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次に朱徳が生涯の話を語りにとき、私(スメドレー)は1931年の典型的な一日を選んで朝から晩まで何をしたかを話してくれるように提案した。

朱徳はしばらく考えてから、過去の一日をすべて思い出すことは無理だが、やってみようと答えた。


「私は生涯、非常に早起きする習慣をもってきた。
寝るのは仕事がおわってのち、――といえが非常におそく、ほとんどいつも夜中すぎになる。私の生活は、仕事と学習とによる鍛錬、ということを中心にして築かれてきたのではあるが、その仕事と学習とは、決して規則的なものではなかったのだ。

というのは、このわれわれが行なってきたような戦争では、司令部が直接に手を出して監督しなければならぬようなことが、じつに多かったからだ。


たいていは、――といっても規則正しくではないが、部隊のものに軍事についての講義をし、ひんぱんに近くの部隊を視察して、その統制と行動とをしらべた。

また私は、定期の参謀会議に出席したが、そのほかにも、週に一、二回は党の集会、それから司令部細胞の会合もあった。

たびたび、軍の各部面の統率者との会議があり、さらに臨時に問題がおこったさいの会議もあった。

一つの戦闘の前には、戦闘部隊の動員会議が一、二度ひらかれ、そこでは、軍の指揮官が、わが軍の作戦と敵状とについて報告し、政治指導員は、その戦闘または作戦の意義、それから、戦いつつ敵の士気を沮喪させ、あるいは帰投させる、政治技術について説明した。


「戦闘ののちには、時間があればだったが、――作戦ののちには必ず、二度の会議をひらいた。

一度は指揮官だけのもの、もう一度は指揮官と兵詩とともどものもので、そこではその戦闘または作戦の分析をおこなった。

それは、わが軍に取っては、戦術的にも教育的にも、大きな価値のあるものだったから、私はそういう会議にはつとめて出席した。

そうした合同の会議では、その兵士もどの指揮官も、完全な言葉の自由をもっていた。

たがいに批判してもよろしく、根本計画の各部分や、その実施された方法について批判してもよろしい。

こういうふうにして、われわれは過失をただし、弱体の指揮者を排し、能力あるものを昇進させることができた。

そして、われわれは、すべての封建的な悪習を根絶やしにし、軍隊を民主化し、兵士のあいだに自発的な軍規が生れることを、ねらった。

臆病だったり判断をあやまったりした兵士、戦闘の最中に命令にそむいた兵士は、その行動を公に語って、その過誤をただすことを学ばなければならなかった。

兵士をののしったり殴ったり、その他軍規をおかした指揮官は、大衆裁判の前に立って答えなければならず、もし有罪ときまれば、司令部によって処置されるであろう。

こうした会議の結果は、パンフレットに発表されて全軍の研究の資料として用いられた」


まだ仕事はあったと続けた。

将兵は軍務がないときは農民の農作業を手伝った。
朱将軍もできるだけ農作業を手伝ったが、健康を保つ最上の手段だったと振り返った。

紅軍の慰安や文化活動はその頃は比較的少なかったが、いくつかの演劇隊がソビエト地区を巡回して兵士や農民に観せていた。

もし司令部から行ける所であれば、朱将軍は地べたにすわるか前列のベンチに腰掛けて鑑賞した。

そのころは延安時代ほど軍で歌うことは発達していなかった。


まだほかにも、日々の情報や報道を読んでそれぞれ処理しなければならなかった。


「私は、見つけ次第に新聞や本を読んだが、そのころは、本や雑誌を手にいれることは容易でなかった。

ときどき、上海から本の小包がきたが、みながすごく読みたがっていたから、私がありつかぬうちに、ほかのものが取る、ということも多かった。

当時私は、マルクス・レーニン主義の知識を向上させようと努めていたので、その主題の本は、手に入り次第に、くりかえし読んだ。

最初の敵全滅作戦のとき、戦略戦術の本やパンフレットを多く接収したので、私はそれを読んだが、わが軍のために役立った」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-28 20:30 | 朱徳の半生

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朱将軍と捕えられたばかりの張輝サン将軍との対談はそのまま劇になりそうだった。

張将軍は階級の記章で飾られた素晴らしいカーキの軍服とピカピカの黒長靴を身につけて、朱徳の司令部に送りこまれてきた。

まるで苦力のようなぼろ服を着た痩せこけた男が何人かいるのを彼は見た。


朱将軍は、つめたくきびしい声でいうのだったが、「彼は、われわれを無知蒙昧な匪賊と見、こんなものは自分の残りの二師団ですぐに敗ることができ、自分はそれで自由になるのだ、と信じたにちがいない。

「だから、敗北して捕らえられたことでは弱っていたが、それでもまだ傲然として、私を手玉に取ろうとした。
でぶの男で、その司令部にはありとあらゆる美味がいっぱいあり、乗馬は持ちながら、旅をするのには、人間の背にかつがせる駕籠椅子をもちいた」


張将軍の最後の傲慢な質問は「わしの身代金はどのくらいほしい」だった。

朱徳は威厳をもって答えた。


「わしは商人ではない! 
お前を、お前の部隊と、それから江西省西北部でお前に家族を殺されたわが軍の一部隊との前に引きずり出して、裁判にかける」


捕虜になった将軍の傲慢は少しくじけたようだった。


「私は彼にたずねて」と朱将軍はいった。
「われわれが設立する計画の新軍官学校で教える意思はあるか、とためしてみた。
その気はある、と彼は答えたが、じつは、――他の師団がきて救出することを予期しながら、時をかせごうとしているにすぎない、ということは私にわかっていた。
それから私は、われわれは次にどの白軍を攻撃すべきか、君の意見をきかせてくれ、といった。私がこの男の意見など聞く必要はなかった、というのは、わが軍は、すでに彼の第五十師に向って進撃していた。
だが私は、こいつはどんな男か、ということを試してみたかったのだ。
彼は、それは十九路軍を攻撃すべきだといい、その軍に関する軍事的情報をすらしゃべったが、それはわれわれの方の情報網の報告と合致していた。
彼は、味方を裏切りながら、われわれを手玉に取っていると思っていたのだ」


朱将軍は張将軍に彼の他の師団もどんなふうに撃破できるのかを見せてやろうと思い、彼と部下の士官どもを連れ出して、紅軍が24時間以内で第五十師団を破るところを見せた。

紅軍はさらに旋回して東固の第二十八師団に向かったが、その師団は逃げた。

すでに十九路軍は興国から撤収を始めていて、はるか南の故郷広東省に帰っていった。


第十八師団に対する勝利から三週間で、敵の諸軍は紅軍の迅速な攻撃によって崩れてしまい、第一回の紅軍せん滅作戦はぶざまな失敗に終わった。

張将軍と彼の幕僚は、旧部下の三千の兵と、東固の人民たち、彼に家族を殺された黄公略軍の兵たちの前で裁判にかけられた。

朱徳がいうには、その頃には張将軍の傲慢は恐慌に変わっていた。

彼は幕僚とともに死刑の宣告を受け、彼のために家族を殺された兵たちによって斬首された。


何週間か過ぎた頃、上海の共産党中央委員会から一人の使者が朱将軍の司令部に来た。

持参した手紙によると、蒋介石が張将軍の釈放を請い、その代償として多数の政治犯を釈放し、二十万ドルを払うというのであった。


「処刑したことを、われわれは後悔した」と朱将軍はいった。
「しかし、それは金のためではなかった。蒋介石は、復讐として、獄中のわれわれの同志の多くのものを殺したのだ」


紅軍の勝利は国民党とそれを支持する外国人たちや財政援助者を愕然とさせ、そのために新しいテロの波が国民党支配下の中国に広がっていった。

蒋介石元帥自らが南京政府の教育部長になり宣言を発表して、学生たちが共産主義に関係する集会を開いたり、ビラを撒いたり、大学の学長に反抗することがあれば、学生といえども容赦なく射殺すると声明し実行し始めた。


五つの大学が閉校され、多数の学生が秘密裡に上海で捕らえられ消息不明になった。

上海の新聞は北京国立大学の六十名、天津で十余名、そのほか広東、長沙、漢口で多数が捕えられたと簡単に報道した。

1931年2月7日には、上海のイギリス警察は若い作家、美術家、俳優など24名を捕えて、国民党の守備隊長に引き渡し、その夜射殺されて自分たちが掘らされた大きな穴の中に捨てられた。


南昌の国民党が発行する『反共月刊』の1931年2月号に、国民党高官の談話が載っている。


「もし政府が、紅匪問題の解決に、今日用いつつある方法以上のものを見出し得ないとするならば、われわれは、すべての紅匪地区をまず隔離し、毒ガスをもって一人のこらず殺すほかないであろう。
これらの地区の、十歳以上六十歳までのあらゆる男と女とは、紅軍のためにはたらくスパイであるか、紅軍兵そのものであるかだからである」

                                   紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-26 22:50 | 朱徳の半生

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朱将軍は張将軍との戦闘が行われた戦場の略図を描き、敵の司令部と部隊の配置、味方の司令部、戦闘部隊、予備隊、野戦病院、敵の捕虜収容施設なども示した。

さらに紅軍の補助部隊である人民武装隊の配置地点も示した。

彼らは敵の小部隊や輸送隊を攻撃し、紅軍のために輸送したり、戦場の負傷者を運搬したりした。


朱徳と毛沢東の司令部は、張輝サン将軍が司令部を置いた竜岡からほんの四マイルほど離れた山村にあった。

張将軍の第二十八師団は彼らのすぐ近くの東の東固の山を占め、第五十師団は北西のニントウにあった。

彭徳懐の紅軍第三軍団は敵を牽制するために、竜岡と敵の第二十八師団と第五十師団との間に展開していた。

南と西南に向かって一日強行軍をすれば、国民党十九路軍のところに着くだろう。


紅軍の通信機関はすぐれていて、司令部の伝令は、みな若い農民で、きわめて敏捷だった、と朱将軍はいった。


朱徳と毛沢東は12月29日午後8時、明け方に開始される予定の戦闘に関する詳細な命令をすべての戦闘本部隊と予備部隊に向けて出した。

いつものように「政治動員」の集会を持つこと、軍指揮官は兵士たちに戦闘計画、敵の戦力、位置、装備と志気に関する情報をすべて教えること、政治指導者はこの戦闘の意義と革命運動全体の意義を集会で説明するように指示していた。


朱将軍の命令中で、強調されていた一点は、すべて紅軍部隊はたがいに密接に連絡をもち情報を交換し、また、医療品の収集に特別の注意をはらい「捕獲した無電機はこれを大切にせよ」というのであった。


戦闘は12月30日の夜明けに始まった。

林彪と黄公略は敵第十八師団を竜岡から狩り出し、敵がばらばらに解体し崩壊するまで攻めては引き、引いては攻めた。

黄公略の部隊は江西省西北部の農民と鉱山労働者で編成されていた。

さきに敵の張輝サン将軍の三個師団はこの地方に入って何百の村々を破壊すし、紅軍に息子を送っていたすべての家族を殺戮していたので、黄公略の部隊は胸中に煮え返る憎しみを持って戦った。


朱将軍にいわせれば、その部隊は、「われわれの司令部の眼の前でたたかい、敵の機関銃が壁にぱちぱち当った」


戦闘が高潮に達したとき、張将軍は第十八師団の応援のために第五十師団の出動を命じ、その直後に紅軍は無電局を占領した。

第五十師団は進撃を始めたが、その後まったく通信を受けなかったので、ニントウ郊外で彭徳懐の部隊と遭遇しても退却して待機した。

東固の第二十八師団も少しも動かず、南方の第十九路軍も動かなかった。


ついに午前中に第十八師団の千名が殺され、九千名が捕虜となり武装解除された。

張将軍と彼の参謀以下すべての士官も捕虜になった。

鹵獲品は小銃八千、軽重機関銃、追撃砲その他の小野戦砲、第十八師団の精密な無電機と技術者、野戦用電話、医療品、馬、大量の食糧、敵三個師団の軍資金だった。


「われわれはただちに、捕虜兵の大会をひらいた」と朱将軍はいった。
「そこで彼らに、われわれは何ゆえに戦うかということを話し、もし戦いたいならばこちらに加わるようにと勧誘した。
三千人が加わり、ほかのものには、一人三元ずつあたえて、家庭にかえらせた」


敵はすぐれた火力と軍需品を持っていたが、紅軍の方が信念と士気と機動力においてすぐれていたことが迅速で決定的な勝利に導き、続いて全敵軍の崩壊の原因になったと朱将軍は分析した。

戦いは二ヶ月以上も続き、第十八師団も何らかの攻撃を受けることは予想していたので、不意打ちだったということで説明できなかった。

さらに国民党軍はソビエト地区に入っていたのだが、そのこの全人民は彼らを不具戴天の敵としていた。

勝利のもう一つの原因は心理的なものもあったと朱将軍は付け加えた。

「敵は、われわれが匪賊だという味方の宣伝を信じ、わけなく叩きつぶせる、と思っていたのだ」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-26 15:30 | 朱徳の半生

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朱将軍は張将軍との決戦の話をする前に、紅軍内部での反逆行為のことを語り始めた。

あやうく形勢を一変して敵に利するものになり得たかも知れなかったのである。

何週も続く戦闘の最中に、リュウ・チ・ツァオというある地主の息子が東固の農民からなる第二十紅軍を率いて反乱を起こした。

10月に吉安で入手した反ボルシェヴィキ(AB)団に関する書類によれば、少なくとも東固の一人の地主の家族のものが、国民党の秘密情報機関と連絡していることはわかっていたが、しかもリュウは吉安の近くの富田地域の防衛の任を与えられていた。


リュウ・チ・ツァオと東固と興国地方の政治指導者でAB団と連絡をとっていることがわかっていた地主の家の息子である李文林は、朱徳と毛沢東が反対していた李立三主義の最も忠実な信奉者だった。

李立三主義とAB団との繋がりがいつどこで出来て、こうした指導者たちがいつどのようにして李立三主義からAB団に関わっていったのかは、朱徳と同志たちは当時はわからず、ずっと後になって知ったのであった。


とにかく、こうした複雑怪奇なことはどうでもあれ、朱将軍は、共産党が一掃しなかったところの東固の地主階級こそが、第二十紅軍の叛乱の真の原因だと信ずるのだ。


リュウや李文林は腹の底で考えていることを農民兵たちに明かす勇気はなかったので、朱徳を「第二の蒋介石」、毛沢東のことを共産党を裏切る「党皇帝」とののしった。

彼らの雄弁は目的通り富田地方で反乱を起こし、多くの共産党指導者が殺された。

それから彼らは吉安地方の国民党の勢力地域に逃げていき、そこで共産党の小さな一派を作り、わけのわからぬ宣言を次々に出した。

たとえば、朱徳は急に高潔なる人物と褒めたてられ、毛沢東は反逆者の烙印を押されたり、逆に毛が褒められて、朱徳が非難されたりした。


朱将軍はいうのだがーーいかに包みかくそうとも、紅軍は事実を見抜いたのであり、その明らかな事実とは、国民党軍は、この叛逆者に対して何らの行動にも出なかった、ということである。しまいには、東固の農民たちは、事実を知って、逃亡して元の部隊に帰ってきたのだが、そこでは彼らは、迎え入れられ、再編成され、再教育された。


しかしこの反乱のおかげで、国民党第十九路軍は興国を占領し、張輝サン将軍の第二十八師団は東固を占領することができた。

東固ではパルチザンと人民が敵と戦ったが、村々は破壊され、何百の人民が殺され、最後に東に逃げて紅軍の本隊に合流した。


以上が、朱徳と毛沢東や幕僚が張輝サン将軍の第十八師団に決戦を挑んで、本隊を粉砕しようと決意したときの周囲の状態であった。

                             紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-04-25 20:53 | 朱徳の半生

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1930年の10月末、いよいよ「アカ」を絶滅するという仕事が行われることになり、上海や他の大都市では沸きかえるさわぎだった。

北方の敵を征服して帰ってきた時の英雄蒋介石は、十万の精鋭部隊を江西の「紅匪」にむけるのであった。


中国では共産主義は帝国主義や封建主義とはどうしても妥協しない唯一の勢力で、党員は主義のために喜んで死ぬということを実証した唯一の組織だった。

こういう人間は危険ではあるが弱いので、手遅れにならないうちに攻撃を加えたら叩き潰すことができる。

今こそその時であり、結果は明らかだ。

いったい江西の「アカ」とは何者かといえば、百姓と労働者、つまり人間のクズの集まりでしかない。

全世界で知られているように、中国の百姓は誰が天下を支配しようとかまわず、少しばかりの土地を耕せてもらえればいいという人間ではないか。


国民党の機関紙と外国の協力紙はこのように鳴り物入りで騒いだ。

機関紙は堂々と紅匪討伐に向かう軍の計画の詳細、行進路まで発表した。

だが、国民党軍に破れて吉安から敗走したという朱毛軍の方からは何らの気勢もあがらなかった。

紅軍はいまや「敗残の匪賊」でしかなく、まもなくこれを完全に包囲し絶滅することができるだろう。


その江西では朱徳、毛沢東と同志たちは丹念に国民党新聞を研究し、朱徳は強気で書いてある戦争記事すべてに印をつけて傍線を引いた。

紅軍はラジオはまだ持っていなかったが、通信機関と情報網はかなり進歩していて、国民党新聞の軍事報道と紅軍の通信情報はよく合っていた。

まだ上海からの報道は来ていなかったが、朱徳と毛沢東は使者を上海に送り、共産党中央委員会の李立三理論への反対を表明していた。

結果がどうであれ、二人はこれが正しいのだと信じていた。


10月中旬、朱徳と毛沢東と同志たちは吉安北方の彭徳懐の司令部で軍事会議を開き、吉安を撤退することを決定した。

数の上では倍の敵軍に対して死守するための犠牲に耐えられないと判断したためであった。

彼らが軍の主力四万人を率いて撤収して、すでに強化されている東固山基地と広昌の城市との中間の地域にあるソビエト地区に入るならば、そこで人民の完全な支持を得るだろう。

朱将軍の言葉を借りると、


「自己の好む戦場をえらび、迅速な集中と散開とによって、われわれをせん滅すべく送られてきた敵師団の中の、まず一つを、つぎに一つをと、包囲し攻撃することができるだろう」


その後四ヶ月間にわたって続いた戦闘のうちで、特に一つを朱将軍は抜き出して紅軍の戦いぶりの例証とした。

毛沢東が後に『中国革命の戦略問題』という軍事教科書を書いた時にも、この戦闘は彼の脳裏にあったに違いない。


「戦史では、一つの敗戦が、それまでのすべての勝利の収穫を無とする場合や、また、多くの敗戦ののちの一つの戦闘の勝利が、新しい情勢を打倒する場合が、多いのだ」


この戦闘は1930年の12月末日の張輝サン将軍が率いる第十八師団との戦いで、国民党軍の全戦争計画を崩壊させてしまったものだった。

張将軍は他に第二十八師団、第五十師団を持ち、その3つの師団は国民党軍の中堅になっていた。

すべて欠員のない正規師団で、外国製の武器で完全武装され給与も最高だった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-25 17:36 | 朱徳の半生

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朱将軍は敵軍司令部から重要な書類を発見したことで、特に吉安陥落のことを憶えていた。

これらの文書の一部は第一次「掃共戦」計画に関するものであった。

蒋介石は華北での戦争をすでに中止し、紅軍を攻撃するために十万の国民党軍を江西に向けて移動させていた。

戦争は10月の末に開始されることになっていた。


もう一つの文書は、いわゆる「反ボルシェヴィキ団」すなわち「AB団」に関するものだった。

これは国民党秘密警察の暗殺スパイ組織で、ソビエト区全域でサボタージュとテロとの網を張り巡らせていた。

文書に目を通した朱将軍は不吉な予感におそわれた。

というのはソビエト区に潜入している暗号で書かれていたAB団員の名前を共産党側は数ヶ月かけても解読することができなかったからだった。

しかし敵の側にも隙があった。

東固―興国ソビエト区のある地主がおおっぴらに署名した現金領収書のような重要な手がかりが見つかったのである。

李文林というこの地区の主たる共産党指導者の一人はまさにこの地主の息子であった。

朱将軍は李文林がAB団と連絡しているという事実はどうしても信じることができなかった。


それまでに紅軍は敵の秘密謀略に対抗する委員会を持っていたが、特に反革命対策特別委員会を組織して真剣に活動を始めたのは吉安事件以後のことだった。

朱将軍によれば、紅軍がだれひとりも逮捕しなかったし、新設された特別委員会のものはAB団員と友だちになり、その秘密グループに加わり、敵の全組織網を入手できるまで活動を続けた。

「そのころ」と朱将軍は恐ろしい悪夢を思い出したかのような表情で声を強めた。


「われわれのもっともすぐれた多くの同志が暗殺された。
また東固部隊として編成されていたわが軍の一部が、東固の地主の息子たちの指導のもとに叛乱をおこし、その結果、非常な混乱と疑惑との空気が作り出され、だれもが自分の兄弟を信用していいものかどうか、わからないような状態におちいった。
AB団員は、そっと、いくつかの迷信的な宗教団体を組織し、紅軍の滅亡を予言させていた。
彼らは、こうしてわれわれを大衆から孤立させようとしたのだ。
そのためには、彼らは『自由恋愛会』さえつくりあげて、そこで地主どもは、自分の家族の女たちまで動員して、紅軍の戦士たちを堕落させようと狂奔した」


紅軍は道徳についてはきわめて厳密な規律を持っていたので、農民と衝突することはなかった。

紅軍の道徳性の高さが非常に評判がよかったので、地主どもはぶちこわそうと躍起になったが、失敗したのである。

朱徳は直接兵士にぶつかってAB団が使っているあらゆる戦術を説明し、警戒心を呼び起こした。

朱徳や毛沢東、その他の指導者の身辺は特別に訓練された護衛兵が警戒にあたった。

しかしAB団の根を永久に絶滅するまでには、三人の護衛兵が暗殺されたのである。


肉食獣のような支配階級はむかしながらの特権的地位を取り返そうと戦っていたが、彼らの邪悪な権謀術数に対しては長く粘り強い闘いが必要だった。

朱将軍がこの闘争について語ってくれていた1937年の始め、筆者(スメドレー)はある大昼食会で彼と「反革命対策委員会」の主任とをじっくり見比べてみたことがあった。

当時この委員会の主任は11歳から鉱夫になった人で、中国のもっとも初期からの労働運動組織者の一人だった。


朱将軍は人だかりの中でも猫のように平静でのんびりしていた。

農民たちがキャベツを売ったり、心ゆくまでおしゃべりしたりして集ってくる市場などであれば、いつでもその中に紛れて溶け込んでしまえる。

彼はその平凡な容貌から動作にいたるまでどこまでも農民である。


これに反して、反革命対策委員会の主任の方は、どんな農民の集まりでもそのなかに溶け込んでしまうことはできない。

彼には休息もなければ息抜きもなく融通性というものがまったくない。

話し方も動作もきびきびと鋭敏で、よく統御された精力の化身のようである。

大闘争に立ちあがっているときの西欧諸国の工業労働者がしばしば示す特徴でもある。


朱徳や毛沢東はじめ、紅軍と共産党その他の指導者たちが、敵の秘密組織の手による暗殺から免れたのは、疑いもなくこの主任またはこの人と同じような人たちのおかげであった。


1949年1月に人民革命軍が北京に入城し、国民党の秘密警察、藍衣社の全メンバーに対して、ただちに武器を捨てて降伏し北京警察署に登録せよ、そうしなければ徹底的に掃滅すると命令したときに、筆者はふたたびこの主任のことを思い出したのである。


この命令に従って、北京郊外にある清華大学の人当たりのいいある教授が警察本部に出頭し、自分は藍衣社の「大尉」で、特に学生、教授、知識階級のあいだに恐怖心をばらまいてきたと登録した。

彼は正式に登録され、従来通り清華大学で講義を続けるように言い渡された。

だが、警察の新しい長官は彼に向かって穏やかに知らせた。


「あなたは、自分の登録内容について、ちょっとした間ちがいをおかした。あなたは、藍衣社では大尉ではないーーあなたは中佐だった!」



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-24 14:01 | 朱徳の半生

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朱将軍は現在いる場から完全に過去に戻り、彼の兵士たちが死をかえりみないで突撃を敢行し、敵の砲火によって秋の木の葉のようにたおれていったあの悲劇的な事態に今再び生きているかのように語る感性を持っていた。

何組もの兵士たちが敵の防衛線のまわりに張り巡らされた電流を通じた鉄条網を闇に紛れて突破しようとした。

あらゆる工夫をして飛び込んでいったが、次々にたおされていき、その場に彼らの死体が小さな丘を築いていったに過ぎなかった。


紅軍は農民から五十頭の水牛を買い受け、鉄条網を突破する「生きた戦車」として使い、続いて味方を敵軍に突入させるという戦術まで試みた。

これは大昔の物語『三国志』からとった策略だった。

電流の通じた鉄条網へ向かって水牛をならばせ、そのしっぽに農民が爆竹を結わえつけた。

爆竹に火をつけたまではよかったが、驚いた水牛どもは前に突進して鉄条網を突き破るかわりに、四方八方へはねまわって、見ていた人々を逃げ惑わしただけだった。

この妙計が大いに効力を発揮したのは、キリストが生きていた時代の少し後の時代であって、1930年のことではなかったということを思い起こして、朱将軍の口元は少し苦々しく歪んだのであった。


彼がついに退却の命令をだしたときには、多くの党員のなかには、この措置に抗議したり、彼と毛とを非難攻撃したりしたものもあった。

しかし、軍隊は問題なく服従した。兵士たちは、自分たちの骨のなかの骨であり血のなかの血であると考えてきた指導者たちを攻撃する、あらゆる意見に、むきになって応酬したのであった。

朱も毛も、みずから弁明する必要はなかった。

いや、そういうことができなかったのである。

というのは、彼らは、その司令部ともども、すでに江西省西北部の基地へ向って移動していたからであった。

千人にのぼる鉱夫の義勇兵を、あらたに選抜して紅軍に加えたのち、彼ら二人と彭徳懐とは、吉安近辺での集結点に出かけた。

ついてみると、全部隊が忠実に待ちかまえていたのであった。


毛沢東は集結した諸部隊に向かって連隊ごとに長沙撤退の理由を語り、続いて吉安を奪取する戦闘計画を説明した。

朱徳が部隊の中に入っていくと、兵士たちはいつものようにどっと取りまき、太く頑丈な手で彼の肩をたたいた。

彼もまた兵士たちの肩に手をおいて、兵士同士が話し合う同じやり方で互いに話しあった。


吉安は1930年10月4日の真夜中に陥落した。

その間毛沢東は軍務を離れて、行政面の仕事を担当し、吉安ソビエトの組織を指導した。

朱徳はあらたに紅軍に加わった一万人に達する農民労働者の義勇兵の問題を処理するために城外に出ていった。


吉安の市街全体が農民の大群衆であふれかえった。

農民たちは夜になると路上で立て膝のままで眠る有様だった。


朱将軍のいい方によると、「見物をすませ、大衆集会に出席してから、農民たちは、裁判にかけるために、地主どもを連れて、列をなして村々に帰って行った」


吉安が紅軍の手におちてから二週間の間に、百万にのぼる農民がその街を出入りした。

                              紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-24 10:02 | 朱徳の半生

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長沙占領と時を同じくして、8月1日朱徳と毛沢東は南昌攻撃を命じた。

やせて汗にまみれた兵士たちは南昌周辺の防禦陣地に向かって不眠不休で体当たりを続けたが、敵軍の砲火のもとに秋の木の葉のようにばたばたとたおれていった。

朱徳の顔色がしだいに土色に変わり、かすかに緑がかった色合いを帯びてきたように見えた。


24時間後、朱徳と毛沢東は指揮下の部隊に退却を命じた。

紅軍の各部隊は数マイルの間隔をおいた3つの縦隊となって、武漢へ向かって西に進み始めた。

その途上で彭徳懐の代表と出合い、江西省北西の森に覆われた山中に集結し、そこで彭軍と合流したうえで、李立三の指令を検討する会議を開いた。


李立三の指令は、長沙の奪回と第二軍団、第四軍団がすでに兵力を集中しつつあった武漢三鎮の占領を要求していた。

毛沢東はこの方針に異議を唱え、朱徳と彭徳懐が彼の意見に賛成した。

朱徳は次のような意見を述べて、毛沢東や彭徳懐やその他多くの参加者から支持を受けた。


紅軍はまだ、今後必要になってくる陣地戦を敢行するだけの、装備ももっていなければ、訓練もできていない。
長沙につぎこまれた敵の増援ぶり一つとってみても、彼らは、それぞれ電流を通じた鉄条網で強化された、三段構えの防禦陣地を構築している。
武漢の防衛は、さらにいっそう強力で、多数の外国軍艦が揚子江上に投錨し、紅軍の方向に砲門をむけて、待機している。
このように圧倒的な敵の兵力と、強力な装備とに対して攻撃しかけることは、結局紅軍の全滅をもたらし、その結果は、今後数十年間にわたって革命をおしつぶすことになるであろう。


しかしこのような意見はすべて否決され、9月第一週に長沙に対する第二回目の攻撃が始まり、9月13日の夕刻まで続いた。

数千の農民や労働者が紅軍の塹壕掘りを助け、米や弾薬を運び、戦場から戦死者や負傷者を運ぶのを手伝ってくれたが、人間の肉体は鋼鉄に対抗することはできない。


ついに朱徳と毛沢東は彼らの一生のうちでもっとも重大な行動の一歩であり、中国革命運動に難局をもたらした一歩を踏み出した。

彼ら自身も指導的メンバーの一員である党中央委員会が採決した政策つまり李立三路線を拒否し、紅軍に長沙からの撤退を命じたのである。

紅軍はそれぞれ異なった八個縦隊に分散して、江西省に帰り、9月30日吉安近くに集結した。

吉安は不在地主の城塞であり、南昌に次いで国民党軍の軍司令部のある要所であった。


朱徳と毛沢東との命令は、彭徳懐その他によって支持されたが、全部の支持はうけなかった。
そしてそれは武漢を囲んでいた他の二軍団の撤退を要求したものであった。
その結果、共産党としては、国民党独裁体制にたいする武装闘争の全国的計画全部を、放棄せざるをえなくなったのである。
しかしーーと、朱将軍は言明したーー。これ以外のいかなる決定も、「革命の生きた中核」を破滅させる結果になったであろう。
李立三路線は、純然たる「冒険主義」であり、――彼がさらにつけ加えていうところによれば、しかも、支持すべき根拠もないところの、ロマンチックなばくちにほかならなかった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-18 21:09 | 朱徳の半生

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朱徳と毛沢東の第一軍団が動き出すと同時に、彭徳懐の第三軍団は江西省北西の基地を出発して西進し、湖南省の首都長沙を占領し、後に北に方向を変えて武漢に向かうはずであった。

その間に、賀竜指揮下の第二軍団は西から、徐向前と張国燾は北から武漢に向かって兵力を集中させ、武漢内部からは工業労働者がゼネストに立ち上がる予定であった。

東西に揚子江を抑え、南北に北京―広東鉄道を支配する「中国のシカゴ」と呼ばれる武漢三鎮はこのようにして中国人民の同盟軍に手中に落ちて、やがて全中国も落ちるだろう。

スメドレーは朱徳の語りに「すばらしい、劇的な戦略だ」と口をはさんだが、彼は目を細めて謎めいた表情を返した。


「まったく、この作戦は、芝居だった!」みじかく、ちらと笑って答えた。


革命軍は数は少く、装備もきわめて貧弱だった。

一方軍閥の軍隊は兵力も大きく大砲も持ち、国の資源も注ぎこむことができた。

その上帝国主義諸国の軍隊が沿岸水域だけでなく揚子江の奥深く侵入していて、大都市である武漢の真ん前にいかりを下ろしていた。

朱徳たちの戦略は純然たる冒険主義だった。


「毛沢東と私とは、このことをよく知っていた。
しかし、この計画を阻止するだけの十分な情報をもっていなかったーーしかも、こういう疑念をいだいていたのは、じっさい、われわれ二人だけだった」


多数の政治工作員が部隊に先行して進み、農民に立ち上がるように呼びかけた。

紅軍が江西省を縦断して進撃するにつれて、敵軍は隠れたり、ばらばらに逃げ去ったり、南昌へ退却したりした。

進撃の途上で朱徳は数万の農民を軍に集めた。


「われわれは、農民をその場ですぐ武装させ、各戦闘部隊に配属し、行軍の途中で訓練した。
あらゆる大都市には戒厳令がしかれ、その路上には労働者やインテリの首が、ごろごろところがっていた。
ゼネストの準備は進行していたが、労働者の指導者たちは、すでに殺されていた。
われわれが、彼らを解放しないかぎり、労働者はなにもできなかった」


1930年7月29日、朱徳と毛沢東がはるか遠方から江西省の北端の南昌の周辺の強力な防衛陣地を観察した同じ日に、彭徳懐の第三軍団が湖南省の首都長沙を占領し、湖南、江西、湖北三省のソビエト政府の設立を宣言し、不在主席として李立三を推したという知らせが中国じゅうにぱっと広がった。


朱毛軍による南昌への脅威と、長沙の占領という事態に直面して、外国帝国主義諸国は国民党を援助するために直接戦場にのりだしてきた。

アメリカ、イギリス、イタリア、日本の砲艦は長沙から全外国人の引き揚げを終えていたが、紅軍による占領の次の日にはふたたび長沙に引き返してきた。

湘江に停泊したこれらの砲艦は長沙の市街に向かって四日間の砲撃を開始したので、市内には大火災が起こり、数千の兵士と市民が殺された。

この砲撃を指揮したのはアメリカの砲艦パロス号だった。

紅軍の長沙進撃の際、いちはやく逃げ出した地方軍閥である何鍵はこの外国軍の反撃に乗じて上陸してきた。


8月3日、紅軍の諸部隊と紅軍を支持している市民組織は長沙からの撤退を開始した。

長沙から江西省北西部の鉱山地帯をつなぐ支線の鉄道労働者たちは、その夜一台の機関車と三台の車輌を何回ものろのろと往復し、まず負傷者を撤退させ、続いて敵から没収していた印刷機械、新聞用紙、米、現金などの物資を運び出した。


8月4日、軍閥何鍵はついに長沙を奪回した。

彼は一週間にわたって数千の市民を大虐殺したので、商人や産業資本家まで彼のことを「罪のない人民を虐殺することしか知らない屠殺者」と非難したほどだった。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-04-17 14:53 | 朱徳の半生

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朱徳と毛沢東は共産党中央委員会の新しい革命戦略全体となっている理論に対して疑念を持っていた。

指令によれば、すべての武器は紅軍のもとに集められることになっていた。

つまり農民パルチザンが紅軍正規軍の一部となり、工業都市を攻撃する作戦のために、紅軍とともにソビエト区を離れなければならないことになる。

朱徳と毛沢東はこの案を拒否した。


この案を実行すれば、ソビエト区には武装した防衛兵力がまったくいなくなり、全地域は敵軍に占領され、紅軍は革命の基地を奪われることになるからだった。

朱徳たちは理論的にだけこの案を承認することにした。

彼らは農民パルチザンを3つの小さな軍に編成し、第一軍団の指揮下においたが、それぞれの郷土を守るために現在地にとどまるように命令したのであった。

朱徳は新戦略に対して次のように語った。


「毛沢東と私とは、この計画ぜんたいに対して、深い疑念をもっていた。
しかし、われわれは、この数年間、奥地に孤立しており、国内、国際情勢についてわれわれがもっている知識は、はなはだ不完全であった。
したがってわれわれとしては、中央委員会がおくってきたような、情勢分析を承認せざるをえなかった。
われわれは、資本主義の大恐慌のことも知っていたし、中国の国内情勢が、1911年に清朝が打倒されたときよりも、さらに悪化しているということも、一般的には知っていた。
われわれとしては、わが国が全国的な動乱の前夜にあるとのべている、中央委員会の分析を、承認しなければならなかった。


「それにもかかわらず、われわれの軍も、また、われわれの知っているかぎりでは、ほかの紅軍も、まだきわめて弱体で、貧弱な武装しかしていなかった。
たとえ、二、三の工業都市を占領することに成功したとしても、工業労働者の援助だけで、これらの都市を維持しうるかどうか、はなはだ疑問であった。
反革命勢力は、数のうえで、はるかに優勢だったし、また比較にならぬほど、優秀な装備をもっていた。
またわれわれは、国民党独裁政権を支持する帝国主義列強が、この独裁政権を守るために、われわれに対して、積極的に干渉してくるだろうということを、前にもまして確信していた。
なるほど蒋介石は、馮玉祥将軍と戦争していたけれども、彼が、われわれに対して、大攻勢を計画しており、しかも、きわめて近い将来、それをはじめるだろうということも、確信していた。


「毛沢東と私とをのぞいては、李立三路線に反対するものは、ほとんどいなかった。
われわれは、これを承認するよりほか、どうしようもなかった。
そこで、六月十九日にわが軍の再編成を完了し、――いまや、二万人の兵力になっていた――われわれは、最初に、革命にたいする忠誠の宣誓をおこなった。
そののち紅軍各部隊は、八月一日の1927年の南昌蜂起記念日に、忠誠の宣誓をおこなった」


最高の軍事・政治機関であり、中国ソビエト政府の先駆でもある革命軍事委員会の中核はこの時結成された。

この委員会は全国各地の各軍団の司令官と政治委員で構成されたが、当時通信方法がきわめて貧弱だったので、観念以上のものではなかったと朱徳は語った。


6月22日、朱徳と毛沢東は中央委員会が送ってきた国内情勢の分析を要約し、大都市への攻撃において各軍の任務、行軍の道筋、集結点を明示した命令に連署した。

二人の指揮下にある各部隊は、江西省中央部にある市に集結し、敵の勢力圏を突破し、江西省北端にある省都南昌に向かうことになった。

南昌を占領後、真北にある揚子江南岸の九江もとり、ついで揚子江沿いに西進して、1911年の革命の発祥地である漢口、漢陽、武昌のいわゆる大武漢三鎮に進撃することになっていた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-04-15 17:43 | 朱徳の半生