<   2017年 03月 ( 27 )   > この月の画像一覧

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外の世界との通信連絡網が確立されたので、朱徳たちはもう自分たちは暗闇の中で行動しているのではないと感じるようになった。

薄いライスペーパーに顕微鏡で見ないとわからないような小さな文字で書かれた上海からの報告書には、帝国主義諸国のあいだにも、南京の蒋介石独裁政権のあいだにも衝突と矛盾があることを伝えていた。


インドから転任してきたイギリスの高官は外交部の顧問になり、多くのアメリカ人が財政や交通関係の要職を占めていた。

またイギリス、アメリカ、ベルギー、フランスの金融業者たちは、中国の工業や鉱山を買収するか合弁会社にすることを計画していた。

中国にいる外国人たちは武器弾薬を蒋介石に売る一方で、蒋介石の味方や敵の両方の新旧軍閥にも売りつけてうまくやっていた。

さらに中国の新旧軍閥のあいだにも衝突があることを伝えていた。


中国が掠奪され、別々の外国の後援者に支持された蒋介石と広西の将軍とが中国の支配権を争っているあいだに、多くの地方で革命闘争が燃え上がり始めていた。

山東省のような遠い北方でも抵抗運動の拠点ができていた。

江西省の北東部では教育を受けた農民の方志敏が農民軍を作り上げていた。

南の広東省東江地方では彭湃が今もパルチザンを指導していた。

湖南省西部の山岳地帯では、メキシコの民族独立運動の闘士パンチョ・ヴィリャに例えられる賀竜が農民軍を編成していた。


広西省の西部と南部ではさらに大きな革命的暴動が起こっていた。

広西守備隊は反乱を起こし、広大なパルチザン区域を作ったが、一年後には蒋介石軍に敗れた広西の将軍が郷里に逃げ帰ってきたのである。

インドシナのフランス領から補給を受けていた広西軍閥の諸部隊はパルチザン区域を掃蕩した。

六千の広西革命軍は戦いながら血路を開き、山々を越えて江西南部へやってきた。

朱徳はこれらの部隊で紅軍第六軍団を編成した。


上海からの報告書には、共産党あるいは特に朱徳と毛沢東が「民主主義革命を達成するために、工業都市にかえって、プロレタリアートと都市の小ブルジョア階級との闘争を指導するかわりに、内陸の孤立した山のなかに退却して、軍事的冒険と匪賊行為をやっている」と非難攻撃する党員の存在にもふれていたことを朱徳は回想した。


「民主主義と人権に関する、これらの空虚な美辞麗句の背後には、革命に対する、裏切りがひそんでいたのだ」と、鼻息あらく、朱将軍はいった。
「中国のような半封建的、半植民地国家においては、人民にとって、もっとも単純な民主主義の権利でさえ、手に銃をとってたたかいとらねばならなかったのだ。
上海や漢口、広東、その他の都市では、演説、新聞、集会の自由、組織の権利を、要求したというだけの理由で、また、逮捕されたとき、法廷で自分を弁護する権利を要求したといういうだけの理由で、労働者やインテリが、路上で、首をきられていたのだ。
『帝国主義』ということばを使ったものは、だれであろうと、ただそれだけで、共産党員だという烙印をおされ、つかまれば、殺されたのだ。

八時間労働制や、賃金のひきあげ、児童労働の禁止などを要求してさえ、いっさい、共匪ときめつけられたし、労働組合の自由という思想も、もちろん同じ結果をまねいたのだ。


「毛沢東と、われわれ多くのものは、はじめから、中国の人民が、民主主義の諸権利をかちとることができるのは、外国帝国主義の下僕である反革命勢力を、武力によって打倒したときだけである、と考えていた。

多くのものは、このことを理解もしなかったし、理解しようともしなかった。
しかし、地主の支配のもとに暮らしている、もっとも単純な農民、あるいは、国内と外国との反動どものむちのもとで働いている、もっとも単純な労働者は、このことを、よく知っていた。
毛沢東と私自身、さらにわれわれが指揮していた部隊はどうかといえば、――われわれはみな銃をすてて、国民党の首切り人のまえに、われわれの首をさしのべるなどという考えは、毛頭もっていなかった」


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-31 13:49 | 朱徳の半生

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汀州という町の占領は、中国革命史上の転換点であったことは明らかだった。

上海にあった共産党中央委員会からの使者が、国内や国際情勢に関する報告書と重要書類を持ってやってきたのは、占領から2、3日してからだった。

その文書の中には、中国国内のテロのため1928年の夏にモスクワで開かれた共産党第六回大会の報告と決議もあった。

第六回大会の少し後に開かれたコミンテルンの会議も同じ結論に到達していて、その報告もあった。


朱徳と毛沢東とに指導された軍隊が、彼らの党の中央委員会と接触したのは、この二年間に、これがはじめてであった。
朱徳と毛沢東らは、彼ら独自の道をすすみ、必要と確信にもとづいて、行動したのである。


この上海からの使者の数時間後に、一人の農民が朱徳の司令部に入ってきた。

着ている服のはしの裏地から、数行の文を書いた布切れを出したのだが、そこに彭徳懐の名が署名してあった。

朱徳と毛沢東が1929年1月に井岡山の山岳要塞を取りまいた敵の封鎖部隊を突破して出ていったときに、井岡山に残して指令をまかせた若い指令が彭徳懐であった。

井岡山でのその後のことは朱徳も毛沢東も知らなかった。

彭の手紙には、現在彼は瑞金にいるのだが、朱徳と毛沢東がこちらに来るか、彼が汀州に行けばいいのか知らせてほしいと書いてあった。

瑞金は江西南部の小さな県城で、汀州から西へ2、3日の行程であった。


多数の軍事および政治代表と、護衛隊一個大隊と上海からの使者も同行させて、朱徳と毛沢東はただちに瑞金へ出発した。

瑞金で、彭徳懐は彼らに井岡山でのその後の話をした。


朱徳と毛沢東が井岡山を出発後、敵はこの要塞の封鎖を圧縮してきただけでなく、ついに奇襲をかけてきた。

一人の選ばれた敵兵が腰のまわりに綱を結んで、絶壁を正面からよじ登ってきた。

彼は頂上に達し、次々とほかの兵士を引っ張り上げた。

彼らは人目につかない紅軍の歩哨を殺した後、数千の敵軍がどっとこの山道を登ってきて、包囲されていた革命軍に襲いかかってきた。

その結果、約六千人の革命軍は病院や兵舎で徐々に餓死していった。


彭徳懐は、敵軍を押し返してできるだけ多くの病人や負傷兵を森の中にかくす時をかせごうとした。

はって逃げたものも少しはいたが、やがて狩り出されて殺されてしまった。

そのほかのものは寝床に横たわったまま殺された。

やがて兵舎と病院は焼かれて灰燼に帰し、井岡山の家や建物すべて焼き尽くされ、防衛施設は爆破された。


この、身の毛のよだつような大虐殺のあいだじゅう、雪がふりつづけ、寒風が、悲しみの歌を泣きさけびつづけていた。

彭徳懐は、わずか七百人ばかりになった生きのこりをあつめ、これをひきいて、かつて朱徳と毛沢東とが通った同じ道を、岩山をわたり、石ころ原をこえて、進んでいった。
その部隊は、この年のはじめに井岡山を出た朱徳・毛沢東軍よりも、はるかに悪い条件におかれていたが、しかも封鎖をやぶって、脱出したときには、もう敵に大打撃をあてはじめたのであった。


紅軍はゆき先々で朱徳と毛沢東の行方を探したが、あちらこちらで朱毛軍が通り過ぎたという農民の噂を聞いたぐらいで、見つけることはできなかった。

ついに彭徳懐は朱徳や毛沢東は殺されたかも知れないと思うようになり、単独で紅軍を建設し、大衆革命運動を組織する活動に取りかかった。

多くの農民が彼のもとに集まり、瑞金にいたその時までには千五百人の勢力になっていた。


やがて汀州が紅軍に占領されたという噂を聞いた彭徳懐は、ただちに方向をかえ東に向かって進撃を始め、瑞金守備隊を撃滅したのち占領してしまった。

朱徳と毛沢東が瑞金に着いて、三日三晩続けられた瑞金会議で彭徳懐の話を聴いたあと、上海の使者が持ってきた報告と諸決定を討議した。


「われわれは、この諸決定を承認し、ただちに、それを実行にうつしはじめた」


と朱徳はこの会議の模様を簡潔な言葉で語り終えた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-30 13:35 | 朱徳の半生

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朱徳と毛沢東が三千人を率いて江西南部の人民に蜂起させていた頃、福建省南部の汀州という町で革命の発展上一つの転換点になった幸運を得た。

紅軍はこの町を占領する計画はなかったが、優勢な敵から逃れて24日間行軍したあと、江西省と福建省の省境を南北に走る山脈の上で露営した。

汀州からほんの少し北に位置した。


汀州はもと匪賊の頭目クオ・ファン・ミンに統治されていた。

彼は匪賊として成功し、大地主になり、国民党の将軍になった男だった。

クオの部隊は国民党軍に編入されてはいたが、大半は職業的匪賊であり、阿片吸引者だった。

彼らを汀州の城壁から外で誘き出せば、必ず占領できるだろう。

そのためには、彼らの敵が少数で貧弱な武器しか持っていないと確信させないと不可能だった。


クオ将軍の部隊が外に出てくるとしたら、道は1本しかない。

その細い道は汀州から北に向い、深い急流を抱いた狭い渓谷に沿っていた。

紅軍はこの谷を見おろす山並みの上に露営していたのだ。

紅軍は数人の農民の案内人を汀州の町に送り、紅軍がすぐ近くで露営していて、武器はほんのわずかしか持たず、弾薬は空で、銃をまくらに眠って夜が明けるのを待っているという噂を広げさせた。


翌日の昼少し前に、二個連隊の敵軍が谷底を通る細い道を、一列縦隊になって進撃してきた。

敵の司令官は、4人の人夫にかつがせた椅子かごに載っていた。

これを知った朱徳はクオ将軍が手柄をたてようと思って、みずから出かけてきたのにちがいないと喜んだ。

朱徳と毛沢東が待ち構えていた地点に敵軍がさしかかったとき、紅軍の前哨はあてずっぽうに数発の玉をうって、あたかも恐慌状態に陥ったかのように大さわぎしながら、山の斜面を逃げ登った。


「わが軍の前哨は、発砲しておいて、山のなかへ、敵軍をさそいこもうとしているのだな」と朱将軍は推測した。


敵軍は追跡を始めて、汗をかいてあえぎながら、高いところまでよじ登ってきた。

まったく抵抗も受けないので、しだいに大胆になってきたそのとき、紅軍はついに隠れていた場所から一気に襲いかかり、山の斜面を追い落としながら追跡した。

谷底の小道で若干戦闘を交えたが、敵軍の残りは川にぶつかり身動きできなくなり、全員武装解除された。

最期に一人の哨兵が立派な軍服を着て贅沢品を身につけた太った大男が逃げる途中で殺されたことを報告した。

大きな金時計と金ぐさりを身に付け、たくさんの指輪をはめていたクオ将軍であることが明かになった。


夜に入って紅軍は汀州を占領し、敵軍を武装解除し、朝までにこの町と周辺の地域の支配権を確立した。

毛沢東は休む暇なく活動し、人民の諸組織を復活させ、人民代表会議(ソビエト)を組織し始めた。

この町の何人かの地主たちは捕まえられたが、残りは南の大きな城市である上杭に逃げていった。

土地は人民に分配された。


朱徳は3、4時間睡眠をとるだけで、ぶっとおしで活動することができた。

彼は捕虜になった敵兵から不適格者を除いて、若い農民義勇兵千人を得ることができた。

その他二千人の農民を組織して農民パルチザンを編成したり、青年を集めて赤衛隊を作った。


朱徳の汀州での記憶で、特に印象に残っているのは次の3つであった。

一つ目は、クオ将軍の死体であった。

農民たちは彼らの敵がほんとうに死んだことを確かめるために大勢が見物に集まり、朱徳の演説をじっと聴いた。


「そこにころがっとるのは、世界最大の悪党だ!」


二つ目はクオ将軍の弾薬の大部分を補給していた小さな日本製の二つの兵器工場だった。。

紅軍が奪い取った兵器のうち、二千挺の小銃と数十挺の機関銃はすべて新品で日本製であった。


三つ目は近代的な日本製のミシンを備えた工場だった。

その工場もクオ将軍が所有していて、彼の部隊の軍服を製造していた。

それまで工場の労働者は一日20時間も働いていたが、今や一日二交替の8時間労働制を確立し、紅軍の軍服を製造し始めた。


朱将軍が、これらのミシンについてはなすときは、本当に声まで、やさしくうるんだ。
ミシンは、「われわれにとっては、大へんなもの」であった、といった。
「というのは、それまで、われわれが着ていた、きものはぜんぶ、手で仕立てなければならなかったからだ」

「しかし、われわれは、いまや、はじめて紅軍の制服をもつようになった」と彼は、古い記憶をたどりながら、ちょっともの悲しげに微笑して、いった。


色は灰色がかった青で、ズボンにはすね当てがついていて、帽子には赤い星章がついていた。

外国の軍服に比べたら貧弱なものであったが、朱徳たちには実に立派なものに見えた。

紅軍の中で小さなグループができて、工場に行って仕立て職人がミシンを使う様子をじっと観察したりした。


ずっと後になって、紅軍が汀州を撤退することになったとき、職人たちは自分たちでミシンを運搬し、紅軍の行く先々で働き続けた。

1934年から1935年の長征のときにも、いっしょに持っていき、野外で仕事をするときもあった。

そして1937年1月に延安で建設された制服工場には、日本製の当時のミシンが並んでいて、中年になった仕立て職人が没頭して働いていた。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-29 21:10 | 朱徳の半生

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東固地方のゲリラ部隊を再編成して、軍の隊列に編入してからは紅軍の兵力は四千人前後になった。

このうち三千人は休養をとってから八日目にふたたび作戦に出かけていくことになった。

その他のものは山地に残って畑を耕し東固要塞を守る任務についたが、このうちの三百人は入院中や、健康を回復していないため戦闘に参加できない朱毛軍の古参兵だった。


作戦に出た三千人の半分は近代的兵器を持っていたが、ほかは槍で武装していたにすぎない。

ごくわずかのものは、むかしの軍服のなれの果てと呼べそうなものを一応着ていたが、残りはつぐはぎだらけのだぶだぶのズボンに短い上衣、わらじにへんてこな形の様々な帽子という極貧の中国人の格好をしていた。


みな痩せて飢えていて、多くは15歳くらいから20歳前後の青年で、その手は大きく丈夫で、足の裏は皮が厚く固くなっていた。

彼らにとって人生は労苦と窮乏、不安と抑圧の連続であり、ほとんどは文盲だった。


長いソーセージのような形の米を入れた袋を肩からぐるりとかけて、反対側の腰のところで結んでいた。

いまはこの袋に2、3日分の米がたっぷり入っていたが、無くなると地主の倉庫から補給するか、敵の補給部隊から奪いとるしかなかった。


もう一つの装備品は実弾を入れる長い布製のベルトで、両肩から前と後ろへ十文字にかけて、腰の周りまで届いていた。

小銃を持っていたもののベルトには数発の弾薬が入っていた。

出発前の最期の査問を行ったときに、槍しか持っていない兵士に朱徳はいった。


「諸君もすぐに、みな小銃をもつことになるし、諸君の弾薬帯もすぐ一杯になるだろう」


朱徳も毛沢東もほかの指揮者もみな兵士たちと同じ格好をしていたので、まったく区別がつかなかった。

1929年の夏に写した写真の兵士の輪の中に立つ朱徳の格好は、頭は坊主できれいに剃り上げられ、半ズボンと前に開いた百姓の上着だけで、はだしにわらじだった。

いつもの癖で、両足を大きく開いて立ち、手を腰にあてて、顔にはユーモラスな表情を浮かべている。


1929年の早春、朱徳は軍隊と農民とのお別れの集会で演説したときも同じような格好だったかも知れない。

彼はこの山地の要塞めがけて三方から包囲してくる十一個連隊の敵軍のことを説明し、その後数年間集会で千回は語った戦略を述べた。


「われわれは、敵の内部の矛盾を利用し、多数を味方にひきいれ、少数に反対し、こうして敵を一つ一つ粉砕してゆかねばならぬ」


実際、敵の陣営内には多くの衝突と矛盾の兆候があった。

東固への東側の入口はまだまったく敵に包囲されていなかった。

蒋介石は仇敵の広西の将軍と争うことで多忙だったので、福建軍の諸部隊に東側の入口を封鎖するように命令していた。

しかし福建軍はこの命令を守らなかったからであった。


その理由を朱徳は福建軍が自分たちの領地で金もうけを続けたかったからであり、さらに蒋介石は直系の精英部隊を紅軍との戦闘で消耗したくなかったので、地方軍に動員を命じたからだと説明した。


紅軍の将兵たちは8日間ではまったく疲れがとれていなかったが、月が高く中空にさしかかった頃、朱徳と毛沢東は三千の部隊を率いて東側の斜面を下りふたたび作戦を開始した。

はるかに数が多い敵と戦う場合、紅軍はそのときどきの情勢に応じて独自に考え出した戦術を使ったが、それだけではなかった。


古い昔の中国軍や蒙古軍が使った戦術、19世紀の太平天国の軍が使った戦術、1925年から1927年の大革命で学んだ経験に基づいて、日本の士官学校で教育された国民党軍の司令官たちを途方にくれさせた戦術などをきわめて的確に用いた。


山のふもとに到着すると、いくつかの小部隊を編成して、主力と反対側の方向に行かせた。

大きな町を攻撃するようなふりをして敵軍をひきつけさせて、突然村々のあいだで姿を消したり、また別の町の前面に姿を現したりして敵を攪乱させた。


その間に朱徳と毛沢東は村々から地主の民団を追っ払い、人民を蜂起、武装させ、幹部に後をまかせてやりかけた仕事を続けていった。

敵軍は神出鬼没の紅軍を追いかけて、江西南部を騒ぎながら駆けまわっていた。


紅軍は農民に案内されて夜間に敵に奇襲をかけ、あっという間に敵の補給部隊から物資を奪い取り、たちまち姿を消したかと思うと、数マイル離れた別の地でふたたび姿をあらわすのであった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-28 07:43 | 朱徳の半生

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朱徳は毛沢東と彼が演説した東固での一般的大衆集会を回想した。

毛沢東は「われわれの力はまだ弱くて小さいが、火花も炎のように燃え上がることができるから、われわれには無限の将来がある」と演説し、

「一定の時期に、一定の諸条件がもとで、人民の権力は地域を広げ、大都市から最後には全中国を解放するだろう」といつものように革命の戦略と戦術を説明した。

これは誰でも理解できる実際的な戦略であるが、大陸の未知の未来を考えると、とても複雑で無数の疑問点は否定できなかった。


朱徳はいつでもどこでも主に二つの思想を強調して演説した。


「第一に、各部隊や、人民に向って、太平の叛乱にはじまる、中国革命の歴史的背景を説明し、それによって、彼らこそ、偉大な革命的伝統の後継者であるという確信をあたえ、彼らを鼓舞したのである。

第二に、彼は、「中国のごとき、半封建的半植民地国家においては、武装闘争なくしては、農民も労働者も生きることができないし、また共産党も、土地改革、あるいはその他いかなる改革も、存立の余地がないし、革命の勝利もあり得ない」ということをくりかえしくりかえし、説明した。


そして農村における農民のこのような闘争は、都市の労働者や知識階級の援助を得て初めて成功できるのだと説明した。


1929年の早春、朱徳は部隊と人民に向かって、彼が知っているかぎりの国内、国際情勢を次のように率直に分析してみた。


蒋介石は国民党軍十一個連隊に対して東固山地の要塞を封鎖するように命じた。

と同時に蒋介石は広西省の将軍と戦争を始めていたので、井岡山の封鎖のときのように、彼の最良の軍隊を東固で消耗させることができない。

もともと国民党の軍隊は自分たちの領地に平穏にとどまって、税金を集めたり阿片を売ったりすることだけを望んでいる。


「泥棒や追いはぎ同士が仲たがいをし、たがいに戦っているあいだに、人民は、この好機をとらえて、みずからを組織し、武器を固め、人民の権力をうち立てなければならない」


さらに説明を続けた。


東北満州においては中国の支配階級と帝国主義者の両方を巻き込んだ衝突と矛盾が起こっている。

東北を支配している「青年元帥」張学良は国民党の旗を掲げて日本帝国主義に挑戦したが、同時に自分を守るために東北におけるすべての国際問題の処理を南京の蒋介石政権に引き渡した。

さらに蒋介石が自分の領土でやったように、東北における国民党政府の全員に対する独占的任命権を要求した。

こういうことから考えても、国民党は官僚と軍閥の組織以外のなにものでもない。

しかし日本は他の帝国主義諸国と同じように、張学良と関係を断絶することも、東北を諦めることもしなかった。


遠く過ぎ去った時代を回想しながら、朱徳は革命勢力のあいだにもかんたんに解決できない問題が潜んでいたことを認めた。


朱徳たちが来る前に、東固の拠点を指導してきた共産党指導者たちは地主の息子か地主そのものだった。

ほとんど若くて教育を受けている彼らは大革命で重要な役割を演じて、その時に共産党員になったのであった。

数人は黄埔軍官学校の卒業生で、そこで教師をしていたものもいた。

全員が南昌蜂起に参加し、その後彼らの郷里である東固地方に帰り、土地革命を始めたのであった。

しかし知識階級の彼らは革命のためにはあらゆることをしたが、彼ら自身の土地を小作人に分配することだけはしなかった。


ここに、すなわち、共産党の内部にも、また、すでにはじまっている土地革命のなかにも、思想と行動との両面において、封建主義の残滓がのこっていることが、明かになった。


しかし毛沢東や朱徳や彼らの幕僚たちは、東固出身の党指導者たちに共産主義の綱領と政策をもっと忠実に実践するようにあえて強く要求することはしなかった。

というのは、ちょうど強力な敵の諸部隊が紅軍めがけて四方から集中しているときだったので、深刻な内部闘争にひきずりこまれるのを避けたからだった。

紅軍としては、東固の大衆のあいだから革命闘争が湧き上がるのを待った。


そして一年後に土地革命が江西全省に広がっていったときにこのような闘争は起こった。

東固の出身者で編成されていた紅軍第二十軍団がついに紅軍に対して叛乱を起こした。

第二十軍団の指揮官たちは彼らの農民部隊を恐れて、共産党と紅軍を直接あえて非難する勇気は持っていなかった。

かわりに、毛沢東と朱徳をにせの共産党員だと攻撃して、彼らだけの小さな共産党を結成した。


このような地方指導者の中で忠誠を守って最後まで紅軍にとどまったのはたった一人だった。

この男は第十五軍団の参謀長になり、1937年の時点でもまだ紅軍に残り、延安の抗日軍政大学の指導者になっていた。

結局、その他のものたちは大衆に支持されていった土地革命の流れを食い止めることは出来なかった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-27 07:26 | 朱徳の半生

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東固の約25マイル南に城壁をめぐらした興国という大きな町がある。

2、3週間後には紅軍の手中に落ち、東固といっしょになって「東固―興国地方ソヴェト区」を結成した。


東固にはすでに小さな病院が建てられていたが、紅軍の病人や負傷者、疲労しきった人たちまで収容できないので、農家の家に招かれて世話になることになった。

この高い台地で紅軍は休養をとり、入浴もした。

しらみを駆除したり、傷ついた足の手当をし、材料を工夫して自分でわらじを作ったりした。

しかし一日も教育を休むことはなく、毎朝どの中隊も教練や演習をしていた。

さらに一日二食の最初の食事がすむと、兵士たちは軍事指導者や政治指導者の講義を聴いたり、討論会に参加した。


そして読み書きのような一般的教育課程はまだ系統的に教えられていなかったが、指揮官たちはできるだけ時間を作って読み書きのできないものに教えようと努力していた。

紙や鉛筆はなかったので、彼らは小さな棒切れで土の上に文字を書いて習っていた。


紅軍が成立して以来、一貫して実践してきたものの一つは、これまでの戦闘や作戦を分析する会議を開くことであった。

朱将軍や毛沢東を含めて、指揮官や兵士全員が参加し、一切の階級を越えてみなが自由に意見を述べる権利を持っていた。

戦闘や作戦の計画が討議されたり、批判されたりもした。

また指揮官であろうと兵士であろうと、個人的行動も批判の対象になり、批判されたものは弁明の機会も与えられた。

しかし、非難が正しいと証明されたときには、批判されたものは紅軍司令部から懲戒処分を受けた。


朱将軍は、このような会議を、きわめて重視していた。

会議は、――と朱将軍はいったーーできるかぎりの方法で、人々を進歩させたし、また紅軍を民主主義的にしてくれた。

こういうやり方によって、――と彼はつづけたーー戦闘でその任務の遂行に失敗したものや、紅軍の民主主義的規律をおかしたものは、階級を下げられ、再教育されたし、また一方、すぐれた智慧や特別の勇気をしめしたものは、昇進した。

同時に、はっきりものをいうことができなかった農民兵も、軍事や、政治、あるいは人間的諸問題について、自分で考え、自分の意見をのべることを、学んだのである。

また農民兵は、古い封建的軍閥軍とは反対に、民主主義的軍隊の性格を学び、慎重さと責任を学び、人間として、また、革命軍の責任ある一員として、自己の価値をたっとぶことを学んだのである。


朱徳は、こういう会議で下級兵士たちが持ち出す質問や思想にいつも深い感銘を受けていた。


「わが軍の将兵は、戦闘の最中には命令に従わなければならないが、国民党軍の兵士のように、命令の意味を理解せずに、ただ命令を受けとって従うということは、われわれののぞむところではない。
われわれは、人民革命軍であり、未来を建設しているものであった」


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-26 11:48 | 朱徳の半生

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旧正月がきた。

家ごとに正月を祝う赤い紙がきらめき、料理店や金持ちの家からは音楽が鳴り響いていた。

南江西の瑞金という小さな県城では、ちょうど江西省軍一個連隊が帰ってきて、「朱毛匪」の大部分を皆殺しにして、敗残兵は福建省境の向こうに追っ払ったと報告していた。


この大手柄の褒美として、街の要人たちは連隊のために正月の大宴会を開いた。

建物の中に準備された長いテーブルの上には赤いろうそくがいくつも輝き、酒盃のひびき、料理の香り、哄笑が沸きあがっていた。

連隊中が完全に気を許していたので、一人の歩哨さへ任務についていなかった。


テーブルの上にご馳走が並べられ、箸をとりあげたその瞬間、弾丸がとぶようなヒュッという音がした。

たちまち一座は深い沈黙に陥った。

彼らが驚きのあまり口を開けて呆然と見つめている間、森の狼のように痩せた「朱毛匪」が、地からわいてきたように銃をかまえて部屋の中に長い列を作って立ち並んだ。

しゃがれた号令がかかると、彼らはいっせいに立ち上がり、両手を頭上高く差し上げて、闇の中に出ていった。

外では別の幽霊が待っていて、大きな石造りの寺院に彼らを閉じ込めて見張りの兵士を立てた。



「われわれは、やつらの正月の御馳走を、すっかりたいらげた」と朱将軍は大笑いした。


翌朝、紅軍は北東に進み大柏地の山地へ入ったが、後を追って約一個師団の敵の部隊が二つの方向から迫ってきていた。

朱徳たちはできるだけ早く歩いて余裕を作り会議を開き、追撃者を今回限りで徹底的に追い払おうと決議した。

そして戦闘計画を討議したあと大衆集会を開いて、敵を皆殺しにするか、そうでなかれば戦って死のうと拳を上げて誓った。


ものすごい激戦になったが、朱徳は「実にきわめて単純だった」と振り返った。

その夜のうちに林彪が一個連隊を率いて行軍し、戦闘が始まった夜明け前には敵の一個縦隊の真後ろにまわっていた。

紅軍は各自二十発ぐらいの弾薬しか持っていなかったが、すぐに使い果たし、木の枝や棍棒で戦い、太陽が頭の上にきた頃には敵の師団を完全に打ち破っていた。


捕虜は約一千人ぐらいしかいなかったが、その中から百人の貧農出身者を選び出して、紅軍に加わって勝利をおさめる日まで闘い続けてくれと訴えた。

残りの捕虜はむかしながらの傭兵で阿片の常飲者であることはわかっていたので、釈放した。


この大柏地の戦闘は、土地革命や敵の士気に与えた影響において一つの転換だった。

その後敵軍が紅軍を追撃してくる場合は、遠く離れて近寄ろうとはしなかったし、福建の諸部隊はこんなことは自分たちの仕事でないといって福建省へ引き上げてしまった。


数日後江西省中央部の城壁をめぐらした寧都という都市を占領した。

地方守備隊と地主たちは紅軍が近づくとたちまち逃げ出した。

商工会は大昔からの慣習通り国民党の旗を引き下ろして赤旗を掲げ、紅軍に五千ドルの金と市の鍵を差し出した。


朱徳と毛沢東は金は受け取ったが、宴会への招待は拒絶した。

紅軍は地主から食糧やその他の財産をすべて没収し、余分は市の貧民に分配し、全市民の大衆集会を開いた。


さらに紅軍は占領した町や市ではどこでもしてきたように、「犯罪は、階級の問題である」という理由ですべての牢獄にいる囚人を釈放した。

囚人の多くは政治犯で、ひどい拷問で一生治らない不具者にされていたし、その他は個人財産に対するささいな犯罪を犯した貧乏人であった。


寧都に3日間とどまり、紅軍は負傷者、病人、疲労したものを集めて、地主から米や補給物資を没収したうえで、東固山地の基地に向かって西へと行軍を開始した。


この行軍はまるで凱旋行進のようだった。

農民たちが積極的に負傷者や補給物資の運搬を手伝ってくれた。

東固基地にある竜岡の町は農民運動の強力な中心地で、みなが紅軍を歓迎し、それぞれの家庭で歓待したいと申し出てくれた。


ここで朱徳と毛沢東は黄埔軍官学校出身の李文林という人物に出会った。

彼は一個中隊のゲリラを率いて、紅軍を山に案内するためにやってきたのであった。

                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-25 15:48 | 朱徳の半生

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朱徳と毛沢東は四千人の兵を率いて敵の封鎖を突破した。

井岡山の山麓から外界へ通じる道を知っているのは、匪賊になった農民以外いなかったし、誰もあえてこの道を辿ろうとする冒険をおかすものもいなかった。

山道の痕跡すらなく、巨岩と火山の先鋒との混沌とした世界にすぎなかった。


1929年1月の明け方、井岡山と江西―湖南の省境を南へ走る山脈を結びつけるぎざぎざの尾根のいただきを、ぼろぼろの服を着た男女の群れが一列になってはいのぼり始めた。

激しい風雨雪のためにすべりやすく、くぼみには雪がたまっていた。
口を開けている真っ暗な割れ目にすべり落ちないように、互いに手をつなぎ合って少しずつ進んでいった。


夕暮れがせまる頃、彼らは狭くて傾斜した固い火山岩の台地に着いた。

そこで各人が携帯していた冷たくなった米の飯を半分だけ食べた。

互いに身を寄せ合い、震え、咳をしながらその夜をすごした。

夜があけると、ふたたび南に向かって進んでいった。

午後遅くに、大汾の村へ下る雑草の生い茂った細い道に出た。

この村には、敵兵一個大隊が駐屯していた。

この山道で行軍を停止し、残りの米の飯を食べて、夕闇がたちこめてきたときに、音をたてないよう静かに下り始めた。

山道のふもとに着いてから、彼らは大汾の村を包囲し、弾薬を持った数個部隊が村に入ってゆき、たちまち敵の守備隊を制圧してしまった。


「その晩は、われわれは、実によくたべたよ!」と、朱将軍は、いかにも満足そうに、語った。


捕虜たちとはよく話し合った後、釈放した。

捕虜を訓練する計画は持ってなかったし、むしろ彼らに警報を拡げさせて、封鎖部隊に自分たちを追跡させようと考えたからだった。

ところが、封鎖部隊ではなくて、ほかの場所にいた敵軍が警戒態勢についた。

南に向かって急進撃を続けながら、かかしのようなぼろをまとった紅軍の諸部隊は、瞬時に地主と民団を襲撃し、敵から食糧や補給物資を獲得し、地主の家で手に入れた服で着替えをしていった。

そしていたるところで農民に呼びかけ、彼らの昔からの仇敵を一掃させた。


紅軍はこの地方の守備隊を粉砕し、江西省南西部のタングステンの都市大余を占領し、三日間とどまって、弾圧されてきた大衆運動を復活させた。

こうしてわざと敵軍一個連帯に紅軍に追いつく時間を与え、彼らを混乱と絶望の戦闘に追い込み、数百人の戦死者を出させた。


朱徳と毛沢東は退却を命じた。

その後の10日間は、氷に閉ざされた山々の中で四方八方から攻撃してくる敵軍との激戦の連続だった。

紅軍が通り過ぎた雪道の上には、血にまみれた死体が続いた。

昼間しか行動しない敵軍を追い抜くために、紅軍はいつも数時間だけの休息をとり、真夜中ちょっとすぎに行軍を開始した。


村に近づくと、紅軍はまず一人か二人の兵士を先行させたので、農民たちは外に出てきて、紅軍のために米を集め、負傷者や疲労した人を引き取って匿ってくれた。

あとに残って農民の世話になるものには回復したら、農民を組織できるように小銃と数発の弾薬を与えておいた。


「紅軍の兵士を訓練するに当ってのわれわれの方針は、たとえたった一人だけしか生き残らなかったとしても、その一人が人民を蜂起させ、指導することができるようにすることだった」と朱将軍はかたった。

「あの恐怖にみちた時代には、数かぎりない戦闘をまじえたが、あるときはたった一回の戦闘で二百人もの同志を失ったこともあった。
またあるときには、二十人の兵士と一人の黄埔軍官学校出身者とが敵の捕虜になったことがあった。
この二十一人は、そのころ江西省南部のある県を守っていた一個連隊の敵軍に加わった。
二、三ヶ月後、彼らは、連隊全員を指導して、叛乱をおこし、この県をゲリラ基地にかえしてしまった。
その後、ここは、われわれのもっとも強力なソヴェト地区の一つになった」


さらにほかの戦闘では朱徳の妻呉玉蘭が行方不明者の一人になってしまった。

彼女は拷問されてから首を切られ、彼女の首は郷里の長沙の町に送られた。

市の長老たちはその首を棒の上に突き立てて、大通りのさらしものにした。

彼女と同じような考えを持つものに対する見せしめにしたのだった。

                            紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-03-25 09:00 | 朱徳の半生

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蒋介石による井岡山地方封鎖命令が出された頃、朱徳将軍は広東省から進撃してきた封鎖部隊を切断するための牽制作戦を行おうと、紅軍三個連隊を率いて、南部湖南へ進撃した。

旧雲南軍時代の朱徳の旧友范石生将軍が友情を裏切り、反革命の側へ寝返っていたからだった。

朱徳は彼に教訓を返してやろうと決意した。


范将軍の諸部隊は南湖南のある都市を占拠し、大量の弾薬を蓄えていた。

朱将軍の部隊が突然この町を襲ってきたので、野外で訓練していた范将軍の部隊数個中隊は度肝を抜かれて何もできなかった。

ただちに范将軍の全兵士の武装解除が行われた。

さらに朱徳は数百人の敵兵が講義を聞いている大きな公会堂へ平然と入っていった。

敵兵が机にかけたままびっくりして眺めているあいだに、彼の部隊は公会堂の壁にかかっている小銃と弾薬を取り上げてしまった。

さらに残りの部隊は天秤棒と縄で弾薬箱をせっせと運び出していた。


范将軍の部隊が体制を取り戻すころには、朱徳の部隊は山のような分捕り品をかついで山に帰っていった。

その途中で彼らは二個連隊を率いて救援にきた毛沢東に出会い、井岡山の封鎖がほとんど完璧に近いという報告を聞いた。

彼らは行軍しては重荷をおろして襲撃してくる敵軍とたたかって追っ払いながら、ついに朱徳と毛沢東は曲がりくねった細い道にたどり着き、荒涼たる井岡山の山中に登っていった。


「井岡山の基地から、われわれは、敵軍を、見おろすことができた」と朱将軍はかたった。

「敵の動きは、全部わかった。やつらが、食事のしたくをするのまで、われわれは見張っていた。
月がまんまるくなる仲秋節の最期の晩、われわれは、一つの山道のふもとに露営していた敵軍六個中隊を、捕虜にしようとして、数個部隊を下山させた。
二時間後に、彼らは、敵兵をつれ、その補給物資をもって、山道をのぼってきた。
農民出身のこの六個中隊は、わが軍に参加した。
一週間後には、封鎖部隊一個大隊が、脱走して、わが軍に加わった。
この連中は、四川の部隊で、この私も四川人だということをきいて、やってきたのだった」


9月の終わりには戦線は凍結状態になり、12月になると紅軍は飢餓に悩まされ始めた。

病院や兵舎に充満していた五千人の兵士のほとんどは飢餓から病気になったもので、肺炎や結核にかかっているものもいた。

雨が続き、寒い気候になっていたが、あたたかな服を着ているものはほとんどいなかった。


12月の半ばころ、彭徳懐が千人の兵士を率いて、北方から山岳地帯へやってきた。

彼は四千人の部隊を育てたが、半数は戦死してしまい、千人の兵力を黄公略の指揮下に残し、その残りを率いて井岡山にやってきたのだった。
半数は農民だった。


彭徳懐が到着してから会議が召集され、敵の封鎖を突破する計画がつくられた。

彭徳懐は千五百人の兵力と病人、負傷者を預かって山上に残り、毛沢東と朱徳は政治部の婦人も含めた残りの四千人を率いて封鎖を破り、ゲリラ戦を行い敵軍の勢力を分散させることになった。

この同行した婦人の中に朱徳の三人目の夫人呉玉蘭もいた。


この遠征に参加した男も女も1ポンドの米のご飯を携帯する袋に入れて持っていくことになった。

いくつかの前衛分隊には各人数発の弾薬を支給されていたが、弾薬の残りはすべて井岡山に残しておくことになった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-24 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳は井岡山の一帯をくまなく踏破して、地形と防御方法を研究し、匪賊になった農民たちの指導者王佐や袁文才と語り合った。

この二人は自分たちと同じ匪賊の一人であった「つんぼの老チュウ」の話を朱徳に語った。

この老チュウはよくこういったそうだ。


「おまえらは、戦さのやり方なんぞ知らんでもええ。おまえらが知っとらねばならんことは、どうして敵を囲むかということだけじゃ」


王や袁はこの教えを忠実に守ったので、彼らの一生のあいだ、井岡山の守りは一度も突破されたことがなかった。

しかも彼らの部下は弓矢などという原始的な武器でしか武装していなかったという。

大砲は中をくりぬいた木の幹でできていて、中に火薬や鉄や鉛の破片を詰めて、敵が近づいたら導火線に火をつけて大砲ごと爆死させた。


朱徳もこの老チュウの戦術から多くのことを学んだ。

国民党軍は前面と左右両翼に防衛隊を配置して、一縦隊で前進するという日本軍が常用する戦術を使っていた。


朱徳たちの軍は、迅速に行動できるいくつかの小戦闘部隊に分散し、敵の背後と両側面へ迂回して急襲し、敵をばらばらに寸断するという戦術をとった。


この戦術は学べば誰でも使うことができたので、軍閥たちもこの戦術を使おうとしたが、結局失敗した。


こういうゲリラ戦には、戦場の地勢についての完全な知識が必要であるばかりでなく、なによりも一般人民の支持が必要だからだ。

人民は、国民党軍閥を憎んでおり、その動静をさぐり、その小部隊や落伍兵を待ち伏せして、殺し、輸送部隊を捕虜にしたりした。

その結果、敵軍は、遠くからやつらの動きを見張っている。

はだしの百姓を、一人でもみつけると、たちまち恐怖におそわれて、前進を中止するという時代がきたわけだった」


紅軍第四軍は1928年の6月の第一週、井岡山周辺の6つの県で、地主と軍閥に対して攻撃を始めた。

たった一週間で紅軍は3つの区から敵軍を一掃し、軍需品を奪い、1200人を捕虜にした。

区役場に人民代表会議が樹立され、各村々にも下級人民代表会議がつくられた。

土地は農民に分配され、農民は武装し訓練された。

婦人や青年、労働者の同盟が建設されて、ここで婦人は男に従属するという昔からのしきたりが取り払われた。


江西省中央部から派遣されてきた敵の諸部隊は追い返された。

子どもも老人もできる限りの働きをした。


その当時大都市の外国新聞や中国新聞には、革命軍のことが「紅匪の残虐行為」として紙面でさかんに活字になっていた。


蒋介石将軍は競争相手の軍閥と一時的に休戦協定を結んで、四万の軍隊で井岡山地方を3つの省から包囲し、「紅匪」を餓死させるように命令した。


この井岡山地帯を北方から封鎖するように命じられた湖南の諸師団の中に二人の若い士官がいた。

一人は大隊長黄公略であり、もう一人は臨時に一個師団の指揮をとっていた連隊長彭徳懐であった。

この二人はその後中国革命の歴史上目覚しい役割を演じることになった。

もう一人若い中隊長クン・ホー・チァンもいたが、1930年代に蒋介石側に寝返ってしまった。

この3人の国民党士官はみな共産党の秘密党員であった。


彼らの諸部隊は井岡山の北方地帯に駐屯していて、封鎖を圧縮するように命じられたとき、彭徳懐は旅団を率いて叛乱を起こした。

混乱状態の後、彭徳懐は二千人の部隊と数百人の鉱夫を引き連れて農村へ入り、ゲリラ地帯を作り上げたのであった。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋


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by far-east2040 | 2017-03-23 09:00 | 朱徳の半生