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孫逸仙夫人宋慶齡は国民党に対する歴史的宣言で、まさに中国の肺腑をえぐった。


「わたしたちは、人民をあざむいてはなりません。
わたしたちは、人民のあいだに、偉大な希望をそだてあげてきました。
人民は、わたしたちに深い信頼をささげてきました。
この信頼にたいして、わたしたちは、最後まで、忠誠をつくす義務があります」


しかし国民党はすでに人民を裏切り、あらゆる主要都市や地方の街や村の路上は、労働者や農民、知識人たちの血の洪水となった。

「あれは共産主義だ」という野蛮な叫びをあげながら、胸の奥に希望のともしびを燃やしていた貧しい人々をかたっぱしから殺していたのである。


いたるところで希望が失われていくなか、中国共産党は敵と戦うか、それとも降伏するかを選ばなければならなかった。


19世紀の半ば、太平天国の乱の指導者のひとりの石達開も同じような窮地にたたされた。

そのとき彼はこう叫んだ。


「戦っても死ぬ。戦わなくとも死ぬ。

それならいっそ、戦おうではないか」


だが、歴史は決してそのままくり返すことはないことを共産主義者は知っていた。

彼らは断固として戦い、かつ生き延びようと決意したのである。


1927年7月18日、朱徳は南昌からそれほど遠くない一小村で開かれる共産党秘密会議に出席せよという招請を受け取った。

その会議では共産党の主な指導者たちがたくさん集まっていた。


上海で殺されそうになってあやうく脱出した周恩来、四川省でかろうじて死地を脱出した劉泊承、漢口政府の労工部長をしていた蘇兆徴、農業部長の譚平山、「鉄軍」の第十一軍と第二十軍の指揮官や参謀たち、さらにその政治指導者である葉挺、賀竜、葉剣英、李立三、劉志丹が来ていた。

これらの人たちが後の歴史を作っていくことになる。

その他朱徳が会ったことはあるが、名前は知らない人たちもいた。

その一人は背の高いやせた男で、農民運動の指導者で共産党の政治局員であり、国民党の中央委員にもなっていた男だった。

この男が毛沢東だった。


朱徳はこの会議で採決した大筋だけをスメドレーに説明した。

反軍閥、反帝国主義闘争は続けながら、同時に農民と労働者に武装させ、土地革命を始めるという方針を採択した。

朱徳も発言して、この決議に賛成した。


この新しい政策を実行に移す最初の行動は、南昌で「鉄軍」の武力蜂起を行い、続いてこの軍隊を広東へ進軍させ、新たに国民革命政府を樹立することだった。

南昌蜂起は収穫期を期した農民蜂起の合図となり、立ち上がった農民は地主の傭兵部隊から奪い取った武器で武装することになっていた。

後にわかったことだが、軍隊を使って農民蜂起を援助した指導者は毛沢東だけだった。


この秘密会議で採択された政策は、

反軍閥・反帝国主義闘争をつづけろ

南京と闘え、蒋介石と闘え

農村革命を開始せよ

人民を武装させろ

というスローガンに要約できる。


「私は、これらの対策のすべてに、賛成の票を投じた。
われわれみんなは、混乱とテロのまっただ中に立っていたのだが、私は、ついに肩の重荷をおろしたように感じた。
そのときまでは、私は、党の政策について、なんらの発言もしていなかったが、自分に与えられた任務だけは、能うかぎりの力をつくして、遂行していた。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋




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by far-east2040 | 2017-02-28 16:52 | 朱徳の半生

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上海の虐殺を知って、漢口の国民党中央委員会は蒋介石を党から除名し指揮権を奪った。

しかし彼は自分が主席とする別の国民党と軍事政権を南京に組織した。

一方、帝国主義列強が蒋介石に融資し、承認し、彼の政権を監督するための顧問を送ってきたのは2年後だった。

つまり蒋介石が反軍閥・反帝を完全にたたきつぶすまでは、彼を中国の主導者としては認めなかった。


いまや蒋介石は新旧の軍閥から人気を集め、彼らは続々と国民党に加盟したり、その政府に入った。

漢口の国民党左翼の多くのものまで、そっと南京の方に歩み寄っていった。

山西省の中世的な軍閥閻錫山は「北方革命軍」の総司令官に任じられ、後に蒋介石政権の国防部長になった。

1927年の末までに、蒋介石は閻錫山だけでなく、北京の軍閥張作霖とも結んで共産党を根こそぎにせよと公言した。

北京の張作霖はこの新同盟の祝福のために、何百の北京の進歩主義者を捕えて殺した。


朱徳は反軍閥・反帝の運動の中心地である上海での殺戮を知って驚愕し、考える力を失うほどだった。


「それからの十年を通じて」と朱将軍はいった。

「中国のブルジョア階級は、帝国主義に圧迫されているくせに、しかも、その外国帝国主義および中国の封建的地主階級と、反動的な同盟をむすんだ。
こうして、ブルジョア階級は、蒋介石を旗頭にして、革命を裏切り、そして国民の敵になった」


上海虐殺の直後に、共産党は第五回大会を漢口で開いた。

朱徳は出席しなかった。

主要な国民党員は出席したが、ヨーロッパから戻ったばかりの汪精衞(汪兆銘)もいた。

彼は上海で蒋介石と秘密の談合をした後に漢口に入り、国民党左翼の中の彼の一派を秘密に召集し、彼と蒋介石との協定を承認させた。

共産党書記長陳独秀は、大衆運動に関しては自分の過去の過ちを認めたが、毛沢東の農村革命の理論や労働者農民の武装の問題を討議することは妨げ続けた。

しかも共産党は労働者農民の武装を遠慮すれば、決定的分裂がさけられるだろうと考えて、国民党左翼の指導者のいうことに従っていたと朱徳は語った。


1927年の5月から7月にわたって、反動攻勢のために全国的に血が流された。

汪精衞が首脳となった漢口国民政府は圧力をかけてくる蒋介石の軍と喧嘩の真似事を見せていた。


このようなはるか以前に起こった悲劇を思い出して、朱徳の声は低くするどくなった。


「国民党左翼政客と軍人とは、上海の虐殺とともに開始された反動攻勢に対して、労働者農民の支持をもとめて戦おうとしなかったどころか、大衆運動を弾圧しはじめた。

……

国民党の、左右の両翼の指導者とともに、故孫逸仙の衣によって身をつつんでいたが、真に孫の意思を明かにしたものは、その未亡人宋慶齡のみであり、彼女はその両翼をともに否定していた。
彼女は声明を発して、故孫博士は、ロシアがまだ帝政下にあった時に、すでに農村革命を唱道していたということをしめし、いま労働者農民の運動を『新しく奇怪な産物』であるとして非難しつつあるものを弾劾した。
また彼女は、1927年の農民は、孫博士が革命を起したころよりもさらに悲惨であり、大衆運動の弾圧は、国民への裏切である、といった。
しかし彼女は、すでに革命の影響下にある巨万の民衆は、勝利の日までその闘争をつづけるということを確信する、といった。


宋慶齡は彼女の亡夫の主義への忠誠を捨てず、数人の国民党指導者とともに、ヨーロッパに亡命した。


「1927年の7月中旬までには、大革命の幕はとじた。
左派の革命家たちは、ロシア人顧問とともに逃亡し、流血は河をなし、将軍たちは、反復常なく、いたるところ混沌たる騒乱だった。
蒋介石は、覇権に近づきつつあり、新旧の軍閥を手中におさめ、彼らをたがいに相争わせながら、自己の優越の地位を保った。
ちょうど1911年革命後に袁世凱が権をにぎったときのように、蒋も、外国帝国主義と中国ブルジョアジーと封建的地主階級との三つの力の合体によって支えられていた。
ちょうど袁世凱のように、蒋は、外人によって、愛国者、国家の柱石、大政治家、そして中国を統一する能力をもつ唯一の強い男、とよばれていた」


蒋介石は少なくとも袁世凱から一つのことを学んでいた。

袁世凱は基督教諸国に向って自分のために祈ってくれといった。

蒋介石は洗礼を受け基督教会員になり、すぐに妻と妾たちを捨てて、孫逸仙夫人と資産家の孔祥煕夫人の妹である宋美齡と結婚した。

朱徳は蒋介石のこれらの行為は「巧妙な戦術だった」といった。


孫逸仙の未亡人を義姉にすることによって、蒋介石は孫逸仙の正統な衣鉢をつぐものになった。

しかし孫夫人は彼女の夫の名が反革命の飾り物になることを防ぐために中国を去ったのである。

蒋介石は義弟として彼女にヨーロッパから帰って「慎重に考慮」するように打電した。

彼女はそれを無視した。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-02-27 09:00 | 朱徳の半生

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朱徳は上海ゼネストと南京事件の余波について語った。


南京事件の最中、蒋介石は船から市内に上陸したが、秩序を恢復することはしないで、急いで他の船に乗り移って上海に戻った。

そこで彼は労働者に武器を捨て、ゼネストを中止して工場に帰れと命令した。

当時上海にいた共産党書記長陳独秀は、労働者に向かってその命令に従うように勧告した。

すでにさまざまな経験を積んで目覚めていた労働者はその勧告を拒んだ。

漢口の国民党政権は布告して、今後は軍事は行政権に従うようにと命令した。

労働者は漢口の国民党政権の命を受けている上海の革命臨時政権に従うことを誓った。


労働者は蒋介石の行動を見ていた。

蒋介石は上海に戻ると、ただちに中国の銀行家、工場主、それから青幇と秘密交渉に入った。

青幇という秘密結社は何万という暴力団、アヘン売り、泥棒などから構成されていて外国人や中国人の反動派と結びついていたので、労働者や革命勢力から憎まれていた。


朱徳はさらに説明した。


もはやこの時には、革命をつぶそうとする国際的陰謀は、世界のあらゆる帝国主義国の首府から、上海に向って毒手をのばしており、外国人たちは、いつのまにか、蒋介石は結局は「過激派」ではなく、じつに善良な人物だったといい出した。
「外国人は、片手で蒋介石を撫でながら、もう一つの手で、国際武力干渉をもって、おどかした」


蒋介石もなかなかの人物で、本音を隠して計画を実行していた。

中国銀行団は蒋介石に、革命を捨てて独力で軍事独裁政権を打ちたてるなら、融資と外国の承認を約束すると申し出た。

融資の額についてはいろいろな噂があったが、スメドレーは1949年に最も信頼できる外国の情報から当時の貨幣で六百万元にすぎなかったことを知った。


この融資の代償として蒋介石に課せられた仕事は、漢口国民政府と縁を切ること、上海の労働者の武装解除をして元の工場に帰すこと、共産党をつぶしてしまうこと、国民党とソ連との同盟を断ち切ることだった。


しかしこの陰謀の全貌がはっきりわかるのは第二次世界大戦後のことだった。

朱徳はこの仕事には外国の干渉が関係しているにちがいないと信じていたが、スメドレーに物語っていた1937年の時点では証拠は掴んでいなかった。


第二次世界大戦後、上海での新聞の所有者兼編集長で反共産主義の闘士だったジョン・B・パウェル氏は自分の自叙伝『中国での二十五年』の中で、そうした外国からの干渉のことがいいことであるかのように書いてあった。


蒋介石は上海の労働者を弾圧するためには、自分の軍隊だけでは頼りにならないことがわかっていたので、秘密結社の青幇に頼った。

しかし青幇もこの仕事をするだけの十分な兵器弾薬を持っていなかった。

ジョン・B・パウェル氏は青幇の首領たちはフランス租界の行政庁といっしょになって、共同租界のアメリカ代表のスターリング・フェセンデン氏から積極的な援助を受けたと語っていた。

五千丁のライフル銃と弾薬を与えられ、反軍閥・反帝の本部がある中国人街の労働者に攻撃をかけるために、共同租界を通過する権利も得ていた。


だから、4月12日の真夜中に、同租界と中国人街との間にある門扉が音もなく開き虐殺は開始された。

夜の闇のうちに、蒋介石の軍に、「労働者の蜂起、暴動、殺人を、力をもって制圧し、法と秩序とを恢復せよ」との行動命令が下った。
三日間がたってみると、約五千の、労働者、国民党左翼党員、共産党員、無党派の知識人、などが殺されていた。
朱徳の旧友孫炳文も、殺されたものの中に入っていた。
ゼネストの組織者、周恩来は、捕えられ、広西軍の一部隊に送られたが、その隊は、彼が逃げるのを見のがした。


虐殺が終わると、蒋介石は青幇の親分を新しくつくられた労働組合の書記長に任命し、後には蒋介石の軍の政治主任にさせた。
青幇の暴力団員はそれぞれ揚子江の下流地方に派遣されて、虐殺行為を重ねた。


                               紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋








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by far-east2040 | 2017-02-26 12:20 | 朱徳の半生

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南昌の反動派による労働者団体代表者の会議襲撃事件の一ヶ月後に、四川からの報せがきた。

軍閥劉湘将軍が蜂起を弾圧して、数千の進歩主義者を惨殺したという内容で、朱徳の二人の甥も殺された。

その蜂起を率いたのは、後に「独眼将軍」として知られることになる劉伯承だった。

彼はかつては四川軍閥の一人だったが、革命に投じて共産党員になっていた。

朱徳は万県で会ったときの劉伯承を語った。


「劉伯承は、立っても坐っても、いつも動いている、という男だった。
それから、どうして軍閥稼業をやめて孫逸仙の方に走り、かつ共産主義者になったか、ということを、私にはなした。
私たちは夜が明けるまで話しあい、たがいが、道を探し求めて、ついに共産主義に突きあたるまでの、さまざまなことを語った。
劉が私をたずねてきたのは、楊森の軍隊ではたらきたい、という希望からだったが、私は逆に、劉湘に反抗する革命軍を組織するようにと、私の妻や友への手紙をつけて、南四川に彼を送ることにした。
彼は、生れつき、組織と指導の能力をもっていた。
数ヶ月のうちに、南四川一帯の進歩的勢力を組織して、軍閥を相手に力づよい蜂起をした。
だが、劉湘は強力な軍隊を投入して、彼を破り、何千の人々を殺戮したが、その中には、大湾から歩いて参加した私の甥二人も入っていた。
劉自身は、逃げることができて、漢口に、それから南昌にと、たどりついた」


ちょうどこの蜂起が崩壊し恐怖に支配されていた頃、イギリスの特別遠征隊が、アメリカ、フランス、日本の陸戦隊とともに上海に上陸した。

蒋介石の軍も上海に集結しつつあった。

外国軍の上陸の3日後、上海の労働者はストライキに入った。

このストライキは2回起こったのだが、すべて周恩来が組織した。

揚子江下流域の軍閥孫伝芳将軍は全力をあげてストライキを弾圧し、大衆への見せしめとして何百の労働者の首を斬った。


労働者はそれに怯まず、3回目のゼネストをやり全市を麻痺状態にした。

続いて兵器廠を襲撃し武器を手に入れて、孫伝芳将軍の部隊を上海から追い散らした。

そして蒋介石の軍隊を歓迎するために代表を派遣した。

ところが労働者の代表は、蒋介石の軍の司令部で期待を裏切るような冷淡な扱いを受けて、とまどうことになった


二日後、蒋介石軍の他の一支隊は南京に突入して、無数の敵軍を市中に追いまわした。

敵軍は逃げながら掠奪を始めたのだが、蒋介石の軍隊も多くのものが軍閥から軍に寝返ったもので編成されていたので、敵味方の区別がつかなくなってしまった。

その騒乱の中で、イギリスと日本の領事館その他の外国人の家が掠奪されて、6人の外国人が殺され、12人が傷ついた。


イギリスとアメリカの砲艦は即座に南京に向かって火ぶたを切り、騒乱を終焉させた。

それから陸戦隊をあげて、居留民を護衛して砲艦に迎えた。

この事件で数百の中国人が死んだ。


この「南京事件」はほとんど国際武力干渉を招くところだったが、蒋介石が反革命の態度を取るようになった多くの原因の一つにもなった。

蒋介石の方針は以前から決まっていたのだが、ここに至って、この南京事件の責任をすべて共産党に負わせて、軍内にいる政治工作員がこの暴発の元凶であると声明した。


外国人はこの解釈を喜んだ。

外国人たちも蒋介石も、ほとんど共産党に支配されていた「鉄軍」こそは全国で最も軍紀が正しい軍隊であり、かつて掠奪も外国人への暴行もしたことがないという事実を無視したのだ。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-02-25 12:02 | 朱徳の半生

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朱徳たちが楊森の軍から脱して武漢についたのは、「鉄軍」が軍閥呉佩孚の傭兵を放逐する準備をしていた頃だった。

当時「鉄軍」の約30%は共産党員だった。


朱徳がこの「鉄軍」の指揮者のひとりになることを希望していたのはほぼ間違いない。

しかし、国民政府は揚子江中流の江西省の首都南昌に新設された軍官学校の校長に朱徳を任命した。

この学校は朱徳もなじみ深い雲南軍が設置したものだった。

当時この軍を指揮していたのは朱培徳将軍で、ずっと漢口国民政府の命に従っていたが、しだいに蒋介石の政策に強く傾き始めていた。

朱徳は漢口政権の命によって、集まってくる学生の政治教育を強化することになった。


新軍官学校の千三百人の学生は、8ヶ月の在学期間中は南昌守備隊として服務したので、朱徳は南昌守備隊長にもなった。

それだけでなく、すべての治安機関を統一するために、南昌の公安局長にも任命された。

さらに南昌警察官のうちの四百名の訓練学校を作って、大衆運動を守る訓練を与える任務も与えられた。

これらのさまざまな地位によって、国民党の南昌中央委員会の一員ともなった。


南昌軍官学校の教官となった黄埔軍官学校出身の若い候補生たちは、軍官学校だけでなく警察訓練学校、農民運動講習所でも教えた。

彼らの一部は共産党員であり、国民党左翼であり、革命のイデオロギィの戦線を固めるという任務を負った。


南昌における反動派は少数だったが、政治的には強力だった。

彼らは高級軍人や官吏や富商や産業資本家であり、そのうちの多くは地主でもあった。

大衆運動との国内戦線の分裂が激しくなると、こういう人間たちは漢口の国民政府ではなく、蒋介石が指導してくれることを待望した。

そして少数の女を含めた六百人の農民が全省から集まって農民指導者となる訓練を受けていた農民運動講習所に対して一番敵意を抱いた。


朱徳が監督するあらゆる施設で教えたことは、孫逸仙が生前に宣布したすべての政治題目だった。


南昌時代には、一瞬も個人的問題を考える暇がなかった、と朱徳はいった。

夜明けから深夜まで、軍事と警察との両学校の行政をとり、農民運動講習所で教える部下の仕事を監察した。

何か特別の意味のある日には、それらの学校で演説をしなければならなかったし、毎月曜の朝には、軍官学校で、孫逸仙追悼の式を行った。

国民党の諸会合にも出席しなければならぬと感じたし、さらに共産党の会合があり、そこではたとえば、労働者と学生との特別グループの組織運営の問題などを討究し解決しなければならなかった。


共産党の会合の多くは、方志敏が校長である農民運動講習所で開かれた。

彼は工業技師として教育を受けていたが、中国が生んだ最も有能な農民組織者であり指導者となった。

1919年の五四運動の時に、指導者の一人であった彼は共産党員になっていた。


全国の五万人の共産党員、三万五千の共産主義青年団員のうち、約一千人が南昌とその周辺にいた。

彼らは学生でああたり、鉄道、ドック、河川、製陶などの労働者だった。

党各支部の中央理論機関はそれぞれ小新聞、パンフレット、冊子などを出し、研究グループと学校とを持っていた。


国民党右翼も秘密の組織を持っていて、南昌では孫文主義学会と名乗っていた。

孫逸仙が亡くなると、生前彼の政策を非難していたものも彼の名の陰に隠れる方が便利だったからである。

まもなく南昌の国民党右翼の孫逸仙クラブは反革命の秘密本部となった。

隠れていた連中は、1927年のはじめに蒋介石が南京や上海で農民や労働者の組合を弾圧しはじめると、明るみに出てきた。

そして江西にいた雲南軍も蒋介石を見倣って、農民や労働者の指導者の多くを殺した。


1927年2月中旬、南昌の反動派は正体を表して、暴力団を雇い、棍棒や鉄棒をもたせ、労働団体代表者の会議を襲撃させた。

激しい闘争の中、朱徳は何人かの暴力団を捕らえたが、彼らは孫文主義学会に頼まれたからだと公言して悪びれもしなかった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋





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by far-east2040 | 2017-02-23 09:00 | 朱徳の半生

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「鉄軍」と呼ばれていた第四国民軍に対して朱徳は情熱を傾けていた。

北伐軍が1926年中頃広東を出発したときは二個師団と独立一連帯の6万人だったが、武漢に到達するまでには20万人になっていた。

年末には漢口で三軍団に再編成されたときには40万人に達していた。


初期は敗れた旧軍閥の部隊が寝返って北伐軍に投じてきた。

だが、新たに「鉄軍」に参加してきたものは農民と労働者で、武漢では数多くの印刷労働者、鉱山労働者、漢陽造兵廠その他の熟練労働者であった。


「鉄軍」は全国民軍の中で最も階級意識が強く、よく訓練され、軍紀を保っていた。

広東で募集された初期の部隊も香港でストライキを行った労働者と広東の諸産業の労働者から構成され、士官とくに若い士官たちは黄埔軍官学校で訓練された共産党員やそのシンパであった。

軍内の政治部にいたってはすべて共産党員で占められていた。


かくて「鉄軍」は、政治的信念によって武装され、進むところあらゆる敵をうちくだき、労働者と農民に呼びかけてたちあがらせ、封建的規律と軍閥を恐れおののかせた。


総指揮者は張発奎で、国民党左派の当時の指導者であり国民政府主席であった汪精衞(汪兆銘)の徒党だった。

彼は「鉄軍」を汪の意のままに使える私兵と考えていたが、部下の共産党員たちは自らをただ純粋に革命に捧げていた。


1926年の末に武漢で「鉄軍」が三軍団に再編成されたとき、張将軍の部下と共産党員葉挺と賀竜将軍がそれぞれ指揮をとることになった。


葉挺は香港の裕福な家の出身で慎重で穏健な息子だった。

外国で物理化学の研究をしていたが、それを捨てて中国に帰って孫逸仙のもとにはせ参じた。

1922年広東共和政権を覆すようにイギリスにそそのかされた一地方軍閥によって、孫逸仙夫人の宋慶齡が殺害されようとしたのを救出した。

1923年黄埔軍官学校が創立されたときに入学し、共産党に入り、北伐のときに「鉄軍」の一指揮官になった人物だった。


賀竜将軍はそのころから中国の最もめざましい人物と見られていて、彼の友人や仲間はその名を聞くだけで唇をほころばせたという。

文盲で貧しい農民だった彼は、軍閥が華やかだったころに、自分も軍閥になることにあこがれた。

但し、自分のような貧農を集めて軍を作り、湖南西部の地主たちを追っ払ったので、「匪賊」という称号をもらうことになった。

また旧い農民秘密結社の「哥老会」の一員で「双頭の竜」という最高の称号をもっているという噂だった。

背が高くたくましく、猛獣も恐れないので、彼の名をちらっと耳にしただけで地主たちは荷物をまとめて逃げ出した。

彼にまつわる伝説は山ほどあった。


孫逸仙が1924年に広東革命政権を樹立したとき、賀竜は自分の軍を孫の指揮下に置いて、ただちに共産党入党の志願をしたがあっさり断られている。

北伐のときには「鉄軍」の旅団長だったが、1926年には「鉄軍」の一軍団の第二十軍の指揮官になった。

それまでに何度も共産党に志願しては断られていて、とうとう10回目に「規律を思い知らせるために」ということで認められた。

彼の軍には、数百の武漢の労働者が入ってきて、その農民兵士に政治的訓練を与えていた。


その賀竜の軍に広東省の東江地方から数百の農民が入隊した。

彼らを引率していたのは地主出身で知識人であった農民指導者彭湃だった。


彭湃は東江地方の最初の農民指導者だった。

自分の家の土地を農民に分配するという行為から出発して農村革命を始めた。

狂気の沙汰としか思えなかった家族から邸内に監禁されたが、脱出して組織運動を続行した。

しかし彭湃は1930年代のはじめに蒋介石に捕らえられ、32歳の若さで上海で殺された。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-02-20 12:15 | 朱徳の半生


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朱徳は蒋介石の謀略を友人と語り合うと、再び昔の悲観に捉えられそうだった。

彼はこの絶望的な心境からヨーロッパ時代に研究した革命理論に寄りすがろうとした。

そして、中国人のみが中国を救うことができて、共産党のみが貧しいものの党であると自らにいいきかせた。


ところが共産党は歴史は浅く、経験は少く、党員はまだ5万人ほどしかいなかった。

共産党の指導者たちは、国民党が権力を握っているというだけの理由で国民党の指導の下に動き、革命の根本問題についての主導権を要求することをしなかった。

これは党書記長陳独秀のもとで行われた。


陳は、知識人でありかがやかしい文化指導者であったが、土地問題と農民革命とについては何らの理解も持っていなかった。

また彼は、毛沢東の「農民革命を拡大し、農民と労働者とを武装せよ」という要求を、何度もしりぞけた、と朱将軍はつけ加えた。

陳は、1927年5月に武漢でひらかれた第五回共産党大会では、毛の農村問題を討議にのぼすことをすら拒んだ。
朱徳は、陳に対するロシア人顧問たちの影響は問題にしないという態度を見せながらも、はっきりと、中国の革命は、中国人によって純粋に中国的な問題について問われるべきだ、という彼の理念を強調した。


鄧演達は朱徳に3、40人の政治工作員を集めて、四川の楊森将軍の軍に政治委員制を導入させるように命じてきた。

朱徳が政治委員たちを連れて出発した頃、蒋介石は南京上海の占領計画を実現するために下流に向かった。

朱徳は万県に着くと、楊森将軍の司令部に行き「この軍閥の軍を国民軍内に編入し、朱徳を公式の国民党代表つまり政治委員に任ずる」という内容の辞令を差し出した。


ところが楊森は朱徳の行動に呆れ返り、あいかわらず金だけを求めてきた。

朱徳と楊森との長い問答が続いた。

楊森は自分の兵隊を人間のくずのように考えていたので、戦場で死ぬだけが義務の兵隊に政治教育を受けさせる必要はまったくないと断った。

朱徳はここで妥協した。

結局楊森は政治工作員が下士官を養成する軍事訓練所で教育することは認めたが、孫逸仙の三民主義と三大政策の中で民族主義以外は教えてはならないと命令した。

一方、楊森にとって「鉄軍」が放逐しようとしている軍閥の呉佩孚は自分が四川で地位を築くときに助けてくれた旧友であった。

楊森将軍は旧友と戦うことはできないという苦しい胸の内を朱徳に告げた。


朱徳は軍閥たちのやり方はよく知っていたので、以前から親しくしていた一人の参謀に何度か会って話をきいた。

朱徳が武漢に出かけた留守の間に、楊森は呉佩孚の使者と秘密交渉をしていたということを彼から教えてもらった。

数日後、その参謀は闇夜に朱徳の部屋に入ってきて、灯火をつけないで話をきいてくれと頼んだ。

なんと、楊森将軍はふたたび呉佩孚の方に賭けて武漢に進撃する計画をたて、手始めに朱徳と政治工作員全員を殺害するという内容だった。


夜が明けぬうちに、朱徳は政治工作員全員を召集し、万県を脱出し武漢へ急いだ。

10日後に、国民政府首都に到着した朱徳は、楊森に向かって打電した。


「貴下がわれらと戦を敢えてするならば、貴下を完膚なく粉砕するであろうことを、われらは警告する」


だが楊森は本心では名をあげたどこの軍とも戦いたくなかった。

「鉄軍」はただちに軍閥呉佩孚を攻撃したのだが、楊森は旧友を救うために一兵も動かさず、さっさと四川の古巣に逃げ戻った。


何ヶ月も続いた悲劇的な混乱の中で「鉄軍」は武漢に帰還したが、蒋介石は上海で革命を裏切り、漢口の国民政府は崩壊し、多くの指導的国民党員がひそかに揚子江を下って蒋介石の陣営にはせ参じた。


楊森も蒋介石と同盟を結んだのだが、武漢政権がくずれていくのを見て、湖北の村や都市をおそって荒らした。

農民組合に属する農民や労働組合に属する労働者、不従順な村人を残虐な方法で殺害したのである。

人民は武装していない上、「鉄軍」ははるか遠い江西省で革命の戦いをしていたので、楊森の軍はほとんど被害がなかった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-02-19 11:14 | 朱徳の半生

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国民党の政府は、広東から漢口へと移りつつあった。

その政府をうごかしてゆく国民党中央委員会は、もはや到着していて、その主要人物たちは蒋介石と秘密裡に交渉していたが、蒋の主張するところは、大衆運動は、これを即刻に解消させないまでも、その力を制限する必要がある、というのであった。


蒋介石はさらに多くの要求を国民党に向けて出した。

軍の中にある政治部は、国民党内の政治的勢力を軍人の上におくための力だったが、蒋介石や多くの将軍たちには脇腹に突き刺さったトゲだった。


この制度は孫逸仙がロシア人顧問団の勧告によって取り入れたもので、軍人権力の拡大と、個々の将軍が軍隊を私兵のように扱い軍閥になることを防ぐことが目的だった。

各部隊内に配置された政治工作員は農民と労働者を動員して、北伐軍を支援させ大きな力となり、封建的な社会秩序を揺るがした。

こうした政治工作員の大部分は共産党員か国民党の左翼だった。


蒋介石はこの大衆運動を解消し、軍内の政治部は全廃することを要求した。

政治部は軍命令に干渉しているというのが彼の意見だった。


さらに蒋介石は、大衆運動、軍内の政治委員制、共産党というのはロシアから輸入したもので、中国の国民性とは相容れないと主張した。

やがてロシア人政治顧問団の主席ボロディンを背後に国際共産党の暗影が漂っていると名指しで非難するようになった。


朱徳はその頃も後にも革命軍の軍団司令部に配置されていたロシア人顧問を重視したこともないし、蒋介石といっしょにいた二人のロシア人を遠目で見たことがあるぐらいで知った人はいなかった。


ボロディンと陳独秀が率いる中国共産党指導者たちが、国際共産党の政策に反対したといううわさも朱徳の耳に入ってきた。


その頃武漢で労働者も農民も武器を取って、革命を内側から裏切ろうとするものと戦おうという要求が出てきた。

朱徳もこの要求を支持した。

当時の朱徳は国際共産党の政策がどんなものであるか知らなかった。

とにかく、中国共産党の指導者たちは、ボロディンの賛同を得ながら、労働者や農民が武装することは国民党との共同闘争を割ってしまう恐れがあるとして認めなかった。

国民党と割れると、封建主義と帝国主義にふたたび支配されると危惧したからだった。


朱徳は、中国の問題はただ中国人によってのみ解決される、と感じた何百万の中国人の中のひとりだった。

彼は、ロシア人の忠告が何であろうと、中国革命はロシア人の仕事ではないのだ、と知っていた。

1911年革命はロシア人によって動いたものではなく、また1913年と1915年との革命蜂起も、そうではなかったーーということを、彼は、その生涯のことを物語る間に、しばしば、くりかえした。

ロシア人は、闘争の方法論をあたえることによって、中国を助けた、と、彼はいうのだ。


ところが、蒋介石はおのれの階級のためなら外国の忠告だけでなく内政干渉すらも反対ではなかった。


朱徳は四川の軍閥楊森将軍の国民革命への忠誠を誓う使節として武漢に戻ってきたので、蒋介石への面会を希望した。

蒋介石は「自分の戦略」のことで頭がいっぱいなので、そういうことにまったく関心がなかった。


朱徳は北伐軍の政治指導員になっていたベルリン時代の旧友鄧演達を訪ねた。

彼から蒋介石は大衆運動の弾圧を叫び、国民党の中央委員会を無視し、自己中心の戦略を強行しようとしていると教えてもらった。

つまり蒋介石は国民政府の主要な指導者が進める北伐よりも、まず上海を占領すると主張し出した。


この戦略は謀略でしかなかった。

というのは蒋介石は上海はむかし自分が足固めした土地であり、帝国主義者の堅城だった。
そこを占領すれば、彼は上海の買弁階級、外国の帝国主義者、そしてかれらのために動く秘密結社青幇という社会勢力に頼ることができたからである。


紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋




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by far-east2040 | 2017-02-16 09:00 | 朱徳の半生

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楊森将軍の説得を終えて漢口に戻った朱徳が見たものは、揚子江上の巨大な英艦が武漢三市に向けて照準を定めていた威嚇的な砲列だった。

英租界の中からは水兵が苦々しげに中国人のピケやイギリス帝国主義の打倒を叫んで行進する学生や労働者の隊列を睨んでいた。


朱徳は彼らを見つめ、未完に終わった1911年の辛亥革命の時を思い出しては悲観的になる瞬間に悩んだ。

今回の革命は労働者と農民が基盤となって支えていたことが大きく違っていたが、革命の隊列の中から新たな危険が生まれつつあった。

中国南部に大洪水のように広がった農民運動は、地主だったり、地主や商人の買辦の家族出身だった国民軍の高級士官たちを恐怖に陥れた。


朱徳はまもなく彼のもう一人の自己といえるぐらい密接に繋がっていく毛沢東の農民運動についての論文集をいくつか読んだことを記憶していた。


毛沢東は教育を受けた農民で、辛亥革命では一兵卒として戦い、「五四運動」の時は郷里の湖南省で指導的な働きをし、その省ではじめてのマルキシズム研究団体をつくり、やがて省の共産党のグループをつくった。

そして1921年7月1日の中国共産党の創建大会に代議員として出席した。


この毛沢東たるや、ふしぎなほど学識があり、深い思想力をもっており、新聞雑誌の編集者、評論家、詩人であり、1925年には、彼の省で、最初の農民運動の地下組織の基礎をつくった。孫逸仙が広東政府の樹立したときには、それに協力して、最初の、農民運動講習所を開設し、また、国民党の執行委員会の一員にえらばれた。


孫逸仙が広東省に植えつけひろがっていった農民運動に対して、地主階級と地方軍閥は激烈な戦闘を交えた。

無数の農民が銃で倒され、組織者、指導者が連れ去られたり殺されたりした。

地主たちは山地から匪賊をまねいて、村を焼かせ農民を殺させた。

一方、北伐軍の勢いに応じて、農民組合は地主から土地を没収して分配した。

これは中国史上のすべての革命蜂起のときに、農民がしたことであった。


朱徳が武漢に来た頃には、湖南省だけで二百万の農民が団結していて、その家族を合わせたら、少なくとも一千万の農民つまり省人口の半分になった。


この強大な蜂起についての毛沢東の諸論文を読んだときに、朱将軍は、はっきりと、その未来には危害がやってくる可能性があると、感じないではおれなかった。

この農民運動にも労働運動の場合と同じように、おそろしい反撃が、旧社会体制の勢力からのみでなく、革命軍の内部の、総司令蒋介石をふくめての多くの高級士官からも、加えられ、すでに多くの土地で、国民党右翼の指導者たちは、農民指導者たちを捕えて、獄に投じていた。


「鉄軍」(第四国民軍)が武漢をおさえ、労働者がさらに前進していこうと立ち上がったとき、反撃側も最後の追い込みを迫られた。

この時点ですでに30万人の産業労働者つまり三市の労働者の半数が共産党によって労働組合に組織されていた。

革命の勝利を可能にしたのは、この労働者と農民との運動にあったが、それは同時に国民党の指導権をあやうくするものだった。



紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-02-14 15:01 | 朱徳の半生

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朱徳は四川に向かう船に乗った。

途中漢口に上陸すると、その地を支配する呉佩孚将軍によって戒厳令がしかれていて、軍隊が市内を昼夜荒らしていた。

揚子江上のイギリスの軍艦からは陸戦隊が上陸し、出入りするすべての中国人の身体検査をしていた。

恐怖が市を覆い、憎悪がますます募っていった。


朱徳は法律に縛られない富豪を装って、堂々と街を闊歩したので捜索を受けることなく、中国の銀行に入り、湖北の労働者を指導する地区共産党書記に置き手紙をした。

あくる日、彼は労働運動指導者や武漢で軍事や労働運動の責任をとっていた国共両党の党員たちと会った。

そして南方の革命軍が接近してきたら、ゼネストを起こし、交通を麻痺させ、漢陽造兵廠の労働者は占拠して革命軍を待てという危険な命令を伝えた。


それからふたたび船に乗り、東四川の万県に上陸し、国民党代表としての信任状を楊森将軍に提出した。


「楊は、私を、朋友で旧友であるかのように迎えた」と朱将軍はにがい表情をしていった。


楊森将軍は朱徳が金を持ってきたと思ったようだ。

そして自分がいかに軍隊を維持するお金に困っているかを述べ始めた。

楊森は他のすべての軍閥の例にもれず、より多くの金を出す側につく気でいた。

しかし、当時の軍閥の誰もがしたように、軍隊が人頭税やあらゆる貨物にかける関税で実際はたっぷり稼いでいた。

揚子江を航行するイギリスやその他の外国船は治外法権があると主張していたが、中国人が利用しているのを知っていたので、そういう船の積荷に対しても容赦なく関税をかけていた。


楊森は何度も国民党の側に加わりたいと説明したが、まずは兵隊に払う給金がほしいといって、金は持っていないという朱徳を信用しないでねだり続けた。


「ぼくが君のためにいえることは、われわれの側が勝つのだ、ということであって、もし君が、われわれと合体せずに、われわれを相手にたたかうのだとすれば、君の将来の見込みは無い」と朱は相手につげた。


楊森は時間を稼ぎながら、しばらくどっちの側が勝つのかを見極めようとしているようだった。

朱徳は毎日諦めずに楊森に国民党の運動の意味を語った。

一方、革命軍の勝報もぞくぞくと入ってきた。

北伐軍は、何百万人の農民と労働者との蜂起によって打ち開かれていった道を進んでいった。

呉佩孚の子分の湖南軍唐生智は、無駄な抵抗を少しだけして国民党に寝返った。

北方では、2年前に国民党に入っていた馮玉祥将軍が国民軍を率いて華北の軍閥と戦っていた。

彼はクリスチャン将軍として知られていた人物だった。


楊森は地方軍閥が脱落してゆくのを見ていたが、それよりも不安だったのは中国南部の人民大衆が地主たちを都市に追い込んで労働者に叩かせていることだった。

楊森将軍も軍閥であると同時に大地主でもあったからだった。


しかし楊森は同盟者呉佩孚を支援する軍を送ることはしなかった。

9月はじめ、武漢でのゼネストの報が入ってきた。

労働者も戦い、革命軍は揚子江を渡ってすぐに攻落した。

「鉄軍」の名で知られていた第四国民軍はこのとき名を上げた。

指揮官は共産党員葉挺で、その他の「鉄軍」の指揮官たちの名も労働者農民の口にのぼるようになった。

一方この頃、毛沢東や周恩来も政治指導者の名として表れてきていた。


「鉄軍」が武漢を奪取した後でも、楊森は狐疑逡巡していたが、朱徳は理由がわかった。

湖南や武漢から逃れてきた地主や産業家が、楊森の司令部に来て、北伐軍の内部は大きく二つに割れているとうわさを伝えていた。

士官の多くは地主の子弟か産業家の一族のもので、読み書きのできない農民が自分たちの土地や財産を没収するやり方に反感を持っていた。

北伐軍の総司令官蒋介石は、農民組合から共産党員と国民党急進分子とを追い出し、軍内の政治部を弾圧しようとしていた。

孫逸仙はかつて、三大政策を祭用して、共産党との協力、ソ連との同盟、労働者農民運動の促進を唱道した。

地主たちは楊森に、国民党のもっとも「健全」な指導者たちはその三大政策に反対だったから、まもなく廃棄されるし、革命運動も消えていくだろうと報告していたからだった。


ところが、ちょうどこの時に、一隻のイギリス商船が揚子江をさかのぼってきて、万県に停泊した。

慣例に従って、楊森将軍の税官吏が調べるために小船で船に近づくと、銃弾が降りそそいできて小船は沈没して全員死んだ。

楊森将軍は怒って、軍隊にその商船を捕獲させた。

この事件のときに楊森は朱徳の勧告を聞き入れるようになった。


事件解決のための交渉が始まったときに、二隻のイギリス砲艦が船を奪回しようとやってきた。

互いに発砲し合い、五千人の中国人が亡くなり、万県は猛火に包まれたが、イギリス軍はその船を奪い返し引き上げていった。


この「万県事件」の報せは全中国に広がった。

国民党政府はイギリスの新たな暴行に対して激烈な弾劾声明を発表し、

共産党はイギリスの犯罪行為を並べ立てた宣言を出した。


万県事件の、唯一の「積極的効果」は、楊将軍を革命陣営に追いこんだということだ、と朱将軍はいった。


火災が収まり死者が葬られた後、楊森は国民党への協力を誓う使節として、朱徳を漢口に送った。




紫字はアグネス・スメドレー著 阿部知二訳『偉大なる道』より抜粋



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by far-east2040 | 2017-02-08 09:00 | 朱徳の半生