祖父の過ぎ去りし日

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太平洋戦争が終結したとき、祖父は家族とともに大分県の国東半島にいた。
当時父は就職で朝鮮半島南部にいたので、祖母と旧制中学に在学していた叔父を筆頭に二歳前後の末弟まで含めた6人の子どもたちだった。

今こうして父の一家のことを綴っていると、祖父がどのような感慨を持ってこの日を迎えたのか訊いてみたかった思いにかられる。
「敗戦国にいる必要はない」といって引き揚げてきたと聞いているが。

国東半島は瀬戸内海を東に臨む地形で、広島に原爆が落とされた日、きのこ雲は見えたらしい。
当時地元の新聞をとっていた家なので、それが新しい大型爆弾だったことも知っていた。

父の納骨を終えて、ささやかな親族の会食の場で、歴史に興味があるので祖父に会いたかったとたどたどしい韓国語でいうと、父の境遇を知る親族にあってはことばがなくなってしまう。
場の雰囲気を変えるように、末の叔母は祖父は日本ですごした思い出話しをよくしたとなつかしむ。
「いい話? 悪い話?」
と私が興味津々で訊くと、
「いい話」と力の入った返事が返ってくる。
しかも「悪い話しのはずがないでしょ」といいたげな顔つきで。

私と一つ違いの従妹は、祖父にとっては身近にいた初孫にあたるのだが、
「いっぱい話し聞いた」とやはりありし日の祖父をなつかしむ。
祖父は酒が入って上機嫌になると、子や孫に思い出話しを披露していたようだ。
日常会話程度の私の韓国語能力では親族と深い話しができないし、今さら聞いても仕方がないと冷静に構えてもみる。

一方、父は自分自身よりもはるかに学識があったという祖父のことを、
「所詮、朝鮮人の子どもとしか見られていなかった」と宗主国ですごした若かりし頃の祖父の姿を率直に語った。


祖父はふるさとの書堂という儒教社会の旧教育機関で漢文を学習した人間なので、筆を持つとさらさら文字が書けた。
祖父のことを語る人の多くは「達筆」ということばで表現した。


国東半島での暮しを成り立たせたものは祖母の努力と才覚のたまものであることはまちがいない。もちろん祖父の少しばかり長けた商才もある。
さらにいえば、この漢文の読み書き能力のおかげで人から信用を得やすかったこともあるのではないかと想像している。

もしタイムスリップできるなら、60歳代ぐらいの祖父からぜひいろいろな話を聞き取りしたい。

解放後の混乱期に密かに日本に向かおうとする若き父の心情を見つけ、二人だけの場に導き、「自分は苦労したから、行かんほうがいい」と考えなおすように諭したという。
つまり展望が持てない大地に必死にしがみついている手を、その手を離すなと息子に戒めたという。

父の過ぎ去りし日の話の中では、多くの民衆と同じように、この時期が生きていくのに一番しんどい時期だったようだ。

さらに祖父との確執もあった。
 
祖父にとっても、普通に暮らせた生活を置いてきて、わざわざ引き揚げてきたことを悔いた時期であった。



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by far-east2040 | 2016-08-02 07:20 | アジア図書館