延安にたどりつくまでの長征が完了したとき、作家の魯迅は中国共産党が無事に生き延びたことを喜び、「中国の未来はあなた方に託す」という内容を打電したという。


1916年生まれの作家ハン・スーインは革命前の中国で、皮と骨だけのやせて丸くなった苦力(クーリー)の背中、壁際に捨てられた新聞紙に包まれた赤ん坊の死体、工場で目が見えなくなるまで酷使された挙句に戸口に捨てられた少年の姿など、それまでに見てきた悲惨な情況を語り、「あの時代の中国を救えるのは中国共産党しかなかった」と率直に語っていた。

ちなみに彼女は日本軍による重慶爆撃も現地で体験し、悲惨な情況を本に書き残している。
日本では映画『慕情』の主人公としてだけあまりにも有名になりすぎた感じがする。


革命の最中ハン・スーインの妹やベルギー出身の母親(この女性は結婚時にベルギーで中国国籍に変更している)は海外へ逃れたが、義和団の乱後にベルギーで鉄道技術を学び、帰国後は鉄道技師として働いてきた父親は中国に残った。


朱徳のもとで指揮官として活躍し、建国後は外務大臣までやった陳毅が、四川省にいた父親を訪問し、とどまって技術者として建国に協力してほしいと要請したという。

そういうわけで、彼女自身は建国後の中国に住むことはなかったが、何度も父親のもとを行き来し、文芸活動を通じて亡くなるまで中国を支援していた。


もし私があの時代を生きる人間として生まれていたら、魯迅やハン・スーインや多くの大衆のように、共産主義の方が人間らしい国家を目指していると判断できるそういう人間でありたいとは思っている。


蒋介石を代表とする国民党支持者たちは、中国の特権階級は古来悲惨な情況の人間の大多数の犠牲のもとで成り立ってきたので、今さら変えようがない、仕方がないと考えていたようだ。

だから圧倒的多数の自国民の犠牲で成り立つ近代国家を目指した。

朱徳たちは、国民の80パーセントを占める農民や労働者を圧迫してきた封建制を否定し、彼らを納得させる国家理念を提示することなしに、中国は外国勢力を排除した独立国家になりえないととらえて、粘り強く戦ってきたのだ。

それが当時は西洋から導入された共産主義やマルクス・レーニン主義だったというわけで、それが別のXイデオロギーだったとしてかまわなかったように見える。


『偉大なる道』では、19世紀に起こった太平天国の乱をブルジョア民主主義革命の起点ととらえて、それから64年後になって朱徳や毛沢東が創建した紅軍が、この太平革命を熱心に研究して、法や戦術を多く学び、同じ過失を繰り返さないことを決意したことが一貫して語られている。

そして文字を知らない農民たちを含めて民衆は、負けた英雄たちの物語を記憶するまで心の中に刻んできた。


一方ハン・スーインも自伝の中で太平天国の乱を勝者の側から詳しく語っている。

彼女の父方の祖母は、太平天国の乱を制圧した清朝側についた有名な曽国藩の幕下で親友だった人の娘だった。

自伝を書くために集めた文字で書かれた祖先の英雄伝は多数あり、太平天国の指揮官や兵士は謀反を起こした犯罪者として描かれていた。

そこで彼女は自分の先祖は間違った選択をしたとしみじみ振り返る。


私は太平天国の乱は世界史で言葉を知ったぐらいであまり知らなかったので、中国ではすごく大事な出来事だったと知り、感慨深いものがあった。

学校でよくわからないまま記憶してきた歴史用語に実態をともなった感じだった。
歴史を学ぶためには時間がかかる。


太平天国の乱が中国の国土を耕し、そこへ孫逸仙が同志とともに種をまき、苗を踏まれても諦めずにまき続け、やがて朱徳たち紅軍も種をまきながら、こぼれ種から育った苗を含めて大きく育てていき、ついに独立国家を建設したというふうに考えると私の頭の中はかなりすっきりしてくる。


朱徳は中国共産党は数千年の歴史をもつ中国文化の最良の伝統、つまり勤勉と忍耐と学問に対する尊敬を受け継いだと語っている。

さらに大革命と土地革命と抗日戦争の経験を積み重ね、内容的に成長していく中で、共産党はマルクス・レーニン主義を中国化し、われわれの歴史的遺産を中国社会の当面の必要に適合させたと述べていた。


中国革命の勝因と強さは、この朱徳の言葉で言い尽くされていると思う。


建国後の中国の政治のことはあまり詳しくないが、国土がヨーロッパ全土ぐらいあり、香港、台湾や少数民族の問題、都市と農村部との格差など、中国を治めていくことのむずかしさを外野から眺めて感じている。

政治は綺麗事ではないので、裏側は想像以上にどろどろしているのだろう。

中国は領土も人口も桁違いの国なので、問題がそんなに簡単に解決されるはずがない。


ただ、何世紀も続いた封建主義をとりはらい、外国勢力に侵略されない独立国家を苦難の歴史をへて、いったんは創ったという経験が、今流行りの言葉でいえば「すごい」と思っている。



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by far-east2040 | 2017-07-08 12:17 | 朱徳の半生

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この本には敵味方いろいろな人物が登場してくるので、読んでいて楽しかった。

朱徳が対峙してきたのは地主などの特権階級からはじまって、清朝の西太后、袁世凱や蒋介石とその周辺の軍人政治家たち、外国の帝国主義者たち。


朱徳が語っているように、国が外国に侵略されるときは必ず自国内に買収された協力者がいて、彼らの存在は中国固有の問題ではない。

ただ中国は領土も人口も桁違いに大きいので、その分反逆者の数は多いし、殺された民衆や知識人、将兵たちの血も川のように流れてきたという。


一方で、封建的な制度のもとで圧迫されてきた民衆を解放するために、また外国に侵略されようとする国を救うために、同じ志のもとに集まってきた若者たちは、反逆者の数に劣らないほど多く存在したことに感動する。

こういう人物たちの友情がこの本の魅力だ。


朱徳を軸にした展開なので、毛沢東や周恩来をはじめとする著名な指導者たちは脇役になって登場する。

彼らひとりひとりも一冊の本になるぐらい波乱万丈の半生をおくってきた。

反逆者も多いけれど、その真逆の立場に立った人物も数多く存在することが、中国らしいスケールの大きさと層の厚さを感じる。

現代も傾向は同じだと思う。


印象に残っている人たちを振り返ってみると……。


朱徳の母親

旅芸人の娘として生まれ、農婦として死ぬまで働き続けた女性。
80歳ぐらいまで長生きをしたので、自分の生んだ息子の名前を、人々が敬愛をこめて口にするのを知っていたはず。
朱徳とは長く会えなかったけれど、革命事業の話を聞いていて応援していたらしい。


朱徳の養父

貧農の三男だった朱徳が、教育を受ける機会を得たのは叔父である養父の野心からだった。


機織りじいさん

朱徳の家に毎年定期的に機織りの賃仕事をするために来た職人。
実は太平天国の乱で有名な首領石達開の配下の生き残りの兵士でもあった。
太平天国の乱や国内外の政治情勢のことなど外部の世界の情報を、朱徳の家に伝えるという役割をになってきたことになる。


シ先生

朱徳が弟子入りした家塾の老先生。
科挙には合格していなかったが、それ相当の尊敬を周囲から受けていた人で、朱徳はこの先生のもとで科挙の準備をした。
朱徳はここで洋学信者になり、国の将来を考えるきっかけになる薫陶を受けてきた。


蔡鍔(さいがく)将軍

この本を読むまでこの人のことを私は知らなかった。
スメドレーは、この人がいなかったら、歴史は違った展開になっていただろうと語っていた。

雲南軍官学校の教員で、朱徳よりわずか4つ年上。
年少の頃から梁啓超の弟子で、日本の士官学校で学んだ人。

辛亥革命での功労者の一人だったが、30代で結核のために革命途上で亡くなる。

青年時代の朱徳の師であり親友でもあった。


孫逸仙(孫文)

朱徳はフランス留学の前に上海で会見している。
孫逸仙に実際に会えた人は珍しい。
第一次国共合作はその会見での朱徳の助言も何らかの影響を与えたような感じがする。


周恩来

ドイツベルリンで会い共産党に入党する。
この本では少ししか登場しないが、ハン・スーインが建国後聞き取りをした周恩来の半生記『長兄』には、逆に朱徳は少ししか登場しない。
中国革命の裾野の広さと奥行を感じる。


陳毅

朱徳の配下にいた指揮官で、長征には参加せず残された部隊をまとめた人。
代々学者を輩出する家柄の出身。
敵側の学生部隊を「奴隷なるよりも今中国で怖いことがあるだろうか」という内容で説得して味方に引き入れた。

この人の半生も1冊の本になるだろう。


賀竜

貧農出身で文盲だったけれど、農民パルチザンを指導した中国革命の功労者の一人。
この人の名前を聞いただけで、地主は荷物をまとめてさっと逃げたらしいが、仲間うちではおもしろい人物だったようだ。
私もそう思う。
残された写真はみな愛嬌たっぷりの顔をしている。

ページにこの人の名前が出てくると、ワクワクしていた。


彭徳懐

この人は軍人としては朱徳につぐ功労者だったと思う。
敵側に追われて避難した時、部隊を率いて毛沢東と朱徳を探したが、見つからなかったのでもう死んだと思い、自分が紅軍を作るぐらいの気概を持っていた。

詳しい事情はわからないが、建国後の文化大革命中に、牢獄で非情な扱いを受けて亡くなった。
検索すればひどい写真も出てきて、この本で彼の功労を評価する者としてはつらい。
名誉回復を受けているらしいが、中国の激動の政治の怖さを知る。


呉玉蘭

朱徳の3番目の夫人。婦人作家で集会で演説することもあり、彼が一番惚れていたような感じがする。
敵側との戦いの中でつかまり、拷問を受けて、見せしめのために故郷の町でさらし首にされている。このように身内が敵に殺される体験は、紅軍の指導者や兵士はほとんど持っている。


毛沢東

蔡鍔将軍とのつらい別れのシーンを知っているので、信頼できる同じ農民出身の毛と出会えたときの朱徳の歓びはわかる気がする。

作家ハン・スーインは周恩来同様に毛沢東の伝記も書いているが、後年毛沢東への評価が変わり後悔していたらしい。

私は建国後の大躍進とか文化大革命については詳しく知らないので、歳をとった毛沢東に何かあったぐらいで思考が止まっている。

ただし、建国までの毛沢東の強い指導力と革命の最中に培ってきた知性には感服している。


康克清

朱徳の最後の夫人。自ら決心して紅軍に参加するまで、文盲で地主の畑で農業労働をしていた女性なのだが、残された写真を見ると、地味で丈夫な身体の持ち主だったことがわかる。

朱徳との結婚話は、歳の差以前に身分違いという理由で最初は断わったらしい。

長征にも参加した数少ない女性の一人だが、彼女自身は長征中にさほど苦労したという話はしなかった。

もうひとり同年齢の女性がいて、行軍中は彼女とのおしゃべりも楽しかったらしい。
歩けないほど疲労しきった兵士の銃を替わりにかついで、歩いた時もあった。

周恩来夫人は病気のときには、担架で運ばれて長征を乗り切ったことを考えると、朱徳は、若くて自分と同じような頑丈な身体を持つ行動力のある女性をうまく選んだなと思う。

晩年のこの女性と面識があったハン・スーインは、すばらしい女性と評価していて、西洋であまり紹介されていないことを残念がっていた。

私もこの女性に興味がありネットで調べたが、中国語なのでかろうじて伝記が出版されたぐらいしかわからない。


蒋介石

朱徳とほぼ同年齢で、ずっと憎き敵として互いに意識し合ってきた感じがする。
ねばり強いというかアクが強いというか、どれだけ民衆を圧迫してきたか。
共産主義を潔癖なほど嫌い、完全に排除するまでなんでもした感じがする。

社交家で英語がネイティヴのように話せて資産家の娘でもある宋美齡と結婚したのが、見事な戦略だったと思う。

孫逸仙夫人宋慶齡は、妹と結婚したからまだあの程度ですんでいると語るほどの問題ありの人物だった。

太平洋戦争は自分が仕掛けたようなことを発言しているところが衝撃だった。
確かに蒋介石にとって、太平洋戦争は好都合だったように思える。


あと孫炳文、袁世凱、林彪、劉伯承、宋慶齡、彭湃、葉挺などまだまだいる。
中国の建国苦労話に登場する人物たちは敵も味方も多彩だ。



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by far-east2040 | 2017-06-22 15:09 | 朱徳の半生

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朱徳は国民党を組織したり小新聞を出したりするかたわら、ドイツの労働者の集会に出て発言したり、国際的なつながりを持つさまざまな会議にも顔を出すようになった。

またブルガリア革命運動弾圧のテロに抗議する会合に出たために2回も逮捕されるという経験もした。

最初に捕まったときは、中国領事館の要求によって釈放されたが、2回目のときは2日間牢獄に入れられた。

釈放後は、「植民地係」の刑事から自由になることはなかった。


1925年5月北京政府は中ソ新条約を結んだのだが、すべての外国の帝国主義者たちは、中ソ親善を妨げようとして横暴な行動を取ったとき、朱徳たちはベルリンで中国人大会を召集した。


その頃、朱徳の記憶では、一部のイギリス人やアメリカ人が黄禍論を騒ぎ立てて反中国運動を起こし、中国の自由と独立を主張したためにソ連を「白人世界の垣根の中の敵」と非難し、広東の革命政府を「過激派的なアナーキストの集団」と主張していた。


やがて孫逸仙博士の、北京におけるいたましい死が、1925年3月12日におとずれ、憂愁の気が世界のいたるところの、中国革命派の人々をつつんだ。


ベルリンでは朱徳たちは追悼会を開き、中国の解放に捧げた孫逸仙の40年の悲劇的闘争を紹介した中国語とドイツ語の特集パンフレットを出した。


外国の帝国主義者だけでなく、多くの中国人までが孫逸仙の死を喜んだ。

しかしベルリンの追悼会に集ったものはみな泣いたと朱徳は重々しい声で回想した。

長きに渡って中国革命を導いた孫逸仙の死によって、慕う人々は孤児のような寂しい境遇にとり残されたように感じた。

孫逸仙が偉大すぎて彼の地位を継げる人物はいなかった。

それどころか彼の死後、国民党内にもいくつもの徒党ができて、孫逸仙の革命への道を歪曲し破壊しようとするものが出てきた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-01-12 09:10 | 朱徳の半生

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上海に戻った朱徳と友人孫炳文は当時フランス租界に夫人とともに住んでいた孫逸仙の家ですごした。

朱徳が雲南省から脱走した時の仲間の金漢鼎将軍もいっしょだった。


朱将軍は、深い感動とともに、この偉大なる民族指導者との、最初にして最後の会見について回想する。


その時56歳だった孫逸仙は37年間を革命運動のなかで過ごしてきていた。

動作は機敏できびきびしていて、敗北につぐ敗北を経験していたのに、未来に対しては楽観視していた。


「謙遜な非常に誠実な人だった」朱将軍はいった。


孫逸仙は部下の一人の将軍に裏切られて広東から追われていたのだが、その広東を奪回してふたたび共和派政権を樹立しようと計画していた。

そために広西省にいる雲南軍に朱徳たちが戻り、再編成して援助してほしいと願った。

そのための準備金として10万ドルを渡せるといった。

金漢鼎将軍は申し出を了承したが、朱徳と孫は断った。


「孫博士は、われわれの拒絶の理由を、注意ふかくきいた。


朱徳たちは孫逸仙や国民党のこれまでの戦術をもう信用しなくなっていた。


「われわれは、孫博士に向って、われわれは外国留学の決心をしており、ふたたび中国の国事に入る前に、共産主義者に会い、共産主義を研究するであろう、といった。

香港の大ストライキの勝利、また全国の労働運動の勃興を見れば、共産主義者たちが、われわれの必要とするところの何ものかを持っていることは明白だった。


孫逸仙は共産党に対してはまったく偏見を持っていなかった。

そして外国へ行くなら進歩的な制度があるアメリカの方がいいのではと提案してきた。

それに対して、朱徳たちはアメリカに長期に滞在する十分なお金がないことと、社会主義者が最も強いのはヨーロッパだから選んだと答えた。

さらに孫逸仙に「アメリカはあなたの共和主義への闘争を少しも助けてくれなかったではないか」と注意を促した。

孫逸仙は長い革命運動の間、終始アメリカに援助を求めていたからだった。

ヨーロッパ諸国も同じだったが、新しい社会的勢力がある分、頼もしかった。


「孫博士は同意した。

国民党の新政策を制定したいといった。

しかしそれが果してどういうものであるかは、その時は聴くことができなかった。

それが明かになるまでには、二年を要した。

その時に彼は、広東革命政府とソヴェット連邦との同盟を結んだ」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-24 09:00 | 朱徳の半生

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1911年の辛亥革命の時期に起こった出来事は、朱徳の心に深い印象をきざみ、その後の彼の思想を形成する力になった。

朱徳はそのことを次のように語った。


1911年12月、共和党の各省代表者会議が南京でひらかれ、孫逸仙博士が、最初の共和国臨時大総統に選ばれた。
委員会がつくられて、民主的な憲法を起草したが、それは中国の歴史上はじめて民衆に民権をみとめるものであった。


但しその時孫逸仙(孫文)はワシントン、ロンドン、パリとの間をかけめぐっていた。

当時北京政権を牛耳っていた袁世凱に国際借款団が与えようとしていた幣制借款を止めようとしていたのである。

孫逸仙は中国の主権をこれ以上侵害しない条件で、この借款が新共和国の方に与えられることを願ってはかない努力をしていた。

しかし外国政府と借款団は「承認された政府」つまり北京政府のみを相手にすると孫逸仙にいい渡した。

それにもかかわらず孫逸仙は、新共和国は多くの点で欧米に見習って築いた国なのだから歓迎してくれるだろうと楽観的に考えて急いで帰国した。

1911年12月末、帰国して数日後に中国の最初の臨時大総統に就任する宣誓をした。


孫逸仙は新中国は立憲共和制をとるべきだが、資本主義は認めていなかった。

欧米社会の貧富の差を知っていたので、資本主義は清朝よりもはるかに恐ろしい専制を招くだろうと思っていた。

だから、わが中国も社会革命をもつのでなければ、人民は喜びも幸福も奪われれるだろうと考えていた。


ところが南京にいた孫逸仙の仲間の多くはそのようには考えなかった。

彼らは外国帝国主義者たちの真似すらして、孫逸仙のことを「非実際的な夢想家」と呼ぶのであった。

そして1913年の英仏独露日による2500万ポンドに及ぶ善後借款についても、共和国政権としての無残な妥協すら主張するにいたった。


列強と国際借款団は、共和国を承認してもいいと口にしたが、それには条件がついた。

つまり孫逸仙が辞任して、自由主義の大政治家で中国を統一する力をもつ唯一の人と見ていたお気に入りの袁世凱にその地位を譲るという条件だった。


朱将軍は、何度も繰りかえして、在中国アメリカ公使こそが、1911年革命に対しての外国の軍事干渉を要求した筆頭の一人だった、といった。
中国がその悲劇からまぬがれたのは、列強が中国の独立と保全とを尊重したからではなく、ただヨーロッパの諸列強がアフリカの植民地について争い、戦争の危険すらあったからだ。
アメリカと日本とだけが中国に干渉することができたが、イギリスその他の帝国主義者が、それを好まなかった。


しかし、西洋列強とその銀行家たちは、軍事干渉に劣らないような残酷な手段をとり、新共和国はその罠にかかってしまった。

孫逸仙は、外国の強要によって総統の地位を袁世凱に譲るために辞任した。

袁世凱はただちに少年皇帝を廃止して、自分に共和政体を組織する権限を与えられるという命を出した。

これは、明らかに主権が中国人民ではなく王朝にあるということを意味していたが、共和派はその侮辱を呑み込んだ。


孫博士は総統を辞したが、それは袁を総統にしておいた方が操縦しやすい、と信じたからであり、また平和を好んだからである。
彼は、まさか袁も、借款団が命ずるような条件で善後借款を引受けはしないだろう、とも信じていた。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2016-12-03 11:36 | 朱徳の半生

孫文と孫文記念館

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日本では孫文として知られているが、中国や台湾では孫中山、欧米では広東語のローマ字表記であるSun Yat-sen(孫逸山)として知られている。一旦定着したものを変えるのはむずかしいかも知れないが、孫中山で揃えた方がいいように思うが。


孫文記念館には3回ほど行ったが、料金は200円だったと記憶している。中国語を話す観光客が来てるときや中国語の講座もあるそうだが、普段はガラガラで必ずしもおもしろい場所とはいえない。イベントをするには小さすぎる空間だが、孫文を扱った珍しい映画などをときどき見せてくれたらいいのに。そうしたら、私は多分常連になりそうだ。


孫文については、私の好きな人物である朱徳は実際会っていてすごく誠実な人間だったとアグネス・スメドレーに語っているし、ハン・スーインはあの動乱の時代にあって誠実すぎたと捉えていた。


アジアの中の一員としての自分を発見する方法は人によっていろいろだが、私は教科書でしか知らなかった孫文を再認識することだった。


                                        2010-09-22 公開

アジア図書館を運営している団体「アジアセンター21」の代表をなさっていた方が、関西大学教授の山口一郎先生だった。辛亥革命の父と仰がれた孫文の研究家として知られていた。

兵庫県神戸市垂水区の明石海峡大橋の近くの舞子公園内にある孫文記念館の初代館長もなさっていた。この建物は八角形の中国式楼閣で「移情閣」と呼ばれていて、もともとは華僑の貿易商の別荘であったが、現在は国の重要文化財に指定されるにまでにいたっている。
山口先生を初めとする関係者の働きかけがあったからである。
私も一度だけ訪れたことがあるが、とてもかわいらしい建物で、海岸は目の前だった。

何度かアジアを囲む会という小さな講演会で孫文について講演していただいたが、私にはむずかしかった。孫文についてはほとんど知らなかったし、まして辛亥革命の歴史的意義ももう一つわかっていなかったからだった。

山口先生が参加者にできるだけわかりやすく語るその穏やかな口調を、スタッフとしての作業をしながら耳にしてきて、とても功績のあるえらい人なんだとは感じてきた。

大学生が「こんな初歩的な質問していいですか」と恥ずかしそうに前置きして、
「孫文って結局、右ですか左ですか?」
と質問してくれたとき、私が聞きたいことを聞いてくれた感じがした。
先生は「右でも左でもない」ということをていねいに説明されていて、ちょっと孫文に近づけた感じがした。

孫文は私は幕末の吉田松陰と高杉晋作を足して2で割ったような人物と考えているが、的外れかな。

アジア図書館を辞めてから、山口先生が学会出席のためにいた中国で亡くなられたことを知った。山口先生を思い出すと、そこでの仕事は孫文の理念の実践でもあったことを思う。



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by far-east2040 | 2016-07-12 13:08 | 生き方